蜃気楼を追うのはやめた

note、8日目に突入。
「スキ」ボタンを押してくれた通りすがりの方へ
ありがとうが溢れる。

昨日より体調が良かったので、
外出まではいかなかったが、一通りの家事を済ませることができた。
おかげで精神的にとてもスッキリしている。

夫と暮らし始めてから気がついたのだが、
わたしは自分が思っているよりも綺麗好きだったようだ。
洗濯や掃除はたしかに大変だけれど
やらないことを選ぶ方が気分が淀んでいく。
本格的に冬になる前に、ベランダの掃除もしたいなぁ…


わたしは数年前から、
とあるオンラインのコミュニティに参加していた。
参加当初は独身一人暮らしで、コロナ禍だったこともあり、
そのコミュニティのおかげで、たくさんの友達ができた。
当時、コミュニティ内でわたしの名前が
良い形で広く知れるような出来事もあったので、
わたしを知ってくれる人や
わたしという存在に興味を持ってくれる人が沢山いて
おかげさまでたくさんのメンバーと親しく交流ができ、
かなり居心地が良かった。
ちょっと嫌な言い方になるが、承認欲求を
これでもかというほど満たされる経験ができたと思う。

同時に、そういう「他者から与えられる満たされ感」というのは
まるで砂粒のように、
手のひらからあっという間に滑り落ちていくことも知った。

誰かに認められる、称賛される…
それは確かにものすごく気分がいいけれど
そういう瞬間は本当に一瞬で。
時運に担がれたわたしの存在は、
あっという間に元の「その他大勢のうちの一人」に戻る。

ただ、一度その蜃気楼のような「満たされ感」を知ってしまうと
「また」「もっと」と何度もそれを求めそうになってしまう。
麻薬のようだなと思う。
「自分には確かにその価値があったはずなのに」
「あの時の自分はあんなに輝いていたのに」
それに比べて今の自分はどうだ、と。

思えば、わたしは長いこと、
その喪失感と闘っていたような気がする。

きらきらした自分に惚れ惚れすればするほど、
そうじゃない時間の自分を直視したくなくなる。
「わたしはこんなはずじゃない」
自分に対するおかしな期待ばかりが膨らんで
なんでもない、大したことない、パッとしない自分のことを
受け入れるのが怖くなるのだ。

本当は、わたしは最初から
「なんでもない」「大したことない」「パッとしない」。
そんな時間が人生の大半を占めていて、
それでも毎日生きていて、生活は続いている。

もとより、誰かに見せるための、
認めてもらうための、称賛されるための命ではないのだ。

そういう、(言い方は悪いが)地味で、
大したことない、パッとしない日々を
ちゃんと直視しよう、自分のために記録に残そうと
わたしは日記を書くことにした。

…なんとなく、noteを始めた理由が、
わかってきたかもしれない。

ヤマもなければオチもない、映えない日々を、
ちゃんと今日も生きたことを残す。
真っ直ぐではなく右往左往、迷いまくって
どうしようもないことに悩んで脳みそを浪費しながら
わたしは今日もここにいたのだ。

きらきらの蜃気楼ではなく、
すっぴんにスウェットでPCに向かう自分を、
わたしが認めて、称賛しよう。
今日は連続更新8日目だ。よくやってる。

また書くね。


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