現代社会の闇をそのまま小説にしてみた


 プロローグ


 高校の頃、僕は同級生を階段の下に突き落とした。
階段の前方10メートルで彼を待ち構えた。視界がぼんやり霞み、耳鳴りのような心臓の音だけが聞こえる。高鳴る鼓動、全身に広がる熱。体中を駆け巡るドーパミンが、自分がこの場にいることを実感させる。嫌いなわけじゃない。ただ、どうしようもなかった。それが答えだ。

彼が階段を登り始めた。隣の友人と楽しげに話している。
「あいつ、あのタイミングであれ言うとかなくね?」
その声が耳に届いた瞬間、僕は無意識のうちに走り出していた。全身の力が一点に収束していく感覚。脳の中に真っ白な光が走る。跳ぶ。
右足をまっすぐ伸ばし、左足を折り曲げ、彼に向けて全力で蹴り込む。鳩尾に足が食い込んだ瞬間、彼の顔が一瞬歪んで浮かび上がる。次の瞬間、カンフー映画さながらに彼の体が宙を舞った。

翌日、数学の時間に僕は生徒指導部に呼び出された。教室のざわめきを背中に受けながら廊下を歩く。足取りは軽かった。
「なぜあんなことをしたんだ?」
教師の低い声が怒りを隠し切れていない。だが、僕は冷静だった。
「あいつ、気に食わないんすよ。」
声に感情を込めないように答える。簡潔すぎる理由だが、それで十分だと思った。この教師が僕の普段の様子なんて知るはずがない。早くこの場を終わらせて、外のギラつく太陽の下に戻りたかった。

「気に食わないからって人を階段から突き落とす奴があるか!」
教師はテーブルを叩いて声を荒らげる。僕は心の中で適当に頷きながら、涼しい部屋に響く蝉の声を思い浮かべていた。結局、説教は二時間にも及んだが、厳重注意で済んだ。家に帰る電車の中、ふと窓に映る自分を見て思う。「退学までのストックが一つ減ったな。」

僕はバランス感覚に優れた人間だ。やってはいけないことと、やってもいいことの境界線を正確に見極められる。殺人や窃盗といった類はしない。それをすれば日常が壊れるのは明白だからだ。ドラマも見れなくなるし、小説も読めなくなる。だけど、倫理的にはアウトでも、法律的にはセーフな領域──そのギリギリを楽しむことが好きだった。

例えば何の罪もない同級生を蹴り飛ばすとき。全身にビリビリとした電流が走り、頭の奥がかすかに痺れる。この感覚を何に例えればいいだろう。真っ白な紙を引き裂く背徳感と爽快感が、渦巻くように混ざり合うあの瞬間の快楽。それを合法的に味わえるのだから、たまらない。

当時の僕は高校生だった。暴力沙汰を起こしても停学で済むだろう、と高を括っていた。そして実際、厳重注意だけで済んだ。その程度の罰しかないのは最初から分かっていたのだ。
でもそれ以上に、彼を蹴り飛ばした瞬間に感じた背徳の快感。普段の退屈な日常では味わえない快楽物質が、脳内を駆け巡る。合法的なドラッグみたいなものだ。この感覚がいつまでも続けばいいのに、と心から思った。

蹴り飛ばした翌日、放課後の掃除の時間、彼が僕をひと睨みした。仕返しか?と身構えたが、彼はそれ以上こちらに向かってこない。ただ、僕のスクールバッグを蹴り飛ばし、罵声を浴びせた。
それを見た瞬間、僕は心臓がバクバクと跳ねるのを感じた。「これが見たかったんだよ。」高揚感が胸の奥にじわじわと広がった。

高校生の頃、それ以上悪事を重ねることはしなかった。退学になるのは目に見えていたからだ。バランス感覚を失うことは、即ち自分の生活が壊れることを意味している。それだけは避けたかった。自惚れないことがコツだ。
結局、僕は無事に高校を卒業し、大学を経て、プログラマーになった。

今日は彼女とチャットアプリで喧嘩をしていた。彼女は直接会っているときは普通だが、会っていないと不安になるのか、執拗に連絡をしてくる。面倒な女だ。最初からヤるためだけに付き合った相手だったし、そろそろ人間関係のストックを一つ減らしてもいいと思っていた。

「何で電話に出ないの?話がしたい。」
「お願い、電話に出て。」
「逃げてないでいい加減電話に出て、話がしたいです。」
メッセージを打ち込みながら、何度も彼女からの着信が鳴る。厄介な女だ、と溜息をつきながら完成した文を送信した。少し陳腐だけど構わない。送信ボタンを押す瞬間、「これで会社から威力業務妨害で訴えられるかも?」と一瞬頭をよぎったが、気にするのは馬鹿らしい。

「int x = this.x; int y = this.y; Attack attack = new Attack(); attack.start();」

「これ何?」
「やめて、何かした?」
「お願い教えて、何したの?」
彼女からの返信は予想以上に面白かった。僕はただ、プログラムっぽい文章を送っただけだ。反応を楽しむためだけの遊びに過ぎない。

「警察に言います。さようなら。」

それきり電話の呼び出し音が消え、部屋が静寂を取り戻す。胸の奥にチクリとした痛みが走るが、その痛みが心地よい。人間の心も体も似たようなものだ。サウナで火照った後の冷たい水風呂のような、少し痛いくらいが一番気持ちいい。

彼女からの連絡はその後、ぱったり途絶えた。おそらく僕のことを「やばい奴」と認定したのだろう。やばいのは向こうだ。どれだけ電話してくるんだよ、と呆れる気持ちさえ湧いた。
無駄な付き合いだったが、最後に僕の快楽の材料になってくれたことには感謝している。

警察は結局来なかった。彼女が本当に通報したのかは知らないが、あれで僕を捕まえることはできない。やっていいことといけないこと、その線引きは大事だ。今回も僕のバランス感覚が証明されたのだ。

