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はじめて哲学対話に参加したときのこと②:「自分のことばで話す」ことについて

今回は、前回に引き続き、哲学対話のまえでおろおろしている人たち、あとちょっとの勇気が出ない人たちの助けになればと思い、「はじめて哲学対話に参加したとき」をめぐったとあるインタビューを公開します。

このシリーズを通して、なんとなく「哲学対話、やってみようかな」とか「ずっと気になってたけど、とうとういってみようかな」なんて思ってもらえたらうれしいです。

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前回はこちら↓

*この【はじめて哲学対話に参加したとき】シリーズは全部で3本立てとなっています。次回の更新は2月5日(水)を予定しています。



Q1. 普段はなにをしている人ですか?名前とともに、すこしだけ自己紹介をお願いします。

ipです。普段は大学で心理学を勉強しています。
読書と喫茶店と美術館と古い映画館がすきです。


Q2. 哲学対話を知ったきっかけはなんでしたか?
哲学対話に興味を持った理由や、そのときの印象があれば教えてください。

哲学対話を知ったきっかけはちゃんすさんです。

大学受験生だったとき、ちゃんすさんの発信を勉強のモチベーションにしていました。もともといろいろなことを考えることが好きで哲学にも興味があったため、ちゃんすさんが投稿されていた哲学対話に興味を持ちました。


Q3. はじめて哲学対話をしたのはいつですか?また、どうして哲学対話をしようと思ったのか、そのときどんなことを考えていたのかなどを教えてください。

初めて哲学対話をしたのは昨年の夏でした。

近くでイベントがあると知り参加しました。
興味を持ってから、参加したいと常々思っていたのですがなかなか機会に恵まれず、たまたま街中の貼り紙で開催を知り勢いで申し込みました。
そのときは「男女のちがいとはなにか」について話し合いました。

街中の張り紙をみて勢いで申し込んだ、という部分ですが、このとき不安や緊張はありませんでしたか?
わたしなら尻込みしてしまうかもしれないなと思い、すごく勇気があるなあと感じました。

元々社交的な人間ではないので、怖いか怖くないかで言えば怖かったと思います。ただ哲学対話をしてみたいという気持ちを燻らせたままいても何も進まないし、なにか行動を起こしたい気持ちでいっぱいだったので一歩を踏み出した瞬間だったのだと思います。


Q4. なるほど。では、このときの哲学対話と比較して、ちゃんすのゆるっと哲学対話に参加したときの感想を教えてもらえますか?

初めて参加したイベントは年齢層がとても上で、私の次に若い人が50代後半という感じでした。1番上は80代後半であったため、やっぱりどうしても時代による価値観の差は大きいなと感じてしまったし、各々が好きな思想家の言葉や各々の知識を一方的にぶつけ合うような感じだったので、借り物の対話の場のような気がしてあまり得られたものはなかったなあと感じてしまいました。

ですがちゃんすさん主催の哲学対話は各々が各々のことばで考え話し、最後まではなしを聴いてくれるし話を聴くことができたので安心できて、とても心地の良い対話の場でした。人と関わらない期間が2年ほど続いた影響で、他者の思考をインプットする機会に飢えていた私は人の話を聴きたかったんだな、と参加を通して実感しました。たくさん話を聴いて考えて、自分の思考の幅も価値観も広がったなと思っています。

わたしの哲学対話の場が、「借り物の哲学対話」にならなかったのはどうしてだと思いますか?

わたしの話になってしまいますが、わたし自身も「借り物の哲学対話」の場に居合わせてしまったことがあり、すごく苦しくてつらかったのを覚えています。どうしたらそうならずにすむのか、「借り物の哲学対話」とそうじゃない哲学対話で何がちがうのか、、、わたしもとっても知りたいです。

借りた言葉で話すのではなく、みなさんが「自分自身」で対話に参加していると感じたからです。

初めて参加したイベントでは、自分がどう思うかとかどう感じているかを話す場所というよりは正論合戦のような、様々な先人たちの言葉を引っ張ってきてぶつけ合うような場所でした(誰かが自分の言葉を話したら「それは〇〇だから違う、〇〇はこう言っているんだ」で黙らせてしまうような)。

