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BAR HamCup
第2話 「約束の夜」
時計が午後10時を指す頃、店の扉が開いた。白髪交じりの紳士、藤原さんだ。毎年12月24日、彼は必ずこの時間にやって来る。上質なコートの襟に、今年も同じ赤いマフラーが巻かれていた。
「いらっしゃいませ」
「ありがとう、ほんてぃくん」藤原さんは、いつものように3番の席に座った。「今年も、ブランデーを」
グラスにブランデーを注ぎながら、俺は彼の手元に目を向けた。左手の薬指に光る結婚指輪。7年前から一度も外した形跡がない。
藤原さんは時折、扉の方に視線を向けている。その仕草に気付いて、俺はグラスを磨く手を少し緩めた。「今夜は、お待ち合わせですか」
「ああ」藤原さんは微笑んで答えた。「きっと、もうすぐ来ると思う」
俺は黙ってうなずいた。彼が待つ人が、もう来ることはないと知っている。常連の警察官から聞いた話だ。7年前のこの日、藤原さんの奥様は、クリスマスプレゼントを買いに行く途中で事故に遭った。
「実はね」藤原さんがブランデーを揺らしながら話し始めた。「あの日、私は仕事を休んで一緒に買い物に行くつもりだった。でも、急な会議が入ってしまって...」
月明かりが、グラスを通して揺れる。
「妻は『じゃあ、この店で待ち合わせましょう』と言って...」藤原さんの声が少し震えた。「10時に、ここで」
俺は静かに新しいグラスを取り出し、もう一つブランデーを注いだ。藤原さんの隣に置く。
「ご一緒にいかがですか」
藤原さんの目に、かすかに涙が光った。「ありがとう」
窓の外で、小さな雪が舞い始めていた。彼は優しく微笑みながら、空のグラスに向かって囁いた。
「今年も、君に会えて良かった」