【短編小説】 隠されぬ恋 2
コーヒーを持っていくとそのテーブルだけ軽快なジャズの音楽は失われ、まるでエアポケットの中にいるようだった。
話始めるきっかけを、何かを、彼女たちは待っているのかもしれない。
各テーブルのグラスの水の量を確認するために、ウォーターポットを持ち私は店内を周る。
主婦四人組のテーブルのグラスに水を足していると、「あんた自分が何言ってるかわかってんの!?」と堰を切った大声が店内に響き渡った。
私は声のする方へ反射的に注意を払う。トゲトゲしい雰囲気から声を張り上げた主があの小綺麗な女性だと私はすぐにわかった。その女性の真向かいに座っている男性が「大きい声出すなよ」とたしなめている。あそこにあったエアポケットが隅々まで拡張したみたいに店内が静まりかえった。
目の前のテーブルに意識を戻すと、何が起きているのか気になったのか主婦四人組も覗き込むようにあちらを見ていた。「失礼いたしました」私は目の前にいるお客たちだけに聞こえるように詫びた。どうしてか、私が謝っている声をあの女性に聞かせてはいけない気がしたから。
ふいにジャズの音が戻ってくる。
キッチンカウンターに戻る途中に問題のあのテーブルをチラリと見ると、男性は裁きでも受けているかのようにうなだれていた。
冷蔵庫の在庫のチェックをして休み明けの買い物リストを作っておかないと。キッチンカウンターの小さな冷蔵庫の扉を開けて私はしゃがむ。私の隣でマスターが洗い物をしている。マスターは洗い物をしているときもとても静かで、洗い流す水の音でさえ気を配っているようだ。
エプロンからメモ帳とボールペンを取り出し、冷蔵庫の中を覗き込む。レモンがいるでしょ。キウイはまだあるけど……キウイって熟れないと使えないからなー。どうしようかな。
そういえば、あの険悪な雰囲気の三人はやっぱり恋愛関係のいざこざなんだろうか。俗に言う修羅場ってやつなのかもしれない。だとすると、遅れてきた小綺麗な人と男の人がカップルなんだろうな。あっバナナ買わないと。
「なにが一番大事なのは子供よ!あんたが言ってること何もかもウソじゃん!」
女性の鋭く放たれた刺々しい言葉が私にまで届いた。きっと彼女の狙いはその棘で彼の心を傷つけることだろう。それでも自らの声を極限に抑えているであろう彼女の配慮を私は感じた。あの二人は夫婦だったか。本当はもっと大声で罵ってやりたいと思っているのかな――牛乳と卵もメモに書いておこう。
「……大事だよ。子供が一番だよ。……わかるだろ」
ところどころ聞こえてくる男性の声は、語尾を強調して相手を制するように発している気がする。男性は分が悪いと威圧的な態度をとるタイプなのかもしれない。
「わかるだろってなに⁉︎ なにをわかればいいの?」
女性が喉から搾りだしたような少しかすれた声をだした。こんな会話を聞いてしまうとなんだか私まで感傷的になってしまいそうだ。
メモ帳に(玉ねぎ)と追記して立ち上がると、二人掛テーブルに座っている本を開いたままの女性と目が合った。
彼女は眉をひそめてこちらをじっと見ていた。何かを訴えている、それだけはわかった。彼女の席へ向かうと、本を開いたまま、本の角で、あの険悪な雰囲気のテーブルをツンツンと指した。彼女は本当に蚊の鳴くような声で「うるさい」とぽつりと言った。
そうか。でも、あれを注意しろと? わかるよ、あの小綺麗な女性は一度大きな声を出してしまったばっかりに、注目の的となってしまった。だから気になってしまうのはわかる。でも、注意される筋合いもないあの旦那から注意を受けて、それからは気をつけて彼女は話をしているじゃない。それに、自分の旦那が若い女と並んで座っていることの意味を彼女の立場に立って少し考えてあげてほしい。
……なんて思ったってどうにもならない。
「申し訳ございません」
私を流すように見る彼女の目がいやらしく私には映った。きっと配慮もできない店員だと思われたのだろう。ため息を吐きたい衝動にかられてしまう。
できるだけあの小綺麗な女性を傷つけることなく穏便に声をかけたい、私はそう思った。息を潜めるように近づこうとしたそのとき、その隣りの席で怪しい儲け話をしていた男がクルッと振り返り彼女らにこう告げた。
「すみません、さっきからうるさいんですけど。今、大事な話ししてるんで」
デリカシーのないやつめ! あんたの怪しい儲け話より大事な話しをしてるんだよ! 「ビジネスって難しいっすね」なんて前に愚痴ってたけど、そんなんだから人に信用されないんだよ! 今回の儲け話しも失敗しろ! 失敗!
思わぬ注意を受けた小綺麗な女性はひとまわり萎んだように見えた。「すみません」と小綺麗な女性だけが呟いた。怪しい儲け話しをする男を「先輩」と呼ぶ女性は信じられないものを見てしまったと言わんばかりに目がまん丸だ。
私の対応が一歩遅かったから、あの小綺麗な人を傷つけてしまったのだろう。申し訳なさに胸が苦しくなる。でも私は今、この場をどう対処するべきなのか見当もつかない。私だけこの状況から取り残されている、そんな気がする。
私はどうしていいのかわからずに、険悪な雰囲気のテーブルと怪しい儲け話しをしているテーブルそれぞれに無言で頭を下げる選択をしてしまった。客商売として間違った対応だろう。
そんな私に気がついたのはどちらも若い女性の方で、彼女たちも無言で軽く会釈し返してくれた。
カウンターキッチンに戻ろうとすると、本を読んでいた女性が呆れたようすで私を見ていた。
ーーつづく
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