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【短編小説】 隠されぬ恋 4

 

 残された女性に目をやると、机に両肘をついて力なく下を向いていた。仕事を抜けてきたって言っていたけれど、もし本当にこれから仕事に戻らなければならないなら、とても仕事なんてできる状態ではないだろう。彼女の前に置かれている二枚の千円札が私には忌々しいものに見えてしまう。私だったら、バカにしているのかとお金を出されたことに怒っていただろう。でも彼女はそうはしなかった。
 割れたカップとほうきと塵取りを片付けたようすのマスターが戻ってきた。
「ごめんね、ありがとう」
「あ、はい」
 先ほどよりも気持ちが落ち着き視野がわずかに広くなった気がする。いつもより大きく脈打つ心臓をようやく認識することができた。決めた、今日は帰りにスーパーで甘いものを買って帰ろう。
 人が動いた気配がしたので見渡すと、あの小綺麗な人が立ち上がっていた。荷物と伝票を持って二枚の千円札を見下ろしている。五秒、六秒ほど二枚の千円札を見つめたあと、小さく深呼吸をしたのか胸のあたりがゆっくり膨らんですんっと元に戻った。二枚の千円札を掴み上げると、俯きがちにレジへやってくる。
 彼女は伝票とあの二枚の千円札をトレーに載せた。
「ありがとうございます」
 側から見たら伝票に向かってお礼を言っているかのように私のおじぎは不格好だっただろう。彼女の顔を見ることをためらってしてしまったのだ。今は顔を見られたくないだろうと私が勝手に判断してしまっただけなんだけど。レジを打っていると、あの、と彼女に声をかけられた。
「その、お騒がせして本当にすみませんでした」
 そう言い、彼女は頭を下げた。レジを打つ手を止めてその誠意をきちんと受け止めようと彼女に向き直ってみるけれど、なんて返したらいいのかわからず「あの、いえ、とんでもないです……」とまごまご返事をしてしまった。気の利いたことが言えない自分が情けなくなる。
「全部、聞こえてましたよね。恥ずかしい」
「いえ、そんなことは……」
 嘘をついてあげることで彼女の痛みは和らぐのだろうか。そしてその嘘は優しさに入るのだろうか。でも、私には嘘をつききることはできなかった。示し合わせたかのように物音ひとつしない静けさの中で、うるさいほどの人の意識にあてられているような気がしたから。彼女は両手でバックの持ち手をギュッと握りしてめいた。こんな居た堪れない状況で、みんなが聞き耳をたてていることをわかったうえで、彼女は謝罪を述べている、私にはそんな風に思えた。
 それ以上どうしていいのかわからなかったので会計へ戻ろうとレジに手を伸ばすと、彼女はぽそっと呟いた。
「本当は九年なんです」
「はい?」
 思わず彼女の顔を見た。彼女の顔を、表情を、その時にしっかり見ることができた。湧き上がる感情を鉛の重石で抑え込んでいるようで、悲しんでいると言えば悲しんだ顔に、怒りを堪えていると言えばそのように、彼女の気持ちを私が決めてしまえるような顔つきをしていた。
「彼、七年って言ってたけど、本当は付き合って九年なんです。……彼にとって私の価値はそんなもんだったってことなんですよね」
 ふふ、と彼女は自嘲した。
「気づいてたんですよ、私だって。彼にはもう別に好きな人がいるって。会社でも徐々に距離を取られていたから。あー、わかってたのになんで見ないフリしちゃったんだろ? 信じたかったのかな。九年も付き合ってて彼を信じたことは一度もなかったから。奥さんと上手くいってないとか、子供が大きくなったら別れるつもりだから待っていてほしいとか。そんな、普通なら騙されていると思う言葉を私は信じたかったんです。信じたかったってことは、始めから信じてはいなかったってことじゃないですか。現に私と付き合い始めて三年目のときに、彼に二人目の子供が産まれたって知ったときはショックでした。しかもそれ、同僚から出産祝いの相談を持ちかけられて知ったんですよ。ヤバいですよね。でも同時に「あー、やっぱり騙されてるか」とも思ったんです」
 わかっていたことだから私は大丈夫、と自分に言い聞かせるように気丈に振る舞う彼女の声が張りつめていた。
「彼、奥さんの悪口とか仕事の愚痴とか君にならなんでも話せる、本当の自分でいられるのは君の前だけだって言ってくれてたんです。仕事でだって彼を支えていたのは私です。その言葉を本物にしたくて、頑張ったんですよ。彼に尽くして彼に褒められるたびに、奥さんのことを私はバカにてしたんです。本当の彼を知っているのも受け入れているのも輝かせられるのも私だって。でも、きっとあの子にも同じこと言っていたんでしょうね。私のことも含めて。あー、馬鹿みたい」
 あとは『合計』を押すだけで会計が終わるのに、彼女の話を黙って聞いてしまう。
「このお金も彼女の財布から出てきたんです。どこか抜けている彼を支えているのは私、みたいな。そんな雰囲気出しちゃって。マウントってやつですよね。……でも、その気持ちすごくわかるんです。昔の私を見てるみたいでした。だからね、このお金を受け取ったんです。これは奥さんのことをずっとバカにしていた罰だと思って。こんな惨めな気持ちになるんですね」
 彼女を見ていられなくて下を向くと二枚の千円札が目に入った。あの若い女性にバカにされ惨めだと思われたまま彼との関係が終わる、それが彼女にとっての罰らしい。
