「ネタバレ」で終わらない世界
意味のわからないものを見たときほど興奮するし、その世界に没頭する。
ストーリーのなかに表象されるものの意味を考えることが、エンタテインメントの醍醐味だと思うからだ。「自分なりに考えること」には、とてつもない可能性がある。
私はこうして、3回見た。
クリストファー・ノーラン監督の最新作『TENET』を、3回見た。公開初日と翌日、立て続けに2回。その翌週には池袋の巨大スクリーンIMAXで。
初回は、予告編を見たくらいの前情報で鑑賞した。
案の定とても複雑で、時間軸とか物理とか粒子とかなんやかんや理数学的なことが入り乱れて、圧倒的な情報量の渦に巻き込まれた。
「あ、今のこれには絶対何か意味があるぞ。えーっと、さっき出てきたアレとつながりそうで……」と咀嚼しようとするそばから、また新しい謎と情報を浴びせられる。
それは「考えても仕方ない」と言わんばかりのスピード感。本物の飛行機が建物に激突して大爆発、ヨットは空を飛び、逆走する車で一心不乱のカーチェイス。迫力だけで圧倒されてしまった。
内容は、なんとなくわかる。わかるんだけど、ちゃんとはわかってない。でもとにかくすごい……初回はその感覚がとても心地よかった。
2回目に見ると「違う作品」
1回目の鑑賞後にパンフレットを読み、ウェブ上にある解説をチェックした。完全なネタバレまでは読まずに、「こういう設定ならば、こうなるはず」と自分の頭のなかで仮説を組み立て、それを確かめるために翌日すぐ2回目を見にいった。
複雑なストーリーテリングの醍醐味は、2回目以降の鑑賞から発揮された。
私の仮説は当たっているところもあれば検討違いのところもあって、その答え合わせもシビレた。
そしてまたたく間に、あらゆる意味がつながっていった。
「このシーンは、だからこんな表情をしているのか」。初回とは違う脳で見ることで、まったく異なる物語を味わうようだった。
3回目にもなると、より演出の意味がわかった。細かい表情の変化も。
いわゆる「逆行」と「順行」が入り乱れるシーンの描写も、理屈をはっきりと理解して楽しめた。細部のシナプスまでつながっていく感覚。初回では決して出てこない感情──あまりに切なくて、胸が張り裂けそうになったり──で、充たされた。
『もう終わりにしよう』なんて言わないで
同時期にたまたま、Netflix『もう終わりにしよう』を見た。
『マルコヴィッチの穴』『エターナルサンシャイン』の脚本、チャーリー・カウフマンの監督作品とくれば、一筋縄ではいかないのは見る前から明白だ。
過去と未来が混在し、時間が錯綜したり空間が歪んだり。「信頼できない語り手」や「神の視点」のような手法が容赦なくバンバン入ってくる。
ノーベル文学賞を受賞したカズオ・イシグロの最長編作『充たされざる者』と同様、理不尽な夢の世界が表現され、受け手(読み手)が主人公自身の「裡(うち)」に閉じ込められてしまうような感覚だった。
これもまた、ネタバレどうこうというより、解釈の論争が大切な作品だと思った。
例えば本作を見終わって、意味がわからなくて「ネタバレ」を見に行くとしよう。そして「これは、こういう物語だ」と書かれているのを読むとする。
そこで一読して満足して終わるのではなくて、「じゃあなぜそんな設定にしたのか、その背景にあるものは何か」「なぜあの例えをあそこにもってきたのか、表現に隠された意図は」ということを自分なりに考える点においてこそ、意味がある。
つまり、わからないものを見ても、大丈夫だということ。「ネタバレ」に対して疑問を持ってもいいし、他人の解釈に納得いかなかったら、自分の考え突き詰めればいい。そういうことで読解力は養われると思う。
そういう作品を見たり読んだりするのが、やっぱりめちゃめちゃおもしろいんだなと、2つの作品を見て改めて思ったのであった。
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