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BAR HamCup

第6話「父の背中」

作業服姿の男性が、ウイスキーのグラスを両手で包むように持っていた。頑丈な指には細かな傷が刻まれ、爪の際には黒い汚れが染みついている。

「日曜日にね」彼は氷を見つめたまま言った。「娘が、結婚したい人を連れてくるんです」

俺は静かに頷き、グラスに氷を継ぎ足した。透明な氷が、琥珀色の液体にそっと溶けていく。

「工場で働いて、三十年。娘にも女房にも、ろくな思いさせてこなかった」彼の声が僅かに震える。「でも、あの子は...勉強して、大学まで行って」

ポケットから財布を取り出し、色褪せた写真を見せてくれた。小学生の女の子が、満面の笑みで卒業証書を掲げている。

「この時からずっと、『パパ、ありがとう』って言ってくれて」彼は写真を大切そうに仕舞った。「工場の埃まみれの服着て、娘の晴れ姿見に行った時も、恥ずかしがらないで抱きついてきて...」

「素敵なお嬢さんじゃないですか」

「ええ。だから、怖いんです」彼はグラスを強く握る。「相手は娘の会社の同僚で。知的で、清潔で...こんな父親に、がっかりするんじゃないかって」

しばらくの沈黙が流れた。グラスの氷が、小さな音を立てる。

「お客様」俺は静かに言った。「その手の傷は、お嬢様の未来を作った勲章です。誇りを持って、握手してあげてください」

彼の目に、小さな光が宿った。

「実はね」彼が微かに笑う。「あの子が『パパに会わせたい人がいるの』って電話してきた時、声が弾んでたんです。久しぶりに聞いた、小学生の頃みたいな声で」

カウンターに映る彼の背中が、少しずつ伸びていくのが見えた。その夜の光景は、きっと娘さんが一番よく知っている風景なのだろう。

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