「私ね、彼と付き合ってること、本当に誰にも言ってないんです。彼だって誰にも言っていないと思います。たまに知らない人から奥様って呼ばれるのすごく嬉しかったな。どこに行ったとか何を食べたかの写真とか、思い出の物とか全て私が持ってるんですよ……。そりゃなかったことにしやすいですよね。ふふ。やっぱり私って都合のいい女なんですよ。彼が本気なわけなかった。今までもこれからも彼の口から出る私の話は、私がどんな人で私をどれほど愛していたかじゃなくて、どんな恋愛をしたことがあるなんていう、ただの恋愛経験談のひとつとして酒の肴にされるだけなんでしょうね。そこには不倫相手の女がいたっていう事実だけで、私なんていないし、九年の年月も話のスパイスにしかならない。悪い男だね、恋愛経験豊富ですねって言われて嬉しそうに笑ってる彼の顔が簡単に目に浮かびます」
 潤いを増す彼女の瞳を見て「よかったら」とレジの下に置いてあるティッシュの箱を差し出してみた。彼女は「すみません」と言って一枚抜き出して丁寧に半分に二回折りたたみ、出来上がったティッシュの角で目頭から涙を吸い取った。涙で化粧を崩さない女の知恵だ。
「あーやだやだ。本当バカ。彼はきっと、私が最後まで都合のいい女やってくれるってきっと信じてるんですよ。ありえないですよね……。この九年、存在を消すことに労力費やしちゃった。目立たないように、でしゃばらないように、陰で支えていられれば幸せだって思い込もうとしてた。……でも、もう終わりにしてもいいですよね」
 そう言って彼女は唇を堅く結び、どこともなく上の方を見上げた。彼女の頬も耳も滾るように紅潮している。こんなことを言っても時が戻らないことも、私に弁明しても意味がないことも全てわかっているだろう。けれど言わずにはいられないのかもしれない。九年間も彼女の思いや日々を知られることはなかったのだから。唯一彼女の存在を認識していたのが、彼の新しい妻になる女性だったのだ。
 スーッと息を吸う音がしたあと、震えた声で「はあ……」と彼女は息をついた。
「さっき彼、自分が昇進するみたいな言い方してましたけど、実をいうと、昇進の話は私にきてたんです。うちの会社外資系で、実力主義なんですよ。けど私が彼の上司になっちゃったら彼との関係が本当に終わっちゃうと思って、私バカだから断っちゃった。もう一度上司と話してみようかな。プライドだけ高くて偉くなってチヤホヤされたいだけの男の鼻を実力でへし折ってやろうかな、なんて。いいですよね、仕返ししたって。……許されますよね」
 ティッシュをもう一度折りたたんで彼女は涙を吸い取った。
「頑張って」
 どこからか男性の声がした。少し驚いたようすで彼女はカウンターの方を見た。どうやらカウンターに座っている男性のどちらかが声をかけたようだ。
「すみません。話しが聞こえてしまって。おじさんの余計なお世話だってわかってるんですけどね。仕事もプライベートも覚悟さえ決まれば前に進めます。今は辛いでしょうけど、頑張ってください」
「そうよ」
 今度は女性の声が入りこんできた。彼女の顔が主婦四人組のテーブルに向く。
「これからは自分を一番大切にしてあげないと。お姉さん綺麗なんだから! 胸張って自分らしく生きて、あんな男ギャフンと言わせちゃえ! 応援してるわ!」
 うん、うん、と同席している他の主婦も同調しているようだ。
 彼女は下を向いて口元を手でおさえた。このまま泣き崩れてしまうのではないか、そんな不安が私の心をよぎる。身体を支えてあげたほうがいいのだろうか。彼女へ差し出してみようかと伸ばした右手は、私の身体からあまり離れることはなく様子を見るように中途半端な位置で尻込んだ。下を向いたまま大きく二、三度彼女は頷いたあとゆっくりと顔を上げた。先ほどよりも見るからに頬も耳も紅くなっている。目には瞬きひとつでこぼれ落ちそうな涙が必死に瞳にくっついていた。そんな状態でも、きっと彼女は涙を流すことはないだろう。これから何事もなかったかのように仕事に戻らなければならないから。明日からどんなに辛くてもその場で泣くことはできないのだから。瞳だけを見上げるようにしてまた器用にティッシュで涙を吸い取る姿に、今までもこうやってなんでもないフリをして耐えてきたのであろう過去が見えるようだった。何もすることも何にも触れることはなく、私は右手を引っ込めた。
「すみません、ありがとうございます。あと、お騒がせしてすみませんでした」
 それぞれに頭を下げる彼女は、はにかんでいるかのような表情をしている。どんな顔をしたらいいかわからないのかもしれない。
 彼女がハッとしたように私を見た。
「あっ、すみません、お会計……」
「あっ、すみません」
『合計』ボタンを慌てて押すと、合計金額がディスプレイに表示された。読み上げようとすると、彼女が先に告げた。
「これで足りますよね。お釣りは募金でもしておいてください。ご迷惑を掛けた上に長々と自分のこと喋っちゃって、本当にすみませんでした」
 深々と彼女は頭を下げた。お手本にするべき社会人の礼のように。
「かしこまりました。ありがとうございました」
「ありがとうございました。またお越しください」
 いつの間にかマスターが後ろに立っていた。彼女の想いを受け止めて二人揃って丁寧に礼をした。
 はい、と微笑んだ彼女は周りにペコペコしながらドアへ向い、ゆっくりとドアを引く。――カランコロンと彼女を送り出すドアベルが鳴った。
「ありがとうございました」
 
