「生の音楽」とか「真のうた」ってなに
『みなさんに、ききたいことが出来ました。意見でもいいです。好きな「音楽」「うた」への招待でも、本でも、声でも、電話でも。「生の音楽」とか「真のうた」ってなんなんでしょうか。』
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昨晩、科学未来館で珍しいものを鑑賞した。日本では初公演だったそうだ。世界でも初の試みもあったらしい 。それは、「アンドロイド・オペラ『Scary Beauty』」世界の人工生命研究者が集うALIFE 2018(人工生命国際学会)のパブリックプログラムとして日本科学未来館(東京・お台場)で発表された。アンドロイドオペラがなんなのか、という詳しいことはwebsiteを見て欲しい。http://scarybeauty.com/
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ぼくは実験的なものが好きだ。と思っていた。が、昨晩アンドロイドオペラを見て、あまりにも無感動な自分だったから、ぼくの中の保守的な自分という新しい認識を持ったくらいだ。もしくは、じぶんの身体感覚に素直な人間なのだろうか。周りの人々は、演奏中、後、大きく拍手をしていたりしたが、拍手はいつどのようにして人間社会に生まれたのか。と妄想に翼を生やしていた。
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Android Opera。指揮者の役を機械人間Alterに置き換えたことで、指揮者の存在が分解され、指揮をすることの意味や大勢の演奏者の中心に楽器を持たぬ存在がいることの意味が、立ち上がるのかもしれない。対照として、Alterの腕の動きはペタペタとしたものだった。が、演奏後、人間たちから送られた拍手に対しての"動かなさ"は、素晴らしく堂々としている存在に見えた。
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しかし、機械人間Alterは演奏後に拍手を求めた、だろうか?人間は演奏後のAlterに拍手を力強く送っていた(それはもう、ぼくが冷めるほどに)。機械に対して、拍手を送ることはどういう場面だろう。ぼくの日常生活では、例えば、自動販売機が水を提供したときに、拍手は。しない。感謝も伝えない。が、人間たちはAlterに演奏後拍手をした。拍手は、Alterが単なる機械でなく、拍手を受け止める存在と認知したという証なのだろうか。
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Alterは、調べて見たところ、以下の三つの目的で作られたらしい。
「(1)生命を持つように感じさせるものは何か?(2)機械人間は人間や他のロボットよりも、より生命を生き生きと感じさせるものになるか?(3)機械が生命を持つように感じられると、観察する側には何が起こるのか?」
だから、Alterに生命性を感じた人々が、拍手という行為によって、Alterを生命として迎え入れたのかもしれない。と思おうとしたが、演奏後のAlterへの人間の態度をみると、どうやらそうではないと思える。
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人間は、演奏直後のAlterを、拍手を送る存在として認めたうえで、演奏後、役割を終えたAlterを取り囲むようにして、記念写真を撮りまくっていた。日本の有名博物館に、海外から有名な絵画が運ばれてきて、人が写真を撮るためにむらがっている、みたいなニュースが以前あったと思う。あんな感じだ。ぼくは時々思うのだが、iPhoneを手にした群衆は、写真を撮りながらも、自分が相手から見られていることを、あまりに忘れようとしていると思う。
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Alterは、生命なのか。非生命なのか。拍手を送ったのは、なぜか。Alter以外にもたくさんの人が、昨晩のオペラには演奏として関わっていただろうか。演奏後、演者としての人間は潔く舞台裏にはけ、Alterだけが天井や床と同じように、会場にそのまま残っていた。もし。生身の人間相手に、Alterにしたような、あんな無様な撮影の仕方は無礼だろう。つまり、演奏前後でAlterへの認知は一変し、"(人口)生命"から"(人工)物"に変身したということなのだろうか。。?
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また、昨晩のAlterは、指揮者という役割と、"うたい手"という役割を担っていた。うた、とは何だろう。Alterはうたう様な口の動きをしていた。が、音は会場のスピーカーから出力されていたと思う(少なくともぼくには、あの身体から音は出力されていたようには感じられなかった)。人間がうたうとき、うた(音、音波)は、唇から発されるのでなく、喉、身体、から発される。身体がもつ姿勢によって、情動によって、うたい手のうたは変化する。
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うたう身体をAlterは持っているのか。音楽はそこにあったかもしれない。が、うた、は、あそこにあっただろうか?ぼくはかれこれ14週間、「うたとはなんのか?」ということをずっと考え続けてきた。うたの要素を分解したり、人に聞いたり、はなしあったり、文献を調べたり。だから、「Alterはうたを、うたうことができたか?」というのは、ぼくにとって重要な問いである。
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単純に、ぼくはAlterが、嫌いなのかもしれない。Alterは舞台に上がり、拍手喝采を浴びていることに嫉妬しているのかもしれない。だから、Alterではなく、ほかの場面について考えてみる。Youtubeから流れる人間のうたは、PCのスピーカーから出力され、Liveで聞く人間の歌声もアンプから増強される。機械を媒介した音だ。うた(名詞)は、うたう(動詞)という行為によってもたらされる。うたには、うたう主体的存在が必要で、その存在を知っているから、youtubeもliveも感動できるのだろうか?
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Youtubeの向こうには、人の存在が見える。それに感動するのか?音は、結局は、スピーカーとか、から出ている。だとしたら、いまのぼくが「真のうた」として掲げているものを聞いた最後は、いつだろう。iPodや蓄音機、レコードなんかがなかった時代の音楽は、全て、生の音楽だったから羨ましいな、なんて思ったこともあるけれど。生の音楽、真のうた、ってものはなんなんだろう。
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