「無能であるor有能である」という議論と、「幸せであるor不幸せである」という議論はイコールではない
幸せは人それぞれだけど、みんな幸せだったらそれが一番いいと思う。
どんなことが幸せに感じるのか、今自分は幸せなのか、
それを議論する必要はないと思う。
皆、全員が全員幸せになるために生きているといっても過言ではないのに、
地位も名誉もある人なのに、幸せではなさそうな人はいるし、
一方で派手な生活こそしていないが、幸せそうに見える人もいる。
自分は全くお金持ちではないし、ごく一般的な収入だろうから、
豪遊どころか、所々節約しながら生活しなくてはいけないが、
概ね幸せである。もちろん、将来への不安はあるが。
自分がもっと有能であれば、より多くの収入を得て、今できないことが
できるようになるだろう。例えば、毎年海外旅行に行くこともできるだろうし、家電は最新のものに買い換えられるだろうし、野菜もオーガニック系、肉類も国産のものだけにできるだろう。車も外車にするだろうし、住宅どころか別荘も買えるかもしれない。なんて贅沢だ。
だけど、自分が瞬発的に有能になるなんてありえないし、同じく収入が突発的に増えるわけがない。なのに幸せを感じている。
ここからわかるのは、少なくとも自分は、お金の量が幸せに比例していないのだろうと言うこと。もっと言ってしまえば、無能であっても幸せを感じることができると言うこと。つまり、
有能である ≠ 幸せである
無能である ≠ 不幸である
あえて大別すると、世の中には下記のような人がいることになるだろう。
①有能である + 幸せである
②無能である + 幸せである
③有能である + 不幸である
④無能である + 不幸である
自分のスペックを把握し、自分が今をどのように感じているかを理解することが必要だ。4つのパターンのうち、自分がどこに分類されるのかがわかれば、自分がどんなことに幸せを感じる人物なのか、もしくはどうすれば幸せを感じるようになるのかを整理することができる。
今の時代、様々なツールによって、有能側の人の話がいつでもどこでも聞くことができるようになった。彼らは皆有能(に見える)で、経済的にも成功を収めている。多くの人を惹きつけ、魅力的に感じ、本人も幸せそうに見えることが多い。彼らの話は、もちろん勉強になることもあるし、意識が高まることがある。
これが危ない。彼らの話を聞いているだけで自分が情報強者のように思え、自分も有能であると錯覚し、無能である自分が許せなくなってくる。つまらんプライドだ。このプライドがあったとしても、自分が無能であるという事実は変わらないし、隠しても何にもならない。
一方で自分が無能と決めつけて、勉強しなくていいというわけではない。
有能な人の話をまんま鵜呑みにして勉強した気になって、自ら学ぼうとしなくなるのが一番やばい。どんな動機であっても、意識が高まったら自分のできる範囲で勉強してみることをお勧めする。
自分が有能か無能か関係なく、学び続けることは人生を幸せにするためには必要なことだと言うことを忘れてはいけない。そんなこんなで無能を享受しつつ、幸せのために何を学ぼうか。
個人的にお勧めは哲学。様々なものの考え方や捉え方を学ぶことができる。
今回お話ししたのは、ソクラテスの「無知の知」に通づる話だ。
興味のある方は是非。