 第一章

「これで二十八人目ですね、要監視対象者。」
小林は冷房が効きすぎた警視庁のカフェスペースで、スマホを指でなぞりながら呟いた。彼の声には明らかな倦怠感が滲んでいる。
「まあ、日本は少子化だって言っても、これだけ人がいりゃ、怪しい奴もわんさかいるだろうよ。」
上司の喜田が、当たり前のことを確認するような調子で返す。その顔には特に感情の色はない。

小林は視線をスマホから外して、窓の外に目を向けた。雲ひとつない夏空が広がっている。全日本人の通信が監視されるようになったことを初めて知ったとき、驚きはもちろんあったが、どこかで納得もしていた。犯罪が未然に防げるなら、それに越したことはない、と。
「どうやって要監視対象者を選び出してるんですかね。いまだによく分からないですよ。」
ふと口にした小林の疑問に、喜田は特に深く考える風でもなく答える。
「AIってやつがやってるんだろ。なんでも、既に五人は実際に犯罪を犯そうとしたらしいぜ。」

小林は眉をひそめ、カフェの空調の冷たさに身震いしながらスマホの画面を見つめた。これが正しいことなのか、答えは出ていない。ただ、導入されて以降、殺人や強盗の未遂事件が減ったというデータが出ている以上、否定することもできなかった。
「調べてみると、本当に酷いですよね。犯罪未遂とはいえ、道徳なんて欠片もない奴ばかりだ。」
「だからこそ、これを機に堂々と公に認められるようになればいいんだよ。」
喜田は軽い調子で言いながら椅子に深くもたれた。
「俺たちは監視対象になった人間だけを見てる。犯罪を未然に防ぐことで、プライバシーの権利も再考の余地があるってもんだ。」
「いや、プライバシーは守られなきゃダメな気もしますけどね……。」
そう言いながら、小林自身もその考えが揺らいできているのを感じていた。

ディテクト。世界中の通信をクロールし、各個人の誠実性、社交性、論理的思考力など、あらゆるパラメータを解析するAIシステムだ。重大犯罪を引き起こすリスクのある人間を「要監視対象者」としてリストアップする機能を持つ。アメリカで実証実験を終え、ついに日本でも導入されたばかりだった。
犯罪を未然に防ぐという目的は明確で、実際、効果も出始めている。しかしその陰で、全日本人の通信が監視されているという現実があった。

「でもさ、監視対象者が増えすぎたらどうすんだ? 監視する人間が足りなくなるぞ。」
喜田が冗談めかして言うと、小林は小さく息をついた。
「AIの次はロボットの出番ですかね。仕事がなくなるなあ……。」
そんな軽口を叩いている間に、小林のスマホが震えた。喜田もポケットからスマホを取り出している。画面には「要監視対象者リストが更新されました」という通知が表示されていた。これで二十九人目だ。

「そろそろお前も現場に出る番じゃないか?」
喜田はあくびをしながら立ち上がり、煙草を吸いに行くのだろう、カフェスペースを後にした。小林はその背中を見送りながら、再びスマホに目を落とす。そして、デスクに戻った瞬間、課長の大元から声をかけられる。

「さっき新しい要監視対象者が出たな。あれ、お前に頼むことになる。」
大元はキビキビとした調子でそう言った。その眼差しには揺るぎない信念が感じられる。どんな時も冷静で、的確な判断を下す課長。小林にとっては憧れの上司だった。
「対象者の情報は?」
「スマホに届いているはずだ。名前は小松田礼央、二十七歳、独身。職業はプログラマーだ。」
大元は手早く説明を続ける。
「倫理観の異常な欠如が検知されている。職業柄、情報通信を利用した犯罪の可能性が高い。今回はサイバーセキュリティ班の刑事と協力して監視に当たってもらう。」
そう言って、自分のデスクに戻ると、さっさと作業を始めた。

小林はパソコンを開き、対象者の詳細を確認する。
小松田は、彼女との喧嘩で意味不明なプログラムのような文章をチャットで送信した。それを見た彼女が警察に通報したが、調べた結果、それはただの悪質な悪戯であることが判明した。ディテクトがアラートを出したのは、普段の誠実性や社交性、論理的思考力と、その悪質な行為との間に乖離が生じたためだったらしい。小林はファイルを読んで眉をひそめる。確かに、違和感を覚えるケースだった。

「小林さんっすか? サイバーセキュリティの東条っす。」
突然声をかけられ、顔を上げると、そこには大柄な男が立っていた。角刈りで筋骨隆々。その見た目は、典型的なサイバー刑事のイメージからは程遠い。
「よろしくお願いします。おっす。」
「よろしくね。対象者のファイル、もう見た?」
「見ましたっす。これって……要するにサイコパスみたいなやつをAIが見抜いたってことですかね?」
「まあ、そういうことだ。1ヶ月何もなければ、ただの一時的な気の迷いで終わる。」
「喧嘩が拗れただけって気もしますけど、監視する必要ありますかね?」
「ディテクトが判断した以上、従うしかない。」

監視チームは基本的に二人一組だ。人手不足の公安部ではこれが限界だった。
車で移動する途中、小林は何度も眠気に襲われた。昨日は徹夜で別の案件に当たっていたのだ。助手席に置いたタブレットケースから眠気覚ましの錠剤を手に取り、一気に飲み込む。
「ロボットが監視してくれる時代が来たらいいのにな……。」
窓の外を見れば、あれほど高かった太陽が地平線に沈みかけていた。車内は夕暮れの赤い光に包まれ、次第に暗くなりつつある。

       *

 坂下はイライラしていた。
「なんであいつが王様みたいに気取りやがるんだ。」
自分の居場所を奪われたような気分だった。長い溜息が部屋の中に溶け込む。時刻は夕刻。薄暗い部屋には電気もつけず、カーテンも閉めたままだ。差し込むはずの夕日さえ遮られ、室内は陰鬱な静けさに包まれていた。

椅子に浅く腰掛けたまま、坂下は思案を巡らせる。
「何かあいつに復讐する方法はないか。感情をめちゃくちゃにする方法が。」
胸の中に広がる苛立ちは、行き場を失って膨れ上がっていく。

今日は学生時代に所属していた団体のリモート飲み会がある。パソコンのカメラに自分の顔を映し、画面越しに相手と会話するアレだ。
感染症が流行り始めて一年ほど経った頃から、人々は集まるのを控え、この形式での交流が当たり前になっていた。坂下も例に漏れず、外出を控え、こうしたリモートの場に頼る日々を送っている。

