行ってらっしゃい、旅の時間
グッとくる話を聞いた。
彼女は前の職場の先輩で、旅に出ていたのも、それを中断して東京に帰ってきていたのも知っていた。
けれど帰ってきた理由が、
「大好きな人に会うために」
とは知らなかった。それも札幌行きのチケットをあっさり破棄して。
そして話はこう続いた。
「隣にいたい。これから先も一緒にいたい。それでも、私は旅に出ることを決めた。」
詳しい内容はだいぶ省いてしまうけれど、彼女は「大好きな人に会うために」旅をするという夢をあっさり諦めて帰ってきて、「一緒にいたい」のにまた旅に出て行ったのだという。
「何かを守るために、旅をやめてしまうなんて、それで本当にいいのだろうか?」何度も問いかけた。意外にも答えは、YESでも、NOでもなかった。
その話を聞いてからずっと、涙が出ようか出るまいかと涙腺のあたりで相談しているような感じがする。なにか、胸に迫るものがあった。
でも、なぜこうも胸を打たれてしまったのか、理由が未だ自分でもわからない。彼女の「自分の欲求に忠実なところ」が羨ましかったのだろうか?それとも、わたしの大好きな彼も旅にでてしまうからなのだろうか?
わたし自身、いつも自分の欲求に従って生きてきた訳ではない。仕事も生き方も、自分の欲求をしっかり見つめて選択して生きてきたと胸を張って言えたらどれだけいいことか。
だからなのか今のわたしには、彼女がとてもまぶしく思えてしまった。
大好きな人に会うために自分の何かをあっさり手放したこと、
それでも結局、彼の隣にいることより自分の何かのためにまた旅にでたこと、
その自らの選択をYESともNOとも言えない正直な気持ちで捉えていること、
そしてそれらすべてをいい思い出にできたと言ってしまえる強さと、
それほどまでの”衝動”があることも。
自分の欲求に忠実に生きたい、ということが難しい時がある。それは勇気の問題だけではない。欲求というものがしばしばぶつかり合ってしまうからだ。
「好きだけど、別れたい」
「知りたいけど、知りたくない」
「進みたいけど、留まりたい」
「会いたいけど、会いたくない」
「信じたいけど、信じられない」
全部全部、欲求のぶつかり合い。誰かに強制されているとかではなくて、自分自身が同時に両方を望んでしまっている欲張りな状態。その気持ちを天秤にかけて、重さを測って、明らかな違いがあればどれだけ楽なことか。
けれどその欲求の重さを測ることはできない。そうしてわたしはなにかを選択をする。自分が信じられるなにかを選択する。それは大抵自分の中にある信念に基づいていることが多いように思う。
そのとき、わたしは「恋」だの「愛」だのを信じられない。
恋や愛という感情の、自分への曖昧な気持ちを信じきることができない。
それで結局「恋」や「愛」という感情よりも自分の中にある信念を選んでしまう。
恋においては、「昨日は好きだったけれど、今は好きではない」が存在する残酷な世界だと知ってしまったから。
何にでも一貫性があれば楽だ。そうすれば自分のことをもっと信頼できる。なのに、昨日と今日で思っていることが違う世界に、どうやって飛び込めというのだろうか。
行くんじゃなかった。言うんじゃなかった。別れるんじゃなかった。
行けばよかった。言えばよかった。別れたらよかった。
こう思ってしまう時、わたしは選択を間違えたのかなと不安に思う。
けれど実際にはどれも間違っているわけではなく、きっとその都度欲求の重さが異なっているだけなのだろう。そんな単純なことが、なぜだかわたしには難しく思えてしまう。恋にも仕事にも自由奔放に生きていきたいと思っていた頃があったけれど、どこか恋や愛というものを信じきれないところがあって、それがたぶんわたしのコンプレックスでもあるのだろう。
だから彼女がまぶしく見えた。
恋や愛なんていう曖昧なもののために選択を変えて
恋や愛なんていう曖昧なものに引っ張られないで選択を変える。
そういうあやふやな自分の気持ちに、そのままでいいと言えることが。
恋や愛なんていう曖昧なもののせいで、選択を変えるなんて最高じゃん。彼女には、そんな感情ひとつで夢にはしってほしい。そんな感情ひとつで夢をあきらめて欲しい。わたしには、どっちも同じことのような気がした。
行ってらっしゃい、旅の時間。
わたしももっと自分の心が望む方へ走って行きたい。