塔2018年四月号感想③

続きを書いていきます。
やっぱりこうやって見ると誌面に載っている短歌の量はすごいですね。

★作品2欄 花山多佳子さん選歌欄から

子の生るるとき満つるごと梅の花夜道に香りをたどりてゆけば/岡本潤

全体にただよう格調が梅の香りを読み手にまで匂わせてきますね。なにより「子の生るる」という初句の、その祝福をするかのような景が祈りのようでうつくしいです。

ふくらはぎあらはにいでしをとめにも吹きすさびをり暮れの北風/足立訓子

あえてここを切り取って歌にするという視点が、なんかもう、おもしろいですよね。語順がいいんですよねー。「ふくらはぎあらは」から「をとめ」を出して「暮れの北風」で締める。視点がどんどんひとつのところから遠ざかってゆく感じがカメラワークとして機能しているように思います。

淑気穏る峡の神社の入口に「ドローン禁止」の札立ちており/石田俊子

じつはわたしの趣味は神社めぐりでして、神社検定二級という資格も持っていたりします。ですので最近、この手の看板は本当に増えたなぁ、というのは実感します。これと多いのはポケモン禁止ですね。
前半で荘厳な雰囲気をかもしだしながら、それを「ドローン」という言葉で崩しにかかるのが技巧かと感じます。

パソコンを相手に将棋を指す夫を視野に入れつつソースを煮詰む/江原幹子

休日の風景か、あるいは定年後の姿でしょうか。現在のどこにでもありそうな日常が、淡々と描かれているのだけど、その光景を思うと不思議な物寂しさもあります。結句「煮詰む」の語にわずかな毒が効いていて、どこか不穏な感じもただよってきます。

買ってきたパスタソースに玉ねぎを加えるきみがときどきこわい/多田なの

多田さんはこういうところを突いてくるのが非常にうまい。たしかにこわい。よくわからないけど、こわい。理屈っぽく言えば、既成のものに満足できずに必ず自分の手を加えなければ気が済まない「きみ」が、きっとそれは食べ物以外のもの、例えば「わたし」や「世界」に対してもそのような行動を取るのだろう……という予測。そうしたことが畏怖を呼び起こすのだけど、でも、この歌の「こわさ」はそういうことでなくて、もっと根源的で感覚的なままに享受するべきものなのだろうとも思います。

母の手に抱えられたる子の指が蕾に触るるまでを見ていつ/神山倶生

これもカメラワークと「蕾」という取り合わせが美しい。とてもとてもきれいな歌。結句にあえて「見ていつ」と主体の視点であることを示すのが、優しくて素敵です。

今日はよほど楽しい飲み会じゃないと割りに合わない なんの割だろう/北虎叡人

そんなことを聞かれても困る……困るのだけど、たしかに考えてしまう。それとこれとは本来バーターが効くものではないはずだけど、ふだんは一緒くたにして考えてしまう。そこの「割」を問うことで、その理不尽さを際立たせています。——なんの割だろう。

容疑者の家のベランダに干されてる子供の服がテレビに映る/鈴木緑

なんの容疑者かは分からない。けれど、ワイドショーかなにかで犯人の家が映されたときに、そこに容疑者にあったはずの生活が見え隠れしてしまう瞬間の気まずさ。あるいは近年によく騒がれる児童虐待の容疑者で、被害者の服であるという読みもできるかもしれません。テレビに移される情報と映像が日常とクロスするような不気味さがあります。

