【小説】 或、昼の出来事
この街にある空気の水分を全て吸い取ったかのように、鈍色の雲は重くどんよりとしている。まるで『もののけ姫』に出てくる命を吸いすぎたデイダラボッチのようだ。そんなにどんより重いのなら、少し雨にして返してくれればいいのに。アゴのうっすら白く浮いた皮膚を指先で掻きながら、僕は鈍色のデイダラボッチ雲を睨んだ。
「お待たせいたしました。こちらコーヒーと…ココアです。ごゆっくりどうぞ」
急に現れた人の気配に、志織の肩がはっとした。恥ずかしいのか店員とは目も合わせず小さな声で「ありがとうございます」とお礼を言う姿が、なんとも可愛らしい。
志織はいつものようにシュガーポットに手を伸ばし、砂糖をひと匙、そうっと湯気の立つココアに入れた。そしてもうひと匙すくうと、うーんと言ったように首を少し傾げ、えいっとふた匙目も入れる。カフェのココアってすでに砂糖が入っているんじゃないのか?
「ねえ、なに考えてたの?」
僕は志織を包み込むように声をかけた。女性はいい声に惹かれるらしい。
「んー?うーんとね……」
考え込んだ表情で志織はティースプーンでゆっくりと丁寧にココアを混ぜている。
「あのね。どうすれば逃げきれるのかな、と思って」
ココアを混ぜる手を止め志織が答えた。
「逃げきる?」
「うん」と志織は短く返事をし、ココアを小さな口でふーっふーっと吹き冷ますと慎重にスーッと一口含んだ。「うわ、甘くしすぎた」と眉間にシワを寄せた志織に、そりゃそうだろうと言いたくなった。
志織も吸い込まれるかのように、デイダラボッチ雲をぼんやり眺めていた。いや、眺めていたように見えただけで、きっと何も目に入っていなかったのだろう。志織がどこか遠くを見ているときは、彼女の頭の中で物語のタネが発芽し、それをすくすくと成長させることに魅了されている証だ。空想の世界にいるときの志織はどこか間が抜けたような顔をしている。
「逃げきるって、どういうこと?」
志織のことは何でも知っていたい。思わず目を細める。
「あのね、例えば、パパ活をしている女子高生がいたとするでしょう。その子のパパ活はご飯に行ったりカラオケに行ったりすることなの」
「うん」
「その子がね、ある日、相手の住んでるマンションに上手いこと呼び出されちゃうの」
「なんだよ上手いことって」
ずいぶん雑な流れに少し笑ってしまった。
「それはまだわからないけど……あっ!出張のお土産を渡したいだけだから、悪いんだけど取りに来て、とか。とにかく上手いこと呼び出されるの」
「ふーん、それで?」
「で、その子はなんの疑いもなくマンションに行っちゃうの。そしたら脅されちゃうの「パパ活していること学校にバラすぞ」って。「バラされたくなかったら俺の言うことを聞け」って。それでその子は、はずみで殺しちゃうの、相手を」
なるほど。今回はサスペンスかミステリーを書くつもりなのか。これは骨が折れそうだ。しかし志織の目はいつになく真剣そのもので、僕も力になれることは協力をしなければならない。それにもし、名探偵のモデルを僕で書いてくれて、その本がベストセラーにでもなって、ドラマ化されることになったとしたら。僕の役はぜひ松坂桃李君にやってもらいたい。うん、彼がいい。よし、少し気合いが入った。
「じゃあ、逃げきるっていうのはその女子高生?」
「そう」と志織は軽く返事をし、テーブルを通りかかった店員にコーヒーを一杯、追加で注文をした。
「あのね、どうしても証拠が残っちゃうの。そのマンションはセキュリティがしっかりしているから、オートロックだし防犯カメラにもバッチリ映っちゃうの。ホールも非常口もエレベーター内も確実に。平日の昼間の犯行時刻に制服を着た女子高生がいたら、目立つでしょ?」
それはいくらなんでも怪しすぎるだろう。
