【短編小説】 隠されぬ恋 3
カウンターキッチンに戻り客たちから背を向けて棚を整理整頓するフリをする。身体の中にあるモヤモヤしたものを消化したくて、ふーっと息を吐いてみても、口の中にある空気だけがただ出ていった。ため息ひとつまともにつけない。視線を感じ私は横を向く。すると薄い唇をきゅっと固く閉ざして二回ほど小さくマスターが頷いた。これは励ましてくれている可能性もあるけれど、そんな接客じゃダメだと言われているようにしか今の私には見えない。
いつの間にか一段と店内は静かになっていた。あの怪しい儲け話しをしている男性の淡々とした声と軽やかなジャズだけが聞こえる。さっきまで噂話で盛り上がっていたはずの主婦たちは存在を消したかのようだった。
ン、ンンッ……
男性の誰かが咳払いをした。
「……申し訳ないと思ってる。待っていてほしいって言ったのは俺だから。だからちゃんと話さなきゃいけないと思って。…………だよ」
「えっ?」
「三ヶ月前に離婚は済んでいるんだよ。あとは籍を入れるだけなんだ。コイツとはちゃんとしたくて。コイツは全部知ってて全部分かったうえで俺を受け入れてくれたんだ。」
「全部ってなに?」
「俺が結婚していることも、君と付き合っていることも。他にもいろいろ」
客たちからの死角でささっと水分補給をして気持ちを落ち着かせようとしていたはずなのに、グラスを持った手を止めてしまった。
「ちょっと待って。彼女と結婚するために離婚したの?」
「――うん。ごめん」
「ごめんって……」
止めていた手を動かし、水の入ったグラスを口元へ運ぶ。グラスを口につけ傾けると思った以上に水が流れ込んできた。グラスを傾けすぎたせいか、左の口角から一筋水が垂れてしまった。慌ててグラスを離し、口に含んだ水を飲み込んだ。顎からしたたり落ちそうな水をとっさに手の甲で拭きとる。グラスを置いてティッシュに手を伸ばし、顎に広げてしまった水分を抑えるようにして吸い取った。
「私、妊娠してるんです」
若い女性の澄んだ声がすーっと耳に入る。けして大きな声ではない。けれど、店内にいる人全員に聞こえるほどその一言は、よく通る声だった。現にいま物音ひとつしない。
「おいっ!」
と男性がたしなめる。
「わかってるよ。まー君がイオリさんを傷つけたくないのはわかってる。でも、二人共同じ職場なんだからすぐにわかっちゃうことじゃん。人から聞かされるほうがきっと辛いよ」
顎についた水を拭き取ったティッシュでテンテンと縦についた胸元の水を軽く拭き、そのティッシュをゴミ箱へ投げ捨てた。シンクへ向かい冷たい水で手を洗う。
カウンターの客を見ると、雑誌をつまらなそうに読んでいた五十代のサラリーマンは健康食品の広告のページをぼんやりと見たまま止まっている。もう一人のサラリーマンは目をひん剥いてスマホを見ていた。三分の一ほど残っているバナナジュースは、氷が溶け始めてバナナジュースと水が分離して薄い層ができているのがなんとなくわかった。しかしそれはまだ下げてはいけないモノだろう。カップを布巾で丁寧に拭いているマスターは顔色ひとつ変えない。マスターの隣にいると心が落ち着く。
「七年だっけ」
男が口を開く。
「君には感謝してる。公私共に支えてもらったから。だから、本当になんて言っていいのかわからない」
どんな気持ちであの小綺麗な女性はあそこにいるんだろう。ここからは彼女の表情を見ることはできない。糸が切れたパペットのように彼女は動かなくなった。テーブルの上にある力が抜けた彼女の左手の握り拳は、諦めなければならないどうしよもない事実を受け入れたようにも、大切な人から手を振りほどかれて呆然としているようにも見える。
「でも、これだけはわかってあげてください。離婚の時、まー君、あなたのこと黙ってたんですよ。あなたを最後まで守ったってことです。……それだけじゃダメですか? 私だって本当は、これからも二人が毎日会社で顔を合わせていくことが不安なんです。だからこうしてちゃんと話し合いを……まー君とちゃんと別れてほしいと思って来ていただいたんです。だって、七年? もお付き合いしてたんですもんね。だから、お互いにちゃんと区切りをつけてほしいんです。その方がイオリさんだって前に進めるじゃないですか。でも、凄いですよね。プライベートな連絡は一切しない。会いたいときは会社で合図を送り合って証拠を全く残さないようにするとか。私にはできないな。寂しくて連絡しちゃう。だからバレたんですけどね」
あの若い子めちゃくちゃなことを言ってる。だいたい、黙っていたことを守ったっていうのか?
