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ちゃんみらいのミリオンダウト②

優位性-確率で考える

 最高のプレーヤーは、確率の本質をよく理解している。
 ミクロ的視点では、個々のプレーは統計的に独立しており、各プレーの勝ち負けはランダムで予測不可能である。一方で、マクロ的視点では、プレーの一連の結果は、予測可能な統計的に信頼できる結果となって現れる。優位性のあるプレーによる成績は、レートに反映されて次第に明らかになる。その確実性の度合いは、優位性がどれほど優れているかに比例する。
 ここで重要なのは、一貫した勝ち枚数を得るために、「次に何が起こるのかを知る必要はない」ということである。すなわち、個々のプレーに特別な意義や感情を移入する必要がない。常に楽な気持ちで、優位性のあるプレーの維持に集中できる。その結果、ミスを犯して高い代償を払う可能性を限りなく小さくできる。なぜなら、自分のプレーに優位性があり、プレー回数が十分であれば、最終的には勝利すると真に理解しているからである。

期待を管理する

 私たちの期待は知っていることから生じる。何かを知っていると信じ込んだとき、自然に正しいことを期待している。しかし、非現実的な期待は、情報認知に悪影響を及ぼし、ダメージとなる可能性がある。なぜなら、満たされない期待ほど、精神的苦痛の原因となるものはないからだ。
 私たちの心は、精神的苦痛を避けるように設計されている。それゆえに、何らかの事象が自分の期待と矛盾していると、苦痛回避のメカニズムがその姿を見えなくしてしまうのである。
 例えば、このような経験はないだろうか。相手から予想に反したムーブが来て、ダウトをした(スルーパスをした、嘘乗せをした、真乗せしたと読み替えてもよい。)が、後に振り返ると、ミスプレーであったと後悔した。これは、相手がどのようなプレーをするか「知っている」と思い込み、その期待に反する状況に直面した時に精神的苦痛を伴い、その苦痛を避けようとした結果、与えられた情報を正しく判断することができなくなった好例である。私たちの苦痛回避のメカニズムは、勝負の世界において弊害となっているのである。

感情面のリスクを排除する

 精神的苦痛を含む感情面でのリスクを排除するため、その時その状況において、相手がどのようなプレーをするかについての期待を解消しなければならない。そのためには、率先して確率的観点からプレーを判断する必要がある。確率的思考を確立するには、確率的環境の基本原理と一致する確率的心構えを確立しなければならない。
 確率的心構えは、次の5つの根本的真実からなる。
①何事も起こりうる。
②長期的にみて勝利するためには、次に何が起こるかを知る必要はない。
③優位性を明確にする一定の可変要素には、勝ち負けがランダムに分布する。
④優位性があるとは、あることが起きる可能性がもう一つの可能性よりも比較的高いことを示しているに過ぎない。
⑤プレーのどの瞬間も唯一のものである。

 以下、各項目について検討する。

①何事も起こりうる。
 
どんなに時間や労力を費やしたとしても、相手の手札、相手のムーブを正確に把握することはできない。ダウトをしたところ予想に反するカードが出てきた経験は多くのプレーヤーにあるはずだ。不確実性を有するゲームである以上、この真実から逃れることはできない。

②長期的にみて勝利するためには、次に何が起こるかを知る必要はない。
 
なぜなら、③で説明するとおり、優位性を定義した一定の可変要素において、勝ち負けはランダムに分布するからである。
 また、すでに説明したとおり、満たされない期待ほど精神的苦痛の原因となるものはない。「何事も起こりうるし、また、何が起こるかを知る必要はない」と確信しているのであれば、自分の期待は常にその状況と調和しており、精神的苦痛を経験する可能性を効果的に打ち消すことになる。

③優位性を明確にする一定の可変要素には、勝ち負けがランダムに分布する。
 
コイン投げの予測において、予測が外れたとしても、そのコイン投げに裏切られたとは感じないはずだ。なぜなら、結果に影響するのは未知の可変要素であると真に理解しているからである。
 結果のランダム性を十分に予期しているプレーヤーは、優位性のあるプレーに従い、仮に勝利で終わったとしても、その結果に驚きが伴うことがある。それは、結果に影響するのは未知の可変要素であることを理解しているがゆえに、確実な勝利を期待していないからである。
 簡単な例を挙げる。シングル戦で2を出したところ、相手からBが乗った。優位性のあるプレーはダウトであると確信しているが、「Bが嘘である」と確信しているわけではない。そしてBが嘘であった時に、その事実に少しばかり驚くのである。

④優位性があるとは、あることが起きる可能性がもう一つの可能性よりも比較的高いことを示しているに過ぎない。
 
集める必要がある唯一の証拠は、優位性を定義するために利用している可変要素のみである。「ほかの」情報、すなわち、優位性を判断するときに通常使わない要素を利用した時、自分の計画にランダムな可変要素を加えることになる。ランダムな可変要素を加えると、何が機能し何が機能していないのか判断が難しくなる。そのままで自分の優位性が実現すると確信が持てないのであれば、優位性に自信がないのと同じである。自信を失えば、恐怖が生まれる。ランダムで一貫しないアプローチこそが、自分が恐れるまさにそのものを生み出しているのである。
 一方で、「優位性とは、単に、あることが起きる可能性がもう一つの可能性よりも高いことである」という信念と、「優位性を明確にする一定の可変要素には、勝ち負けがランダムに分布する」という信念があれば、「ほかの」情報を集める必要がない。コイン投げの予測において、直近の10回の結果を把握することが無意味であるのと同じである。
 簡単な例を挙げる。「ハンドの使命に従う」という信念をもってプレーするのであれば、相手が誰であろうと同じプレーをするべきである。また、相手の時間の使い方を優位性の判断に通常使わないのであれば、例えば相手が長考したことを根拠に次のプレーを決定してはならない。

⑤プレーのどの瞬間も唯一のものである。
 私たちの思考回路は、外部環境に存在する情報から、私たちの内部に存在する記憶や信念と類似したものを連想してしまう。このため、外部環境に対する私たちの考え方と、実際の外部環境の在り方には、もともと矛盾が存在している。なぜなら、外部環境には完全に重複する二つの瞬間はなく、その瞬間は唯一のものであるからである。
 どの瞬間も唯一のものであるならば、次にどうなるのか「知っている」と確信できるものは、何一つないのである。それなのに、なぜ次に何が起こるのかを知ろうとするのだろうか?繰り返しになるが、「次に何が起こるかを知る必要はない」のである。
 各瞬間が唯一のものであると真に理解したとき、当然、その瞬間を心の中で連想するメカニズムはない。それにより、今の瞬間と、過去の瞬間を完全に区別して考えられるようになる。連想の可能性が低くなればなるほど、確率的心構えはより強固なものとなるであろう。





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