「エレベーター内に防犯カメラがセットされているから、バッチリ顔も映っているだろうし、どこで降りたかもわかっちゃうでしょ。調べて住人じゃないってわかれば、警察はより怪しむだろうし」
防犯対策は生活の安心感はあるけど、創作には万全過ぎるのは悩みの種だろうな。志織に名探偵のモデルとして書いてもらうには、気の利いたことを言わなければ。
「友達がたまたまその階に住んでいた」
「それはない」
志織が一蹴する。僕だってそんな都合の良いことはないとわかっている。わかっていて一応言ってみただけだ。
「そうだな、エレベーターで被害者の住んでる部屋のふたつ上の階で降りて、非常階段で被害者の住んでる階に向かって、」
「それ、殺す計画立ててるよね?はずみだよ、はずみ」
志織が少し呆れた様子で僕の話を遮った。僕は目を逸らし、コーヒーを一口静かに飲んだ。嫌な気分のときと温かい飲み物を飲むときの振る舞いは、人の品性が出ると思っている。僕は品性を乱したりはしない。
わずかに無言の時間が流れた。
すると助け舟を出すかのように、志織が追加で注文したコーヒーが運ばれてきた。このあとのデートコースはトイレのある所へ変更だな。志織はココアを一口含み、そのすぐ後にコーヒーを一口飲んだ。何を納得したのか知らないが、小刻みに頷いている。
「じゃあさ、」僕は口を開いた。
「コスプレだったんじゃない?」
「……コスプレ」
志織がポカンと僕を見つめている。
「だってさ、制服を着た女の人だから、女子高生だと言っているわけでしょう?でも、実際はわからないよね?コスプレじゃないとしても歳を偽ってたとか。もしそうなら調べてみても、その女子高生はどの学校にも存在しないし。それに偽名をも使っていたとしたら、よりわからないんじゃないかな」
「コスプレ……」
志織はもう一度ぽつりと呟いた。志織は再びデイダラボッチ雲を見上げたが、その目は遠くのモヤモヤしたものを掴むのではなく、目の前でパズルのピースをパチパチとはめこんでいるのがありありとわかる。
まあ、僕にかかればこんなもんだろう。少し得意げになった僕は手持ち無沙汰になり、スマホのネットニュースを開いた。トップのニュースに『目黒区のマンションで発見された三十代男性の遺体 殺人事件と断定』と出ていた。
「ねえ、目黒区で殺人事件だって。どこだろう?」
「そう、それ。私見たの、女子高生」
「えっ」思わず声が裏返る。「どういうこと?」
「私の両親が住んでる隣の隣の部屋の事件なの、それ。それでね、私その日たまたま帰ってて。コンビニに行こうと思って家を出て、エレベーターに向かったらちょうど閉まる瞬間だったの。その中にいたのが女子高生だったんだけど、なんかこう言葉にできない違和感があったから覚えてたんだよね。それが犯行時刻だったみたい。そっか、コスプレか、考えたことなかったな」
うんうん、と志織はまたひとりで何かを納得している。
「そ、それ、警察には……?」
「うん、言った。昨日電話かかってきてビックリした」
そんな、都会でたぬきを見た、みたいなテンションで言われても。
「小説の話だと思ってたから……少し驚いちゃった」
普段クールを装っている僕でも、さすがに動揺を隠しきれない。
「あー、そっか。そうだよね。パパ活とはずみで殺しちゃったっていうのはね、私の想像」
返事もできずに、僕は水分不足のアゴを掻いた。
「でも怖いじゃん、犯人っぽい人を私見ちゃってるし。だから昨日から彼氏の家にいるの」
照れも恥ずかしさも嬉しさも表すことは不謹慎だと思っているような顔つきだ。いま彼氏と言ったか?
「そうか」
声がため息混じりに出た。吐き出されたため息は冷たい空気に触れ、どんよりとしたものが生々しく見えてしまいそうだ。
全てを吸って欲しくてデイダラボッチ雲を見上げると、針のような雨が静かに降っていた。
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