 空を見上げた彼女が肩甲骨を寄せるようにグッと腕を後ろに持ち上げているのがガラス越しに見える。あんな風に微笑む余裕なんて本当はなかったはずだ。優しい人だし、自分を犠牲する生き方をしていなかったら本来もっと魅力的な人なんだろう。そう考えながら、私は彼女を見送り続けた。
「頑張れ」
 誰にも聞こえないようにエールを送る。
 壁掛け時計を見ると、現在三時五十六分。クローズまでまだ五時間もある。今日は一日が長い。すでに気力をも使い切った気がする。もう何も起きてほしくない。
 横でガチャンと音がした。さっきのお釣りをレジから取り出したマスターが、ほとんど何も入っていない募金箱へ彼女の言った通りにお釣りの小銭を入れた。安いプラスチックの上に硬貨が落ちる情け無い音がする。それから千円札置き場にある今入れたばかりの二枚のお札を抜き出し、自分の財布から出した千円札二枚と交換した。
「なんとなく、なんとなくね」
 こういうどうでもいいことも気になるのがマスターらしいなと思う。
「それ、何に使うんですか?」
「うーん。新しいカップでも買おうかな」
「そのカップで飲んだコーヒー酸っぱそう」
 トランペットがメインのジャズが一曲、ちょうど終わりを迎えた。
 

ーーー完

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
吉奈

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