長所でも短所でもある理由

あの人は頭おかしくて社会性がないんだけどそれ故に面白いアイデアを実現しちゃうんだよね的な、ひとつの性質を長所とも短所ともとることができるやつ。あれについて。

ぼくは昔から暗い奴だったから、自分の短所ばかり考えていた。でも屁理屈が得意だったから、短所を長所に言い換えることも自然にできた。
これがどういう原理なのか考えました。

これは一体なんなのかというと、まず、なにかしら「性質」を取り出してくる。性質はどこまでいっても性質であり、傾向であり、特徴であり、それ以上でも以下でもない。

ここに「基準」を与えてみます。

基準を与えられた性質は、基準との位置関係から「良し」「悪し」の属性を考えることができる。つまり評価をすることができる。
この「良し」「悪し」という評価が「長所」「短所」そのものになってくるんですね。

この基準は任意に与えることができます。
基準の設定次第では、評価を180度ひっくり返すことも簡単にできる。

長所、短所というのは、性質に基準を与え、その位置関係を評価することで生まれる。つまり観測者が必要なんですね。

ぼくが短所と長所を言い換えるのが得意なのは「ある性質に対して良い評価が得られる位置(基準)を見つけるのが得意だった」と言い換えることができます。

ADHDってものは知識としてかなり広まったと思うけども、これも現代社会が持つさまざまな基準が前提にあって、その基準から見て悪いポジションにある性質を「障害」と言っているだけのような気がしてくるね。
現代社会で普通であることから離れた感覚の人は生きづらく感じてしまう。当然と言えば当然か。
発達障害が障害として機能し始めたのは社会の近代化の副作用とも捉えられる。のかな?

アニメとかの、転生モノの作品で、なんかクソ役に立たない力を保持して転生したら無敵になった的なのありますよね。あれも基準のすり替えによって引き起こされる評価の変化の典型ですよね。

鬱の時って、自分は悪しき存在であるという評価が先行してしまって、全ての評価が「短所」になるように辻褄を合わせながら、自分の持ついろいろな性質に、それぞれ最適な(最悪な)基準点を与えてしまう思考回路になっちゃうみたいな感じなんだと思う。

他人や社会に勝手に与えられる基準なんかほっといて、自分で自分を、自分の中で評価できるように、自分で基準を置くということが大切にできると、有意義な人生が歩める気がします。

結果、これは他人軸と自分軸の話でございました。

この下に有益な情報は何もないですがぼくのお財布にも何もないのでチップください。

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