ミスiD自己PR ver.3.0
私たちは一体いつ大人になったんだろう。
できなくて困っていることができるようになったとき。学生時代の合唱のCDで涙したとき。成人を迎えたとき。一人で飲むためのお酒をスーパーで買ったとき。なんだかんだあったけどやっぱり学校ってよかったなと思ったとき。普通側の人間になったことを認識したとき。
私が必死で手に入れてきた小さな「普通」の細胞たちはいつの間にか勝手に増殖を始め、今となっては自分の身体の中に1本の大きな木として存在しているように思う。他人と比べれば大きさも形も違うその木を、自分の核だと勘違いして暮らしている。
大人ってそういうことなのかな、と考える。培った経験を細胞として、大きな「普通の木」が身体に生えてしまった人。それはたぶん美しく緑豊かで立派な木であって、私たちは気付かないうちにそれに水をあげている。生きることで毎日その木を育てている。小さな普通は次の普通を呼んで、合わさってそれなりの普通になる。普通。普通。普通。
なんだそれ、と思う。こんな想像をしてなんになる、と思う。私は普通になりたくて、なりたくてなりたくて仕方がなくて、やっと手に入れた普通と引き換えに失ったものに嘆いていた。「やればできる子」と言われていたあの頃にしかできなかったことが、輝かしくて、眩しくて、美しくて、それらを失った自分に価値を見いだせずにいた。
でも今になって思うことがある。普通になったから失ったんじゃない。大人になったから子供じゃなくなったんじゃない。もしかしたらこれは自分に言い聞かせているのかもしれないが、それでも私はこの絶望の中に今、共存という光を見いだし始めている。たぶん私は手に入れた「普通」を使うとき「普通以外の邪魔なもの」を木の影の箱にしまったんだと思う。誰も気付かないうちに、もちろん、自分自身も気付かないうちに。
しまったなら取り出せばいい。前にも言ったことがあるが、幸い、一度掴んだものは視界から消えてもそこに存在していることを、私は最初の自己PRを書いてから今までの期間で知ることができた。ぐちゃぐちゃは消えない。生きることは、新しい自分が増えることだ。
この世に存在する人が普通か異常かの二択で分けられるだろうか。大人か子供かの二択で分けられるだろうか。もし分けられるのならきっとその境目ははっきりしたものなんだろう。例えば二十歳からは大人ですといったような。でも私たちはたぶん気付いている。そんな簡単な選択肢で表せないような生活を送っていることに。グラデーションでも表しきれないような階段を上っては下りて、下りては上ってを繰り返しているうちに下りてるのか上ってるのかもわからず前に進んでいることに。
きっとここには大人も子供もない。普通も異常もない。あるのはあなたと私、それぞれの自分があるだけだ。
ミスiDのエントリーシートを書いた7月の自分に伝えたい。大丈夫、お前はお前だよ。これまでも普通じゃなくて、これからも異常じゃない、大人にだってなれないし、最初から子供でもなんでもない、いつまでたってもお前はお前。もし普通の木が存在していて、それが私自身を覆い隠そうとも、騙されるな、それも私が選びとった私であり、増えた私の一部であり、そしてそれが全部ではなく、私は私としてここにいるんだよ。
自己PR文はこれで4つ目になった。また1200字をとうに越えている気がするのでこの辺で終わりにしたいと思う。普通も大人も、あるようでなくてないようである世界で、私は私として生きていきたいと思う。