部屋の沈黙を破るように、携帯の着信音が響いた。画面を見ると、学生時代の同期である道津からの電話だった。
「おう、道津やんけ。どないした?」
軽い調子で応じる坂下に、道津は少し間を置いてから口を開いた。
「坂下さん、あいつのこと気に食わなかったんですよね?」
「あいつか? マジで無理、ほんっとうに無理やわ。」
坂下は急に声のトーンを上げる。
「あいつ、ちょっと自分がカッコいいからって勘違いしてるやろ。それに、交流会のことを自分の女探す庭みたいに思っとるんちゃうか。そこが無理やねん。」

「交流会」というのは坂下と道津が所属していた学生団体、政策立案学生交流会のことだ。彼らの話題の中心にいる「あいつ」もまた、この団体の元メンバーだった。
道津は坂下の言葉に頷きながら、こう続けた。
「いや、僕も同じです。というか、僕たちみんな似たように思っててですね。あいつ、今日のリモート飲み会でもまた調子に乗るんじゃないかって心配してるんですよ。」
「ほんまムカつくわ。なんで女はあんな奴をええと思うんやろな。」
坂下は声を荒げながらも、少し気分が良くなっていた。同じ思いを共有する仲間がいることが、妙な安心感を与えていたのだ。

「まあまあ、落ち着いてください。僕も僕なりにいろいろ考えていますから。」
「考えてるって、何をや?」
坂下が身を乗り出すと、道津は低い声で言った。
「彼を追い込みます。精神をギッタギタにしてやりましょう。」

「嫌いなものが共通したとき、人は団結する。」
坂下は昔読んだ哲学書の一節を思い出した。その言葉通り、道津の言葉に胸が高鳴る。
「え、てかお前も嫌いだったん?」
「嫌いですよ、実は。男子一同はほぼ全員嫌ってます。それに、あいついろんな女の子に手を出してるじゃないですか。そのせいで、女性陣からの評判も最悪になってきてるんですよ。」

坂下の顔に笑みが広がる。
「ほれ見たことか。結局、交流会は俺がいないとダメなんや。」
胸の中に湧き上がるこの感覚──それは、かつて自分がこの団体で「王」として君臨していた頃の記憶から来るものだった。

かつて坂下は、この学生団体で一番目立つ存在だった。冗談を言えば皆が笑い、活動ではリーダーシップを発揮して誰もが彼を頼った。団体にいる女性からの注目も一身に集めていた。このまま社会人になっても、同じ人間関係を維持できるだろうと思っていた。

そんなとき、小松田礼央が現れた。
彼が団体のイベントに初めて参加したのは、四年の夏だった。長めの前髪と綺麗に刈り上げられた後ろ髪。高身長で色白、万人受けしそうなシンプルで清潔感のある服装。顔も整っていて、すぐに女性陣の話題の的になった。

坂下はその瞬間、自分の立っている橋が崩れ落ちるような感覚を覚えた。
それまで皆がしていたのは、彼の冗談の面白さや話術についての話だった。だが、小松田が現れたことで、話題は彼の容姿や存在感に集中するようになった。
「みんな、小松田を見ている。俺を見ていない。」
その事実が胸を締め付けた。そして、その瞬間から坂下は小松田に嫉妬という名の暗い感情を抱き続けるようになったのだ。

「じゃあ、準備はもうできているので、坂下さんは言われた通りにやってください。」
「おう、任しとき。」
電話を切った後、坂下はふと壁時計に目をやる。リモート飲み会の開始まで、あと二時間だった。この後、道津の指示通りに他のメンバーへ連絡を取らなければならない。

その前に一服しよう、と坂下は机の引き出しから百円ライターを取り出した。そして、慣れた手つきでマルボロに火をつける。煙がゆっくりと部屋の中に漂い始めた。
「そういえば、あいつもタバコ吸ってたな。」
坂下はゆっくり煙を吐きながら、頭に浮かんだ小松田の顔をぼんやりと見つめる。
「タバコ吸ってるくせにモテるって、どういうことなんやろ。」
坂下が小松田と話したのは、学生団体のイベント中のタバコ休憩くらいだった。そのときの些細な会話が、彼の胸に苦々しい記憶として残っていた。

       *

大石は坂下から小松田を陥れる計画を聞いたとき、胸の奥に重苦しいものが広がるのを感じていた。
「気が乗らないな……。」
正直な感想だった。

小松田は悪いやつではない。ただ、勘違いされやすいだけだ。
大石は小松田と比較的仲が良かった。飲み会にも何度も一緒に行ったし、その場では本音も聞かせてくれる、気さくで面白い男だった。ただ最近の彼の行動には目を覆いたくなる部分もあった。
確かに、彼がいろんな女性と遊んでいるという話は耳にしていたし、それが理由で女性陣の評判が落ちていることも知っていた。

だが大石は知っている。
小松田が女性を次々と渡り歩くのは、寂しいからだ。心の隙間を埋める手段として女性を選んでいる。大石自身、似たような心理状態になったことがあったので、痛いほど気持ちが分かる。
「彼には懲りてもらう必要がある。でも、それは彼自身がもっと健全な形で人と関わっていくためだ。」
そんな思いから、大石は坂下の提案に渋々ながら同意した。

計画はすぐに動き出した。小松田の友人に接触し、彼のプライベートな情報を洗い出す。もっとも、その友人たちも学生団体のメンバーなのだから、実質的には「内部の敵」に近い存在だ。
集まった情報には、思わず眉をひそめたくなるようなものも含まれていた。

──デリヘルを家に呼んだこと。
──マッチングアプリで複数の女性と遊んでいること。
──新しく入った会社を二ヶ月で辞めたこと。
──現在はフリーランスのプログラマーとして生計を立てていること。

「……正直、これを使って攻撃するのは童貞臭いよな。」
大石は呆れたように鼻で笑ったが、同時にそれも仕方ないと思う自分がいた。実際、この学生団体には童貞が多い。そのせいか、小松田の行動を「許しがたいもの」として強調する空気が出来上がっていたのだ。

