【短編小説】 隠されぬ恋 1
こじんまりした店内には有線放送のジャズが流れている。そのジャズ特有なリズムを無視するように、客達のささやく声と食器を重ねる音があちこちで放たれる。
「失礼します。コーヒーお持ちいたしました。ごゆっくりどうぞ」
男性はコーヒーがきたくらいで集中を妨げられたくないのか、イヤホンをしているせいで私の声が聞こえなかったのか、微動だにせずパソコンの画面を睨み続ける。たとえ理由があったとしても、もし気がついているなら認識しているサインくらいは出して欲しいと、こういうことをされるといつも思う。
仮に、コーヒーがきたことに本当に気がついていなくてこの人がコーヒーを倒してしまったときは、私のせいになるんだろうな。
伝票を置きながら少しだけ様子を伺っていると、男性の視線はコーヒーに向けられた。そして気が散ったついでのようにメガネのブリッジを中指で持ち上げ直す。
気がついていらっしゃるようでなによりです。一つの懸念が解消されホッと胸を撫で下ろし、踵を返す。
ここは四人掛けテーブルが三つ・二人掛けのテーブルが二つ・カウンターが五席ある、本当に小さな喫茶店だ。
今お客は合計で十人いる。
まずカウンターに二人。一番右の席で五十代のサラリーマンが週刊誌を読みながらつまらなそうにコーヒーを啜っている。左から二番目の席では四十前後のサラリーマンがスマホをいじっている。彼はバナナジュースを飲むたびにストローで氷を混ぜる癖があるようだ。
キッチンカウンターを挟んでテーブル席があり、キッチンカウンターから見て右側の奥の二人掛けテーブルの席にさっきのメガネをかけた男性がいて、その手前のテーブルには静かに本を読んでいる若い女性がいる。
その二人がいる席の通路を挟んで主婦らしき四人組がコソコソ誰かの噂話で盛り上がっている。話題に上がっているツガワさんは、いつも一言余計なことを言ってしまう人らしい。
キッチンカウンター左側の奥のテーブルには、たまにやって来る儲け話をする怪しい男性と、その男性を「先輩」と呼ぶ初々しい女性。そして、入り口に近い四人掛け用のテーブルがひとつ空いている。
壁掛け時計を見上げると、現在午後二時四十二分。
クローズまであと六時間もあるのか、長いな。肩ががっくり落ちそうになる。時計を見上げたぶんだけその落差は大きい気がする。
この喫茶店でアルバイトを始めてもう三年になる。マスターと二人で火曜日の定休日以外、ずっと働いている。私は朝十時から夜九時まで。マスターにいたっては、朝八時から終わりまでずっと働いている。友達からは「ブラックじゃん!」と言われるけれど、飲食店勤務なんてそんなもんだ。
とはいえ休みの日の前日、つまり月曜日になると、二人共クッタクタになる。そうなると、身に付けた習慣と気力だけでなんとかやっている状態だ。
そして今日が待ちに待った月曜日。あともうひと息で長い一週間が終わる。お客たちにバレないようにグッと背筋を伸ばして気が抜けかけた身体に活を入れる。
活を入れたところで私の気力がどのくらい残っているのかわからない。だって、今日は朝っぱらからどっと疲れることがあったから。
当店に来るまでに道に迷ったと終始私に当たってしまうおじいさんが来店したかと思ったら、別の席でコーヒーの味が薄いとクレームが入った。お客様が注文されたのは、アメリカンコーヒーなんですよ。注文を間違えたのかアメリカンコーヒーを知らなかったのか。なんだかよくわからないけど、ブレンドコーヒーを出したら納得していた。あれはなんだったんだろう。前のめりになって怒っているおばさんがフラッシュバックする。
どうか、残りの時間が平穏無事に過ぎますように。
――カランコロン
「いらっしゃいませ。二名様ですか? 三名様ですね。こちらのお席へどうぞ」
二十代半ば程の女性が威勢よく入店する後ろから、四十代前半と思われる男性が現れた。
コーラルピンクの色をした切りっぱなしボブの髪型をした若い女性が醸し出す雰囲気は、春うららというよりも春荒れを予感させる。一緒にきた男性はぱっとしないクリーム色のトレーナーを着ていた。
そんなミスマッチな二人は迷うことなく並んで椅子に座った。女性が奥に男性が手前に。
私はトレーに水とおしぼりを三つずつ乗せていく。
「いらっしゃいませ。失礼します」
「コーヒーください。あと……何にする?」
持参した膝掛けを広げている途中に注文を聞かれた彼女は慌ててメニューを開く。視線が目的を持って動いているのが私に伝わってくる。
「オレンジジュースください。氷無しで」
「かしこまりました」
キッチンに戻りマスターに注文を伝えると、マスターは手際良くコーヒーを淹れ始める。マスターがコーヒーを淹れるときの所作は洗練されていて見ているだけで快い。
蒸らされたコーヒーはむくむくと起き上がって小さくプクッと呼吸する。コーヒーの呼吸で豊かな香りが小さな店内にゆらゆら漂っていく。
コーヒーと氷無しのオレンジジュースを持っていくと、男性は背もたれに完全に身体を預けてスマホを操作していて、若い女性は面接前の学生のような意気込むような姿勢でいた。
カランコロンッ
余韻のないドアベルが鳴る。そこには、グレーのジャケットと白パンツのピシッとした出立ちの三十代半ばと思われる女性が立っていた。小綺麗だけど、あまり人の印象には残らないタイプの女性だろう。
「いらっしゃいませ。お一人様で」
「いえ、待ち合わせです」
私が言い終えるのを待たずに、その女性は辺りを見渡す。なるほど、と私は思う。私はミスマッチな男女がいる方へ案内する。
「どうも」
女性はミスマッチな二人に挨拶をすると、私に振り「コーヒーください」と手短に言った。二人が姿勢を正したのが視界に入った。
ーーーつづく
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