信号が赤から青に変はるとき渡る自由を我は持ちたり/三好くに子

月集欄で引いた松村さんの歌と同様の構造かと思います。この視点の持ち方はおもしろくて、わたしもどこかの作品でこのレトリックは使ってみたいですね。

★時評から

逢坂みずきさんの時評「読めないということ」

これはリアルタイムでツイッターで話題になっている「いいねされたい短歌」にも通じるところはあると思います。短歌のハイソ化だったり逆に民衆詩を指向したりというのは歴史の中でなんども繰り返されてきた話でもあるでしょう。
この話題については、大橋さんのブログの「コード」のはなしが興味深かったです。
→ http://blog.livedoor.jp/utagurashi/archives/53397708.html
ただ、一応これだけは言っておきたいのですが、木下・岡野・宇野は短歌文学外のところからコードを強く引いてきた作品であり、それが短歌を読まないひとたちにアジャストしたというのは括目すべき点であると考えています。
またこれらの作品は、必ずしも「わかりやすいコードを使っている」というわけではなく、「短歌文学的コードに大きく頼らなかった作品群である」としても認識をしておかなければならないでしょう。その認識を誤ると三者を単純に「大衆受けを狙った作品」として不当に低い評価をくだしてしまうような気がします。
(もちろん単純に「短歌文学的コードに拠っていない作品は下等」という見方をするひともあるでしょうが、個人的にそれはとても視野の狭い意見だと感じます)
ちなみに個人的には、「文学には多様性が必要」という主張をつねづねしていますので、両者が共存してそれぞれに混じりながら進化していくのが理想だと感じています。ただ、そのためには現状よりも広い読者層の広がりが必要だと思うのですが、つまり、どうしてもパイが足りてないという問題点はあると……むにゃむにゃ。

★作品2欄 前田康子さん選歌欄より

風のよるへあなたをかえして一輪の百合てらすべく灯を細めたり/宗像瞳

きれいすぎて嫉妬するレベルですね。まるで一字一句に美意識が詰まっているようです。恋人を見送ったあとに、一輪の百合だけを照らすために灯かりを弱くする。その景も、その行為のいじましさも、どれも詩であふれているように思います。個人的に今月号で一番の、とても好きな一首です。

無力なること思ひ知る冬の日の昼餉のうどんにたつぷり七味/今井早苗

あるあるというか、どうにも共感してしまいます。一方で、無力感というものを強く歌いながらも、うどんで、しかも七味、というところにちょっとほのぼのしてしまう感じもあって、どこか締まりきらないところが、また一首の魅力かと思います。

疾走の馬上の騎手は立ち上がり一鞭当ててゴールを切れり/大空博子

「馬上の騎手」は畳語だとは思うのですが、それがこの一首にリズムと勢いを与えているように感じます。わたしが競馬好きというのもあるのですが、それを差し置いても、迫力のある一瞬が切り取られていますよね。一枚の絵画のようなうつくしさがあります。

海岸にいたライオンを思い出す鳴くこともせず風に打たれて/大橋春人

これもまた絵画的な一首。どこか物悲しいセピア色の景色が浮かびます。ライオンは、もしかしたら石像かなにかなのかもしれません。鳴かず風に打たれるライオンに、なにか見る者の感情が重なるような、哀愁を呼ぶ一首です。

カーテンの隙間より入る木洩れ日のまだらの揺れに見とれる秋の日/中西よ於こ

これも景を想像してうつくしい一首。叙景的な自然詠としての魅力ですね。秋の景色そのものではなく、カーテン、隙間、木洩れ日、まだら、と、間接的になるように設置されてゆく語法がいいですね。

百年後はひとを容れざる森となれ虹咲くように郁子の種吐く/東勝臣

壮大な妄想がいいですね。やっていることは郁子の種を吐きだしているだけなんですけど、それが百年後の森という想像、そして虹咲くようにという比喩を持って、短歌のなかで詩的な行為として昇華されるのがおもしろいです。

困ったらとりあえずメルカリに出すつもりでいるよ長男の座は/廣野翔一

これは思わず笑ってしまいました。ちょっとした時事詠でもありますね。「長男の座」という売りえないものを売る、しかもそれがメルカリ……言葉遊びの面もあるんですけど、どこか奇妙に切実な面もあって、笑ったあとに考えてしまう一首でした。

同僚に言われ手洗いに迎えゆく凛とたたずむわが歯みがき粉/和田かな子

和田さんの作品はどれを引こうか迷ったのですが、この一首を。手洗いに忘れた歯磨き粉を取りに行くシーンでしょうか。語順と、また、歯みがき粉に対し「凛とたたずむ」という大仰な修飾詞をつけているところにおもしろさがあると感じます。

★とりあえずここまでで。急がないと五月号が来てしまう……。

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