大石は深いため息をつき、窓の外に目をやった。西の空に沈む夕陽が、部屋の中に赤い光を差し込んでいる。リモート飲み会の開始まで、あと一時間程度。
「……あと一時間か。」
何をしようかと考え始めたその時、スマホが振動した。画面を見ると、別の学生団体メンバーからのメッセージが届いている。

「小松田さん、今日の飲み会でリンチに合うって聞きました。止められないですよね。ほとんどの人が今、小松田アンチみたくなってるから……。」

冒頭の文章を見た瞬間、大石は顔をしかめた。
「多分、あの人の性格的に、もう交流会とは関わらないってなりそうなので、最後に一目会いたくて。今日のリモート飲み会、参加してもいいですか?」

送信者は小松田と親しかった女性だった。彼女の言葉からは、心配と哀れみがにじみ出ていた。
「……小松田は嫌われてもいるが、同時に好かれてもいるんだ。」
大石は胸の奥がざわつくのを感じながら、メッセージを見つめたまま動けなくなった。これから自分たちがしようとしていることが、どれほど馬鹿げているかが急に胸に迫ってきたのだ。

「どうして、こんなことになったんだ……。」
自問してみたが、答えは出ない。ただ、言葉の代わりに浮かんだのは苦い感情だけだった。

しばらくの間、返信を保留したまま、大石は机の引き出しからセブンスターを取り出した。ライターで火をつけ、口元にくわえる。煙を吐き出しながら、胸の奥の苛立ちを散らそうとする。

それでも、完全に晴れることはなかった。

       *

小林は監視業務を始めた。初めての現場は、築年数の浅そうな木造アパート。
周囲はどこにでもあるような住宅地で、静かで人気もない。彼は電柱の陰に身を潜め、アパートの一階の部屋を見張っている。

ついさっき、出前の配達員がその部屋に向かったところだ。小林の視線の先で、小松田礼央が部屋の扉を開けた。ちらりと外を見たその目線が一瞬、小林を捉えたように感じる。
「……気づかれたか?」
胸がざわつくが、すぐに小松田は出前を受け取り、そのまま何事もなく部屋に戻っていった。

「……いや、気のせいだろ。」
小林は苦笑した。初めての監視業務で気が立っているのだ。自意識過剰に決まっている。

しかし、それから数十分経っても、何も起きない。
辺りは徐々に暗くなり、木造アパートの窓にも灯りがついた。出前を受け取って以降、小松田が外に出てくる様子はない。小林は腕時計を見つめながら、手持ち無沙汰な時間を持て余していた。

「……こういう時、待つのが一番辛いんだよな。」
特にやることもないため、小林はスマホを取り出し、サイバーセキュリティ班の東条に連絡を入れることにした。

「お疲れ。そっちはどうだ?」
電話越しに聞こえた東条の声はいつも通り軽快だった。
「お疲れ様っす。いや、何もないっすね。犯罪をしそうな雰囲気は全然ありません。デバイスの中身も普通のプログラマーって感じです。仕事を真面目にこなしてるだけですね。」

小林は眉をひそめた。
「そうか。まあ、何もないに越したことはないんだが……なんか引っかかるんだよね。」
「刑事の勘ってやつっすか? もう流行らないっすよ、そういうの。」
東条が冗談交じりに応じる。小林は少しだけ笑いながら答えた。
「軽口を叩くなよ。何かあればまた連絡する。」

電話を切った後、小林はポケットにスマホをしまい、改めてアパートに視線を向ける。

ディテクトのアラートに引っかかる人物の多くが、実際に何らかの問題を起こす。それがこのシステムの信頼性を裏付ける事実だった。だが、小林が気になっているのは、それ以上に「違和感」の正体だった。

ディテクトは、数値として明確な指標を示している。小松田礼央は誠実性の高さやストレス耐性の安定度といった心理的なデータが際立っている。しかし、彼が喧嘩の末に送った「プログラムのようなメッセージ」──それは悪質さを感じさせる行動だった。

「誠実で安定した人物が、なぜあんなことを?」
小林はその疑問がずっと頭から離れなかった。

彼は自分の直感を大切にしている。それはこれまで多くの人間を観察し、経験を重ねてきた中で培われたものだ。違和感という直感は、時にディテクト以上に正確に人間の本質を掴む。それが、今小林の中で警鐘を鳴らしているのだ。

「一ヶ月間、頼むから何も起こさないでくれよ。」
心の中でそう呟き、小林は電柱の陰でアパートの窓に視線を固定した。小さく手を合わせるような仕草をしながら、祈るように息をついた。

       *

坂下は時計を見た。そろそろ実行してもいい頃合いだろう。
リモート飲み会が始まって二時間が経過していた。画面には20人ほどの顔が並び、それぞれが思い思いの話題で盛り上がっている。

この飲み会で使用しているアプリは、参加者をいくつかの「部屋」に分けることができる機能を持っている。そして、各部屋への移動は管理者が一括でコントロール可能だ。坂下はその機能を利用するタイミングを慎重に見計らっていた。

「そろそろ部屋分けてもええんやない? こんなに人数おったら、落ち着いて喋れへんやろ。」
坂下が軽い調子で声をかけると、管理者である道津がすぐに応じた。

数秒後、画面上の表示が切り替わり、坂下は「アンチ小松田」のメンバーだけが集まった部屋に移動させられた。この部屋にいるのは、小松田を嫌う人間ばかりだ。坂下は、ほくそ笑むような笑顔を浮かべた。

部屋の中は妙に静かだった。誰もがニヤニヤしながら口を閉ざしている。緊張感とも興奮ともつかない空気が漂う中、道津が口を開いた。

「それでは皆さんお待ちかね、小松田へのリンチを始めたいと思います。」
「いいぞ、道津。」
「イェーイ。」

軽い歓声が上がる。だが道津は片手を上げ、すぐに皆を制した。
「静粛に。別の部屋にいる連中は、今小松田と最後の会話を楽しんでいます。我々はそれが終わり次第、彼をこの部屋に呼び寄せます。そして、別の部屋の連中は消え、我々だけが残る。それから思う存分、小松田に罵声を浴びせましょう。」

