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BAR HamCup
第4話 「真夜中のジャズ」
深夜1時を過ぎ、店内にはビル・エヴァンスの「ワルツ・フォー・デビイ」が流れていた。
「マスター、このジャズ...懐かしいな」
カウンターに座った老紳士が、ウイスキーのグラスを軽く揺らす。
指の動きに、かつてのミュージシャンの影を見た。
「お客様、ピアニストでいらっしゃいましたか?」
「ああ、昔はね」
彼は遠くを見つめた。
「今じゃ、教室でピアノを教えているだけさ」
その時、ドアが開いた。
若い女性が一人、肩を落として入ってきた。
手には楽譜のファイルを抱えている。
「いらっしゃいませ」
「カシスオレンジを...お願いします」
声が震えていた。
俺は黙ってカクテルを作り始めた。
ファイルからはみ出た楽譜に、ショパンのノクターンの文字が見える。
「必ず、成功させなければ...」
女性が掠れた声で呟いた。
「明日のリサイタル、私にとって最後のチャンスかもしれないんです」
震える指で、彼女はグラスを強く握りしめた。
老紳士が、そっと振り返る。
「どの曲を?」
「ショパンの...ノクターン第20番」
「ポストゥーム」
老紳士が静かに言葉を継ぐ。
女性の目が大きく開かれた。
「実はね」
老紳士がグラスを置く。
「私も若い頃、同じ曲でつまずいた。本番前夜、こうしてバーで飲んでいたよ」
「...それで、どうなさったんですか?」
「散々だった」
老紳士が優しく笑う。
「でもね、完璧を求めすぎると、大切なものが見えなくなる。音楽は技術だけじゃない。君の心が奏でる音を、素直に聴かせてあげればいい」
俺は默って二つのグラスを見つめていた。
琥珀色のウイスキーと、橙色に輝くカシスオレンジ。
まるで時を隔てた二つの音が、静かに共鳴しているようだ。
翌日の夕方、女性が再び訪れた。
今度は、満面の笑みを浮かべて。
「マスター!昨日の...あのお客様には、お礼を言えなかったんです」
「リサイタルは?」
「最後の一音が、少し震えてしまって...」
彼女は照れたように微笑んだ。
「でも、初めて自分の音を、本当に聴けた気がして」
俺は静かに頷いた。
グラスを磨きながら、昨夜の老紳士の言葉を思い出す。
完璧な音楽より、心に響く音を。
それは、人生という演奏にも言えることなのかもしれない。