待ち・望む 2020.8.31

それにしても、なぜ月が夜空に一つしかないことを気にするのか。ひとつである事に安心感を覚えるのか。あたり前の、揺るがない事実について気にするのはなぜか。月が増えることなどありえないのに。

昼間に比べてほんの少しだけ気温が下がった夕方、今日も外を散歩しているとお気に入りの川沿いにたどり着いた。そこは自分のお気に入りの場所であり、独自に湖水地方と名づけた場所だ。その川の周辺の景色はイギリスの湖水地方を思わせる雰囲気があるからだ。いつものようにカルガモが泳いでいた。川の水は少ないながらもキラキラと輝きながら流れていた。ここだけは10年経過しても変わらない、癒しの場所だ。この場所だけは川の側面がコンクリートの護岸に変わらないことを願っている。

さて、その場所を通り過ぎたが、今日はもう少し足を伸ばしてみようと思った。久しぶりに隠れ里まで行ってみるか。隠れ里とは、半年ほど前に発見した新しい散歩コースだ。長年住んでいたにも関わらず、このような広大な田畑が広がる土地が身近に潜んでいたとは驚きだった。たまたま近くの坂を越え、山あいの道を進んでみたら目の前に現れた土地だった。今でこそ癒しの風景と人々に感じさせる田舎の景観であるが、戦国時代などの昔であれば、大名に納める年貢や税金を徴収されないように秘密にしている村の農作地であるかのような雰囲気も感じさせた。

その場所を抜けて小高い丘を越えれば、再び元の街に戻る。出発から家までおよそ一時間のウォーキングコースだ。良い運動になるが真夏であれば、充分な熱中症対策をしておかないと危ういコースでもある。そんな緑が周りに広がるコースをゆっくりと歩き、小高い丘を超えたところで、前方に猫が現れた。

その猫は私が実家に住んでいる時に飼っていた猫にそっくりであった。おいでよっ!唐突に猫は言った。そう言ったように聞こえた。実際には猫の口は開いてなかった。テレパシーで伝わってきたのだ。猫が向こう側の下り坂を駆けて行ったので、思わず私は追いかけてしまった。久しぶりに走ったので足がもつれそうになった。

猫は予想以上に遠くまで私を導いて行った。それは先ほどいた場所とは正反対の川向こうの場所であった。一時間歩いた脚にはきつい距離であった。そして目の前には見慣れない丘が現れた。また小高い丘だ。もう勾配のある道を登るのは嫌であったが、猫は笑いながら、おいでよっ!おいでよーーっと楽しげに電波を発していた。正確には電波ではないのだろう。電波のようなものと言ったほうが良いのかもしれない。その周波数は楽しげで心地よく、周囲にネズミや小鳥がいれば彼らも同時に巻き込んで一緒に連れていきそうな陽気さであった。

ついに私は猫に向かって言葉を発した。ちょっと待って。疲れた…。猫は待っていた。猫は疲れている様子もなく私を見つめているようだった。気づけば空も夕焼けの色で染まっていた。下から見上げると猫は丘の上で夕日を浴びて、まるで偉大な何者かであるように存在していた。もし猫ではなく人間であったら、その場面は戦場で窮地に陥る同盟国を助けに来た救世主、もしくはイエスキリストのような偉大な人間が格好良く現れたシーンを想像させただろう。しかし、それは人間ではなく猫であった。それがとてもユーモラスな印象を私に与えた。そのことが私に丘を登らせる力を与えてくれた。

猫に向かって丘を登りながら今頃になって、今の状況が普通であればとても奇妙な現象であることを思い出させた。普通は猫が人間をこんな遠くまで誘導しない。いや、ごく稀にそのような話を聞いたり動画を見たことがあるが、これは何かが違った。そもそも猫が、しゃべったように感じたことを不思議に思わずに自分が行動していることが不思議であった。

ついに丘の上にたどり着いた。猫は一声、ニャーと鳴くと、やったね!と嬉しそうに語りかけてきた。僕は君をあの街に案内するためにここまで来たのです。猫は丁寧な口調で思いを私に伝えてきた。こんな街あったっけ?私は即座に思った。今まで気づかなかっただけだろうか。今まで知らなかった隣町を違った角度から眺めた風景だろうか。いや、たぶん違う。こんな場所は無かったはずだ。

猫は言った。この街への案内は終わりました。私はいつでもここで待っています。あなたが迷わないように。
ありがとう、と反射的に私の口から言葉が出た。私が今日は疲れたからもう家に帰ろうと思っていたのを猫は感じ取ったのだろうか。ここで待つっていっても君の家は?野良猫なの?猫はその質問には答えなかった。私は方向転換して家に向かって坂を下り始めた。坂の途中で猫のほうを振り返ると猫はもういなかった。

これは空想の世界なのだろう。私はそう思った。空想しながら歩くことはたまにある。半分は空想の世界なのだ。もしくは夢を見ているのだ。そう思って自分のほっぺたをつねってみた。痛かった。どうやら夢ではなさそうだ。そして、さっきの猫はどう考えてもはっきりと目の前に実在していた感覚があった。夢でも空想でもないとしたら、頭がおかしくなってしまったのだろうか。

家に帰り夜になった。念のため、寝る前に2階の窓を開けて夜空を見上げてみた。そこにはいつもどおり月が一つだけ輝いていた。

いいなと思ったら応援しよう!