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BAR HamCup
第1話 「嘘つきの夜」
深夜零時前、硝子越しに見える街灯が雨に滲んでいた。グラスを磨きながら、俺は通りを行き交う傘の群れを眺める。この仕事を始めて七年、人の心が最も揺れるのは、こんな雨の夜だと学んだ。
ドアが開き、スーツ姿の女性が入ってきた。三十代半ば、化粧が少し崩れている。髪から零れる雫が、高価そうなジャケットを濡らしていた。
「いらっしゃいませ」
「ジントニックを」彼女は疲れた声でカウンターに座った。「私、今日で会社を辞めました」
グラスに氷を入れる音が、静かな店内に響く。俺は黙ってカクテルを作り始めた。この仕事で一番大切なのは、話を聞くタイミングを見極めることだ。
「実は...辞めてなんかいません」彼女が自嘲ぶりに笑う。「明日も普通に出社します。部下の前で笑顔を作って、上司の機嫌を伺って...」
「なぜ、嘘をつく必要があったんです?」俺はトニックウォーターを注ぎながら、そっと問いかけた。
彼女はグラスを受け取り、氷をそっと揺らした。「日中の私は、いつも誰かの期待に応えなきゃいけない。完璧な上司で、理想的な部下で...でも、この瞬間だけは」彼女は一口飲んで目を閉じた。「この場所で、あの私から逃げ出したかったんです」
「ここではどんな嘘も、その人の大切な真実になります」俺は静かに告げた。「今宵限りの、あなただけの物語として」
窓を叩く雨音が、彼女の小さなため息を包み込んでいった。カウンターに映る彼女の横顔が、少しだけ柔らかくなったように見えた。