「わかりやすい! 男らしいぞ、道津!」
「さすがや!」

冗談交じりの賞賛の声が上がる。道津は自信に満ちた笑みを浮かべながら続けた。
「では、別の部屋の連中が話を終えるまで、しばしご歓談を。」

部屋の中はすぐに活気づいた。それぞれが小松田への不満を次々と語り始める。坂下も当然その輪に加わった。次から次へと口をついて出る小松田への悪口。それを共有する時間が、坂下には心地よかった。

「こんなに幸せなのはいつぶりだろう。」
坂下は胸の中でそう思った。この瞬間、彼は完全に「王」である自分を取り戻した気分だった。皆が自分を見ている。皆が自分の言葉に耳を傾けている。

隣の部屋の様子が気になる。
「きっと、小松田がまた調子に乗って喋り倒しているに違いない。」
その様子を頭の中でありありと想像するだけでイライラが募る。そのイライラをこの部屋の仲間たちと共に発散することで、坂下はさらに高揚感を味わっていた。

気がつけば、30分が経過していた。
道津が再び口を開く。
「じゃあ、やりますか。」

坂下は待ちきれない様子で笑みを浮かべる。
「少々お待ちを。今、部屋を変えますからねー。」

数秒後、画面が切り替わった。坂下の目の前に小松田の顔が映し出される。
その瞬間、坂下は抑えきれない感情に突き動かされるように、目の前のスクリーンを平手で叩いた。

       *

大石はこの会に参加したことを後悔し始めていた。
「いくらなんでも、こんなことをするのは子どものすることだろう。」
大学を卒業し、社会人になった今、自分がこのような場にいることが、ひどく恥ずかしく思えてきた。

小松田アンチばかりが集まった部屋で、彼らの間に飛び交う悪口に耳を傾けるうち、胸の中に嫌悪感がじわじわと広がっていくのを感じていた。
「こんなことで、小松田が本当にメンタルをやられたりしないだろうか。」
心配になりながらも、すぐに口を挟むことができない自分が情けない。

「少々お待ちを、今部屋を変えますからねー。」
道津の声が部屋に響いた。その瞬間、画面が切り替わり、全員が一斉に別の部屋に移動させられる。

そして始まった。

「おい、みんな知ってるか?交流会の中の、誰とは言わへんけど、この前五万でデリヘル呼んだのにイけなかったんだってよ。」
大石は耳を疑った。最初の一言からこれだ。

話の矛先が小松田であることは明白だったが、彼の名前は一切出さず、遠回しに個人攻撃をしている。画面越しに小松田の顔を見ると、無表情のまま、目はどこか虚ろだった。驚きの色も見えない。

「まあ最近フリーランスって流行ってるけど、要はただの個人事業主でしょ? 本当にそれで将来大丈夫なんかねー?」
「交流会の誰とは言わへんけど、今マッチングアプリでヤリまくってるらしいな。俺、そのアプリでマッチングした人と知り合いだから、いろいろ聞いてるんよ。」
「何それ。話、もっと詳しく聞きたいなー。」

その言葉の一つひとつに、大石は堪えきれない怒りを覚え始めていた。
「こいつら、名前を出さないようにしておいて、いざとなったら『誰のことか分からない』とでも言うつもりか。」
卑怯なやり口に、大石の胸の内でふつふつと怒りが煮えたぎっていく。

「うわ、そんな性癖ある人いるの? やば。」
部屋に悪意が満ちていく。

そんな中、どこからともなく「カタカタ」という音が聞こえてきた。大石が音の出どころを探すと、小松田がキーボードを叩いているのが目に入った。彼はこれまで一言も口を開いていない。何をしているのだろうか。

「交流会の誰とは言わへんけど、ただの性欲の塊やん。ただの猿やん。」
「そろそろいいか? おい、小松田、さっきから黙ってるけどどうした? ここまでバレてるとは思わなかっただろ? ねえ、今、どんな気持ち?」

その時だった。嫌な予感が大石の胸をざわつかせた。

キーボードの音が止まる。そして次の瞬間、小松田の顔がスクリーンから消えた。

「……退出した。」
部屋の中が一瞬だけ静まり返る。だがすぐに、誰かが声を上げた。
「逃げた! ははっ、ウケる。」

その言葉が引き金となり、また笑い声が広がる。しかし、大石の胸の中には違う感情が渦巻いていた。
「……こんなことなら、最初から止めておけばよかった。」
胸糞の悪い気分だ。胃の奥からこみ上げてくるような不快感が、全身を支配していた。

その時、不意にスマホが震えた。
リモート飲み会のチャットグループにメッセージが投稿されたらしい。同時に、飲み会に使っているアプリのチャット欄にも何かが表示される。

「……なんだ?」

大石は画面に目を凝らした。そこには、見慣れないURLが貼られていた。メッセージには何の説明もない。ただ、冷たいテキストがそこに存在しているだけだった。

そのURLを見た瞬間、大石はぞくりと背筋を冷たいものが走るのを感じた。

「これは……。」

今までの小松田とは全く違う、一種の冷徹さや計算高さを垣間見た気がした。その瞬間、大石の心には恐怖と同時に、深い後悔が押し寄せてきた。

「小松田の、本当の恐ろしさを見た……。」
大石の手はいつの間にか震えていた。画面越しのただの悪口が、恐るべき現実の引き金になる予感が彼を襲っていた。

       *

坂下はパソコンのスクリーンに映るチャット部分を凝視していた。そこには、奇妙なURLと不可解な文字列が延々と並んでいる。送信者は小松田礼央。それは間違いない。

「このURL、何なんでしょうね。不用意に触らない方がいいと思いますけど。」
誰かが慎重に言葉を発したが、坂下はその言葉の裏に滲む不安を感じ取っていた。

「チャットアプリのメッセージも気味が悪いなあ。これ、なんや……『のなってつらおいまれかるし、うなんびれせいさそょいしき。』って。」
メッセージ欄に何千、いや何万と同じ文字列が延々と繰り返されている。その不気味さに、部屋の空気が一気に重くなる。

