共依存
母はわりと若くして私を産んだ。
短大を卒業してすぐだったという。
生きていく為に、私を産んだ。
ただ母は少し子育てに自信がなく、愛情は沢山あったのに接し方が分からなかった。と、いま話す。
一緒にいるのが難しくて、保育園に預け
朝の1時間と寝る前の1時間しか会わないようにした。
世の中虐待してしまう人もいるけど、
わたしには無理かもと諦めた訳でもなく
ほっといたわけでもなく
ちゃんと保育園に入れて送り迎えしてくれていた。
父はいつだって黙っていた。
母がいる限りは父は意見もないし
ただただ母の後ろにいた。
小学生になり鍵っ子の私は住んでる場所柄、
ちょっと変な事件に巻き込まれる事が多くなり
夜の20時まで両親が仕事から帰ってこない状況に
急に心細い気がしていた。
学童の帰り道、黒いワンボックスが横を通り過ぎた。
冬の18時頃だ。
通り過ぎるときに車の中の人と目があった。
男の人たちがたくさん乗っていてこっちを見て
笑っていた。
スローモーションに感じた。
視界が黄色く染まる感じがする
50メートル少し先でその車がとまる。
咄嗟に私の頭の中にサイレンがなる。
近づいちゃだめだ。でも戻っても逃げる場所がない。
どうしよう。
私も足をとめたら警戒してることがバレてしまう。
心臓がバクバク音を立てていると
前方から自転車が向かってきた。
友達のお母さんが声をかけてくる。
助かった…
『すみません、
ちょっとそこまで乗せてください!』とお願いする
『え?…まぁいいけど、、』
怪訝な顔をする友達のお母さんの言葉を最後までは聞かずランドセルを背負ったまま後輪に乗せてもらう。
そのまま進行方向を変えず自転車が動き出す。
後ろを振り返ると黒い車も走り出していた。
理由も言わずただ学童まで乗せてもらったから
きっと、変な子。って思われていたと思う。
別のルートで家まで全力疾走で帰った。
バイクに乗っている男の人に腕をつかまれて
倒されたり
自転車のおじさんにすれ違いざまに体を触られたり
治安が悪い街で人通りがないと
本当によく遭遇してしまった
でも帰っても家には誰もいない。
友達との距離感とか価値観も合うまでは
中々上手くいかず、
でも自分がなにに悩んでるのか、
なにが必要だったのか。その当時はなにも分からない。
全てのそういう物事を
親に相談するという選択肢もなかった。
母は私がなにか話すと2倍とは言わず20倍くらい
問題を大きく受け取ってしまうことを知っていた。
私に余裕がないと、ただただ脅されるだけで
なんの解決にもならない。
ずっと心にしまっていた。
中学生になり、母は職業を変えてフルタイムの社員から
時間に融通のきく契約社員になった。
そこから少しずつ歯車が狂う。
会う時間が増え、母は私の行動全てに口出しするようになり否定するようになった。
いままで散々放っておいてくれたくせに何を今更。
それを伝えると顔をはたかれた。
ヘビースモーカーの母は家の中でもタバコを吸い
ダイニングテーブルの真ん中にはヤクザ映画さながらのガラス製の大きな灰皿があり、いつも吸い殻が山積みになっていた。
中学生の私は反抗期だったのか、母が反抗期だったのかは分からないが意見がぶつかると必ず取っ組み合いになり父に制され、その後は2週間以上口をきかないというのはざらだった。
どうしても母は他人の意見が受け入れられない。
間違えも認められない。
それを指摘することも許されなかった。
中学3年生の夏、例に漏れず受験生の私は毎日塾に通っていた。周りの子はお昼にお母さんの作ったお弁当を食べていたが私は3000円をもらいコンビニで買っていた。これはもう小学一年生から変わらない。夏休みに毎日高いお金が置いてあり、自分でコンビニに行く。もちろん残るのだけど回収もされない。それをずっと貯めていた。
この夏休み中に私は喉に食べ物が通らなくなるという状況になった。
今思えばピークに母とのトラブル、母と父の夫婦喧嘩、自分の受験、いろんな物事がドン被りしていた。
当時は訳が分からずご飯を食べなくなった私を母は内科に連れて行き、思春期だからじきに治る。という言葉を信じたのかいつまでも食べれない私を罵倒した。
『なに可愛こぶってんのよ』
『早く食べなさいよ』
『見てるだけでイライラする』
『私と同じ時間に食卓にいないで!!』
気付くと160cmに35kgという体型になっていた