正解という幻想
正解を探す人が多いなと、なんとなく思っています。
Googleで検索をすればたくさん正解が出てきますし、食べログみたいなレビューサイトにもたくさん正解が出てきます。
こういう情報が手軽にインプットできる、あるいは勝手にされるような環境に身を置いていれば、正解を探すようになるのも無理ありません。
問題集が実生活として、解答集が前述のGoogleなり食べログなりである。という状態が分かりやすいかもしれません。
解答がすぐにわかる。それどころか既に叩き込まれているような状態で問題を提示されたら、そこであえて間違った回答をするなんてことは、普通しないと思います。
何か目的を達成するようなとき、コスパ、タイパの良い方法を知っているのに、あえて時間、お金を無駄にするなんてことは、あんまりできないです。
ただ、ここで問題になるのは、その解答集はどのように作られているのかという観点が蔑ろにされていることです。
「真実はいつもひとつ」というのは、有名なフレーズですよね。たしかに真実はいつもひとつです。でも、その真実に対する解釈はひとつには定りません。なんて考えたことはありますでしょうか。
幾何学の有名な公式に三平方の定理というのがあります。ぼくは中学の頃に幾何学にハマっていた時期がありました。そして、三平方の定理をいろいろな方法で証明できることを知り、大変興奮した記憶があります。
ここでの真実とは、三平方の定理そのものです。斜辺の長さを二乗したものは、他の二辺の長さを二乗して足した数に等しい。これはただ一つの真実です。そして解釈とは、この定理の証明です。
前述の通り、三平方の定理を証明するにはさまざまな方法があります。図形を用いた証明、数式を用いた証明、いずれにも多様な方法が考えられます。
ではここで「正しい証明」について考えます。
正しい証明とはなんでしょうか。それは真実を裏付ける根拠であることです。証明は正しさを根拠に新たな正しさを確認する作業であり、その正しさに文句の付けようがなければ、それは正しい証明となります。
たとえば、証明についてA,B,Cの3通りの方法を思いついたとします。実際に取り組んでみると、A,Bでは証明が成り立ったけれども、Cの場合は成り立たなかった。この場合、証明A,Bは正しい証明、証明Cは間違った証明と言えます。ここに反論はないとして、ではAとBの証明は、どちらがより正しいのでしょうか。
このふたつの証明は、どちらもひとつの真実に対する解釈の違いでしかありません。そこに優劣はありません。だから、このままでは「より正しい」証明などありません。そこで、ここに「条件」を与えます。
たとえば、この証明を試験のために学ぶのであれば、より早く回答を記述できる方が望ましいでしょう。逆に、幾何学に興味を持ってもらうような必要があるならば、より視覚的に分かりやすい方が良いでしょう。
条件を与えることで、その条件に適した「より正しい証明」が生まれる。というのが、なんとなくわかりますか?
これは何の話だったかというと、問題集の解答集はどう作られているのかという話なんですが、どう作られているかというと、たくさんの選択肢の中から、解答を作る人の都合で、上述の「条件」を加味した上での最適解、つまり「より正しい証明」を解答として掲載しているんじゃないでしょうか。
条件とはつまり基準のことです。
コスパの良いお店、タイパの良い勉強法、それはお金や時間を基準にしたら正解なのかもしれませんが、それが本人にとって本当に最適かはまた別の問題です。本人が時間もお金も二の次だったら、こんな基準には意味がありません。
今は、調べれば最適解っぽいものが出てくる。なんなら調べなくても出てくる。自分の置かれている状況や前提を蔑ろにして、他人の基準で与えられた解答を手軽にありがたく享受する。
仕方ないことだとは思いますが、これが良い状況だとはあまり思えないです。みなさんはどう思いますか。
最近より顕著になった気がしますが、間違いを叩く文化みたいなものにも辟易しています。出すぎない杭はほっときゃいいのに。出てない杭すら引っ張って叩いて何してんだか。
こういう風潮は、正解が与えられやすい現代の構造と全くの無関係ではない気がします。
みなさんも、知らずのうちに与えられている正解について、1度よく考えてみてはいかがでしょうか。