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BAR HamCup

第3話 「手紙」


午前1時を回った頃、店の扉が開いた。客足がほとんど途絶えるその時間に、スーツ姿の若い男性が入ってきた。いや、正確には入ってきかけた、と言うべきか。ドアの前で一瞬躊躇う仕草に、何か重い決意が見えた。

「いらっしゃいませ」

声をかけると、彼は申し訳なさそうに口を開いた。「あの、手紙を書きたいんですが...ペンと紙を、お借りできませんか」

俺は黙って頷き、カウンターの下から便箋を取り出した。そして少し考えてから、普段は滅多に出さない万年筆も。この重みのある筆跡が、今夜は必要な気がした。

「お飲み物は...」

「ああ、ウイスキーを」彼は席に着きながら言った。「ストレートで」

グラスに琥珀色の液体を注ぎながら、俺は彼の様子を観察していた。便箋に向かう手が、わずかに震えている。書こうとしては止まり、また書こうとしては止まる。カウンターに落ちる氷の音だけが、流れる時間を刻んでいた。

この仕事を始めて七年。人は時に、誰かに話しかけるように文字を綴る。そして時に、その言葉さえ見つからなくなる。今、彼はその狭間にいるようだった。

「差し支えなければ」2杯目を注ぎながら、そっと声をかけた。「どなたに宛てた手紙でしょうか」

「父親です」彼は俯いたまま答えた。「明日、手術なんです」
グラスを握る手に力が入るのが見えた。

「父とは、ずっと口をきいていなくて」言葉が続く。「大学を辞めた時から...今じゃ社長に就任したのに、まだ報告もできていない」

俺はグラスを磨きながら、ただ彼を見つめていた。時には、沈黙も必要な時がある。

「何て書けばいいんでしょう...」底をつく声に、迷いが滲む。

「お父様の名前から始めてみては」

提案に、彼は深いため息をついた。そして、ペンを取る。最初の一文字が、震える手から紙面に落ちる。それは不器用だが、確かな足跡のように、少しずつ言葉となっていった。

やがて、彼の肩からすうっと力が抜けていくのが分かった。書き終えた便箋を見つめながら、小さく呟く。「これ、届けに行きます」

「今から、ですか?」

「ええ」彼は立ち上がり、コートを羽織った。「父に会いたくなりました」

窓の外、東の空が白みはじめていた。カウンターに置かれた万年筆が、まだ温かだった。誰かの人生が、また一つ、動き出そうとしていた。

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