「のなってつらおいまれかるし、うなんびれせいさそょいしき。」
「……なんだこれ、暗号か?」

誰もがスクリーンを見つめたまま、言葉を失っている。坂下もその一人だった。

時間が経つにつれ、部屋の中の緊張は限界に近づいていた。誰もがこの事態の意味を測りかね、どこか自分を責め始めているようにも見える。

不意に、一人が声を上げた。
「このURL、onionドメインです。やばいです。」
「やばいって……何がやばいんだ?」
坂下が声を絞り出すように聞き返すと、その人物は少し口ごもった後に答えた。

「これ、いわゆるダークウェブへのリンクです。」
「ダークウェブって何や。」
「……麻薬が売られてたり、場合によっては人殺しの依頼もできるような、犯罪者が使うものです。」

その言葉が部屋に響いた瞬間、坂下は背筋が冷たくなるのを感じた。

「ちょっと待て……。小松田はもしかして、そこで何か依頼したってことか?」
別の一人が震える声で問いかける。

「分かりません。でも、自分たちの殺害をそこで依頼した可能性もゼロじゃない。」
「それって……やばいじゃねーか。」

坂下は戦慄した。
「小松田が、そこまでする人間だろうか。」
これまでの小松田の行動を思い返すが、人殺しなんて言葉とは無縁の存在だったはずだ。

そもそも、今回自分たちが小松田にリンチを仕掛けたのは、この学生団体のコミュニティから彼を排除するためだった。殺し合いなんて話ではなかったはずだ。

「こんな話、聞いてない。」
胸がざわつき、喉が渇く。坂下は唇を舐め、深く息をついた。

部屋の中に沈黙が訪れる。誰もが何かを言おうとしながら、その言葉を飲み込んでいる。恐怖に支配されていた。

不意に、道津が「あっ」と声を上げた。
「このチャットのメッセージにある文字列……アナグラムです。」
「アナグラム?」

道津は続けた。
「『俺捕まらないの知ってる、精神病起訴されない』……こう読めます。」

坂下は頭が混乱するのを感じた。
「精神病だから起訴されない? そんな……あいつ精神病だったか?」
「分かりません。でも、自信があるからこそダークウェブのリンクをわざわざ見せつけてきたってことですよね。もしかすると、過去に何か犯罪を犯したけど不起訴になったのかもしれない。」

坂下の中で恐怖が怒りに変わりつつあった。
「つまりこいつ、ノーリスクで人殺しを依頼できるってことか? 何考えてんねん、あいつ。」

「いや、まだ分かりません。人殺しを依頼したかどうかは分からない。でも、だからこそ一旦警察に行くべきです。」

坂下は、手の震えを抑えるように両手を握り締めた。
「落ち着け、落ち着け……。」
自分にそう言い聞かせながら、深く呼吸を繰り返す。

小松田が部屋を退出してから、既に一時間が経過していた。坂下は心の中で決意を固める。
「警察に行けば大丈夫だ。この国には優秀な警察官がいる……。」

坂下はマルボロに火をつけた。紫煙がゆっくりと暗い部屋に漂う。気を落ち着かせるように、吸い込んで吐き出す。

カーテンを開けて窓の外を見ると、そこには暗闇と静寂が広がっていた。だが、その中で何かが動いたような気がした。

「……何かいるのか?」

不安が胸を締め付ける。坂下は慌ててカーテンを閉めた。暗闇の中、外に出て警察へ行くのは危険そうだ。

最終的に、一同は話し合い、坂下と道津が明日の朝、警察に経緯を説明しに行くことを決めた。

「こんなことになるとは思わなかった。」
坂下は、心に渦巻く恐怖を抱えたままベッドに潜り込む。

暗闇の中で、坂下の胸の中に湧いてきたのは、不安、後悔、そして拭い去れない怒りだった。

       * 

小林は電話越しに東条から事の経緯を聞きながら、苛立ちを隠せずにいた。
「やっぱり、何かしでかしたか。」
その感覚は予感として胸に引っかかっていたが、こうして現実となると怒りが込み上げてくる。

小松田礼央が、自らを精神障害者だと装い、リモート飲み会の参加者を恐怖に陥れたという事実。
「……何を考えているんだ、あいつは。」
小林の表情は硬く、眉間には深い皺が刻まれていた。

「で、どうするっすか?」
東条の声が電話越しに届く。
「このまま放っておくんですか?」

小林は一呼吸置き、冷静さを保とうと努めながら答えた。
「こんな悪質な事案、放っておくわけにはいかない。許せない。」

東条の声色が少し真剣さを帯びる。
「そうっすよね。もし人殺しを依頼してたら、普通に犯罪ですし。」

「そのURLだが……どんなサイトか、分かっているのか?」
小林は苛立ちを抑えつつ問いかけた。

「そこまではまだ調べてないっす。被害届が出されれば、現場の刑事が詳しく調べることになると思います。ただ、すぐに解析するのは難しいんすよね。もしウイルスが仕込まれてるサイトだったら、こっちのパソコンがぶっ壊れますし。」

「……そうか。」
小林は短く返しながら、胸の中に渦巻くモヤモヤをどうにも消し去れずにいた。

「それにしても、気になることがある。」
「何っすか?」

小林の声は低く、重みを持っていた。
「彼は精神病だったのか? そこが一番引っかかる。」

東条は少し間を置いてから答えた。
「既往歴はもう調べてありますけど、精神病じゃないっすね。」

小林の中で、怒りがさらに膨れ上がる。
「ハッタリか……。」

東条も深く息を吐くようにして続けた。
「悪質っすよね、本当に。人を騙して、しかも脅して。……でも、一概に彼が悪いとも言えないんじゃないっすか?」

「何を言いたい?」

「自分、リモート飲み会の様子を見てたんですけど……あれ、ただのリンチですよ。」
東条の言葉には、どこか憤りが込められていた。

小林は一瞬、言葉を失った。
「リンチだとしても、だからって許されるわけがない。」

小林の声が低く、怒りを秘めているのを感じたのか、東条も言葉を控える。
「日本の法規を、何だと思っているんだ。」
その言葉には、小林自身に向けられた苛立ちも込められていた。