「大変だったよ、離婚。慰謝料とか財産分与とか養育費とか。嫁、金の話しかしねーの。本当に君を巻き込まなくて良かったと思うよ。離婚の話し合いしているときはコイツの妊娠なんて夢にも思わなかったからさ、これから先大変だよ。金ほとんど持ってかれちゃったんだもん。だからさ、これから仕事、今まで以上に頑張らなきゃいけなくなるんだよ。そうなると、こういう個人的ないざこざはなくしておきたいんだ。わかるだろ? 俺も次の人事で昇進する可能性があるわけだから、君の上司になっちゃうじゃん。個人的な付き合いは終わるけど、仕事ではちゃんと協力してやっていきたいと思ってる。その方が君にとってもいいでしょ?」
ッパリンカラカラン――
足元で何か大きな音がした。それが何かが割れた音だと気づくのに時間は要らなかった。下を見るとカップが割れて粉々になっている。
「失礼いたしました」
一礼をしてからカップの破片を拾い集めるためにマスターがしゃがんだ。
「失礼いたしました」
私も続けて謝罪を述べ、破片を拾うのを手伝うために注意しながら屈んだ。マスターにしては珍しいミスだと思う。
「大丈夫ですか?」
「ごめんね、なんか力が入っちゃって。破片飛んでない? 大丈夫?」
「私は大丈夫です」
「良かった。悪いんだけど、ほうきと塵取り持ってきてもらえるかな。破片踏まないようにね、気をつけて」
ほうきと塵取りを持って戻ると、マスターが「ありがとう」と言って手を差し出した。私は素直にほうきと塵取りをマスターに渡す。予想外の出来事に身を潜めていた人たちの意識が途切れたようで、人の気配が戻ってきた。マスターがほうきで破片を掃き集めるたびに、割れたカップが擦れてカシャーカシャーと音がする。新聞紙を床に広げて手伝おうとすると、
「こっちは大丈夫だから、お客様お願い」
と言われた。
私は、はい、と返しホールへ出た。右側のエリアに向き「失礼いたしました」と声をかける。主婦たちのグループに顔を向けると、私に気がついた彼女たちはスマホを使っていたことを誤魔化すように隠した。私たちは何もしていませんよとでも言うように愛想笑いを浮かべる。本を読んでいる女性はページをパラパラと数枚戻している。本の世界にこもりたいのに、こもれないのかもしれない。コーヒーがきた程度では反応を出さなかった男性が軽く頭を下げてくれた。彼は今イヤホンをしていないようだ。
今度は左のエリアに向かい「失礼いたしました」と詫びる。あの怪しい儲け話をしていた男性は「あの、それで……」とまだ諦めずに勧誘をしていた。はるか前から相手の女性はうわの空だろうに。そして、みんなの注目の的となったテーブルでは、これから夫婦になるらしい二人がコソコソ何か話していた。若い女性がバックから財布を取り出し、千円札を二枚机の上に置いた。
「ここは出すから。今日は来てくれてありがとう。仕事の途中、抜けてきたんだろ? そろそろ戻らないとヤバいだろ。悪かったな、気遣ってもらって。じゃあ明日から同僚としてよろしく。イオリも幸せになって」
そう言うと、二人は立ち上がった。レジ前まで慌てて私は戻る。まだ座ったままの小綺麗な女性に深く頭を下げて若い女性はその場を離れた。男性がドアを引く。
カランコロン――
若い女性を見つめ、手でおいでと男性が促す。
「ありがとうございました」
浅くおじぎをして私は二人を見送った。
振り返ることなく二人は去っていく。ピカピカのランドセルを背負って歩む子供のように、陽に当たったコーラルピンクの髪が初々しく光っている。
ーーつづく
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?