ちゃんすさんの哲学対話はルールにもあるようにみなさんが自分の等身大の言葉で話しているから、借り物の言葉で戦うような場ではないなと思いました。

なるほど。

そのような状況は、やっぱりルールによって作り出せるものなのか、それとも他に要素があるのか、ipさんはどう思われますか?
場をつくる側として、わたしも、自分にもっとできることがあるのか、はたまた、そのときたまたまそうなってしまうものなのか、いつも悩んでいます。

ルールの存在は大きいと思います。ルールが設けられていなかったり、参加者に哲学者の知識があったり、「聴く場」というより「話す場」という認識があったり、そういった細々とした要素があのような場を生み出したのかなと。

ちゃんすさんの哲学対話に参加される方は、ちゃんすさんの発信に触れている方が多いと思います。だからちゃんすさんが大切にしているものや大切にしたいものに共感したり理解している方が多いだろうし、そこに加えてルールがあることによって居心地の良い対話の場になっているのかなと傲慢ながら考えました。


Q5. ありがとうございます!では、次の質問です。
これまでに参加した哲学対話で、おもしろかった問いや、印象に残っている対話があれば、理由とともに教えてください。

今まで参加させていただいた対話の問い全て興味深かったし、未だに考えているものが多いのですが、特に印象に残っているのは12月に対面で行った対話の「サラダをとりわけてくれる人は気遣いができるのか」です。

今まで深く考えずに生きてきたけれど、改めて注目してみるとそもそも気遣いってなんだろうとか、気を遣えることはいいことなのかなとか、不思議な点や気になる点が次々とうまれてきてとても楽しかったです。最後に私のメモ帳に残った「気遣いはしなければならないのか」という言葉がずっとこころに留まっています。

あの対話は、わたしもすごくたのしかったです!
日常にありふれているちいさな出発点から、気づいたら哲学に顔ごと突っ込んでいる、みたいな対話を、もっとしたいなあと個人的に思っています。


Q6. 最後の質問です。
「なぜあなたは哲学対話しているのか」と聞かれたら、いまのipさんなら、なんと答えますか?

大きく言えば自分以外の人の思考に興味があるからなのだと思います。

私の思考が私だけのものであるように、ほかの人の思考は本来であればその人だけのもので他人が知ることはできません。しかし哲学対話という場は、他の人が生きていくうえで何を大切にして何を考えているのかをうまれた問い、そして対話を通して垣間見ることができると思っています。

もちろん全てを理解することなんて到底不可能だし、そこから感じ取ることができるものはほんとうに小さいです。その人の理解として正しいかどうかもわかりません。それでもその人の中にあった、本来見えるはずではなかったものを知ることで救われる瞬間があるし、視野が広がることによって優しくなれる気がしています。

「本来見えるはずではなかったものを知ることで救われる瞬間がある」というのは、どういうことですか?よければもうすこし詳しく教えてください。

本来であれば触れることはない、自分の中には存在しなかった他者の価値観や思考によって新たな価値観が自分の中にうまれ、呼吸がしやすくなるということだと思います。

自分の思考で形成された自分の中の価値観や常識は、100%私自身で構成されているため、私はとくに自分自身に対してこうあるべき、という固定観念が強く、無意識のうちに苦しめられていたことが多いと感じていました。けれど哲学対話を通して、自分にはなかった価値観に触れることでこうじゃなきゃいけないわけじゃないんだ。と楽になるような、そんな感じがしています。

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ipさんへのインタビューを通して、ひと口に「哲学対話」といってもそこにはさまざまな実践があって、さまざまな人がいて、さまざまな場あるということをあたらめて発見し、わたしがわたしなりの場をつくっていくための勇気が湧いてきました。いつか、わたしを通り道にして哲学対話に出会ったひとたちが、どこかで哲学対話をひらくひとになっていたらうれしいなと思います。

とてもおもしろかったです。ありがとうございました。

インタビュアー:ちゃんす(14時の大学図書館にて)

哲学対話の様子を覗き見できるように、十二月の哲学対話の様子をアップロードしました。ポッドキャストもあるので、気になる方はぜひ一度。


また、哲学対話に参加するのはまだちょっとこわいかもしれない・・・という人のために、チャットで哲学対話をする場所をつくりました!
わたし自身も試行錯誤しながらの運営なので、いっしょに場をつくってみたいという人がきてくれるとうれしいです。


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