電話を切ると、小林は深く息を吸い込み、ゆっくりと吐き出した。
「今の俺の仕事は、あくまで監視だ。」
自分にそう言い聞かせるように、こぶしを握り締める。感情的になってはならない。冷静さを失えば、全てが台無しになる。

外を見やると、小松田のアパートの灯りが消えていた。
「寝たのか……。」

小林はしばらくアパートを見つめていたが、やがて視線を外し、重い足取りで車に向かった。

胸の中に渦巻くモヤモヤは収まるどころか、さらに広がっていくようだった。
「……本当に、何を考えているんだ。」

車に乗り込むと、小林は拳を軽く腹に押し当てた。自分の中の感情を抑え込むように。
「腹の中を殴りたい気分だ。」

エンジンをかけると、夜の街に車を走らせながら、小林は深い溜め息をついた。

       * 

 「端的にいうと、警察が扱う事柄ではありませんね。」
 坂下は道津とともに警視庁を訪れていた。担当の刑事にそう言われた時、愕然とした気分になった。
 「なんでや、人殺し頼んどるかもしれんやろ。」
 「まず、送られてきたURLを調べてみたところ、ただのニュースサイトであることがわかりました。」
 「ニュースサイト?。」
 「ええ、ダークウェブなんて言い方をしますが、元々onionドメインのサイトは、著しく人権を侵害され、日常を監視されている世界の人々が監視者にバレないよう通信を行うために開発されました。このニュースサイトは、そう言った人々が監視者にバレないようにニュースを見るために作成されたサイトです。違法性はありません。」
 「でも、精神病だから捕まらないってチャットメッセージに書いてたやんけ。」
 「それはただの悪戯ではないでしょうか?しかも、そう読めなくはない、というだけですよね?。」
 「それはそうやけど。」
 「ともかく、これは警察が捜査する事件ではありません。」
 坂下は食い下がったが、すぐに警備の人間に追い出されてしまった。
 俺が昨日から今日まで抱えていた恐怖はなんだったのだ。坂下は改めて怒りを覚えた。道津は昨日寝れなかったらしく、目にクマができている。
 スマホの着信が鳴った。昨日のチャットグループにメッセージが投稿されていた。小松田はもうすでにチャットグループから抜けているので、誰だろうと思ったが、小松田のことを密かに好いていた女の子からだった。
 「昨日の件みんなから聞きました。実は私精神病で病院に通っています。最近良くなってきて、やっと寛解に近い状態になってきていましたが、昨日のことが怖くって夜も眠れず、また病気の症状が再発してしまいました。同じ精神病として彼の行動がどうしても許せません。本当に辛いです。」
 坂下は涙が出てきた。なんで小松田のせいで何も関係ない人が、せっかく病気が良くなってきた人が寛解への道を閉ざされなきゃならないんだと。
 「なあ、このままでいいと思うか?。」
 坂下の声は怒りに震えていた。
 「僕も許せないです、こんなこと、何かとっちめてやらないと。」
 「なあ、提案があるんやけど。」
 坂下は同じく怒りに震えている道津に向け、自分のプランを話し始めた。

    *

小林は公安部の執務室でスマホに通知されたディテクトの指令を見つめていた。
画面には「監視強化対象の小松田礼央に対し、追加の心理的圧力を実行せよ」という指示が表示されている。
指令には、具体的な行動として「監視人員の増員」および「デバイスを通じた情報操作」が含まれていた。

小林は眉をひそめながら、東条に電話をかける。
「もしもし、今ディテクトからの指令を見たが……お前、内容を確認したか?」

東条の軽い口調が返ってくる。
「お疲れっす、小林さん。見ましたよ。まーためんどくさいことになってきたっすね。監視を増やすって、そんなリソースどこにあるんですかね?」

「増やすだけならまだしも、悪口を言い続けろだとさ。」
小林は無意識に握った拳をほどきながら、深い息をついた。
「どうしてそこまでして追い詰める必要があるんだ。犯罪を未然に防ぐためって、ここまでやるのはやりすぎだろう。」

「ディテクトさんの言うことは絶対っすからね。でもあれ、これって監視されてる感を演出して、相手を焦らせるのが目的っすよね。」
東条は少し楽しげに続ける。
「それとハッキングも。僕らがちょっとだけ手を貸して、小松田さんのデバイスに混乱を撒き散らしてみせますか。」

「……例えば?」
小林は問いかけるが、声には嫌悪感が滲んでいた。

「うーん、簡単なところで、彼のYouTubeのリコメンドを全部下ネタ動画で埋め尽くすとかどうっすか? 精神的にきついっすよ。」

「くだらない……。」
小林は呆れたように呟いた。
「だが、ディテクトがそう指示する以上、従わざるを得ない。俺たちの仕事は、あくまで従うことだ。」

次の日、小林は現場に配備された追加の監視要員を確認しながら、東条と連絡を取り合っていた。
彼らはアパートの近隣住民を装い、小松田の行動を注意深く見守るだけでなく、時折聞こえるように悪口を呟くよう指示されていた。

「……なんか感じ悪いっすね。ああいうの。」
東条が現場の音声データを解析しながらぼやく。
「近隣住民のフリして『あの人、また何かしてた』とか。わざとらしすぎません?」

「ディテクトがやれと言っている以上、俺たちは止められない。」
小林は短く答えた。
「本当にこんなことで抑止力が働くのかは疑問だがな。」

東条のモニターに表示されたデータが切り替わり、小松田のスマホとPCの画面が映し出された。
「ハッキングも仕掛けてますよ、スマホの通知を意味不明な文字列で埋め尽くしたり、カレンダーの予定を勝手に書き換えたり……。ほら、小松田さん、さっきからスマホを投げつけそうな勢いでいじってます。」

「嫌がらせにしか見えないな。」
小林は眉間にしわを寄せた。
「俺たちのやることじゃない……。」

その夜、東条から小林に電話が入った。
「お疲れっす。ちょっと面白いことが起きたっすよ。」

「何だ?」
小林の声には疲労が滲んでいた。

「小松田さん、YouTubeの検索欄に『羽田空港を爆破する』って書き込みましたよ。」

「……なんだと?」
小林の背筋が一気に冷たくなった。

「検索欄に書いただけで、別に動画を投稿したわけでもないし、コメント欄に書き込んだわけでもないっす。これは完全に『見てるだろ』っていう挑発っすね。」

「挑発だと?」
小林は苛立ちを覚えながら椅子に深く座り直す。
「これは警察全体の信頼を失わせる行為にも繋がる……。分かってやっているのか?」

「そりゃそうっすよ。あの人、頭はいいっすから。監視されてるのを逆手に取って、俺たちを混乱させる気満々っすね。」

「……厄介な相手だ。」
小林は電話を切ると、深く考え込んだ。

彼は思った。この先、この男を相手にどこまで対処できるのか。そして、ディテクトの行き過ぎた指令に従うことで、果たして何が守られるというのか。

 第二章

  翌朝、小林はスマホのけたたましいアラート音で目を覚ました。
枕元の画面には「要監視対象者による重要施設への移動開始」と表示されている。

「羽田空港か……。」
小林は寝不足の頭を押さえながら身支度を整え、急いで公安部へ向かった。

「例の小松田が空港に向かってるって?」
オフィスに着くや否や、小林は東条に声をかけた。彼は既にディテクトの画面に見入っていた。

「ええ、電車に乗ってますよ。現場での監視員が確認済みです。」
東条は指をモニターに向けて動かしながら言った。
「ディテクトもアラートを連発してますね。『羽田空港を爆破する』って昨日検索欄に入力してたから、その意図を探る必要があるってさ。」

「……ただの挑発だと思っていたが、実行に移すつもりかもしれないな。」
小林は自分に言い聞かせるように呟いた。

「どうします? こっちも総動員で行きます?」
「当然だ。空港なんて場所で一線を越えられたら、それこそ取り返しがつかない。」

小松田が乗った電車の中では、複数の公安職員が周囲に散らばり、彼を監視していた。
小林も監視員たちと連絡を取りながら、状況を確認する。

「小林さん、現場の報告っす。」
東条の声がイヤホン越しに響く。
「今、小松田は車両の真ん中辺りに座ってスマホをいじってるっぽいっすね。周囲の監視員は彼に見られないように位置取ってます。」

「目立つ行動をするなと言っておけ。小松田に気づかれたらすべて台無しだ。」

しかし、その直後、別の職員から緊急の連絡が入った。
「小林さん! 監視員の一人が自分の名札を隠し損ねたみたいで、小松田に見られた可能性があります!」

「何だと?」
小林は立ち上がり、声を荒げた。
「どういうことだ? 監視に入る際の基本中の基本だろう!」

「すみません、目が合ったようで……小松田が少し笑ったように見えました。」
監視員の声には緊張が滲んでいる。

「まずいな……。」
小林は手のひらで額を押さえた。
「完全に気づかれた可能性がある。空港に到着したら、監視態勢をさらに厳重にしろ。」

空港到着後、小松田は堂々と改札を抜け、ターミナル内をゆっくりと歩き始めた。
その様子を見守る監視員たちは、適度な距離を保ちながら彼の行動を注視していた。

「小松田、なんか変な動きしてますね。」
東条がモニター越しに報告する。
「ペットボトル持ってるんですけど、それを振り回しながら歩いてますよ。しかも赤ん坊連れの女性の近くで。」

「……威圧だな。監視されていることを知った上で、あえてこういう行動を取っている。」
小林はモニターに映る小松田の姿を見つめながら、緊張感を肌で感じていた。

「それだけじゃないっすよ。ターミナル外に出て、しゃがみ込んで何かやってる。」
「何かだと? 爆弾でも仕掛けているのか?」
小林の声が鋭く響く。

「いや、地面に手をかざしているだけみたいです。完全に撹乱目的っすね。」
東条の冷静な声が返ってくる。

小林は拳を握りしめた。
「小松田は何を考えている? 本当に空港を爆破するつもりなのか、それとも単なる挑発か……。」

ディテクトの判断に従うしかない現状に苛立ちを覚えながらも、小林は自分の役割を全うするべく、指示を飛ばし続けた。

「全員、小松田の周囲にいる一般人の安全を最優先しろ。必要ならすぐに避難誘導を開始する準備を整えろ!」

「了解っす。」
東条の声が、どこか楽しむような響きを帯びて聞こえた。

   *

坂下はスマホを握りしめながら、SNSの画面を眺めていた。
「みんな、俺たちの友達が傷つけられた。このままでいいのか?」
「これからずっと奴を監視して悪口を言い続けてやろう。」

投稿に続けて、道津が呼びかけたコメントもリツイートされ、坂下の通知欄が一瞬で埋まる。
「これ、すごい数じゃないか……。」
坂下は心の中で呟いた。

予想以上に多くの人が反応を示し、次々に現場に向かうことを宣言していた。坂下は、怒りと復讐心がこれほど強い共感を呼ぶものなのかと少し誇らしい気持ちさえ抱いていた。

名前はそのまま「私刑団」にした。それが悪いことだとは今は到底思えない。こうしないと自分達の気が済まないし、案外すんなりそれはみんなに受け入れられた。

小松田が最寄り駅から電車に乗ったのを見て、坂下と道津を含む数十人の私刑団がそれぞれの車両に散らばった。
「みんな、何か言ったらちゃんと聞こえるように。」
道津がスマホのグループチャットに指示を送る。
「ただし、騒ぎすぎると怪しまれるから気をつけて。」

坂下は車両の端に立ちながら、視線の隅で小松田を捉える。
「奴、スマホいじってるな……。」
口の中で呟きながら、わざと聞こえるようにボソボソと話し始めた。

「最近、誰かのせいで嫌な気分になった人、いるらしいな。」
「そうそう、人のこと平気で踏みつけて喜んでる奴だろ?」

坂下の声は小松田の耳に届いたようで、一瞬だけ彼の指がスマホから離れた。その仕草を見て、坂下の胸の中には奇妙な高揚感が湧き上がる。

「効いてる効いてる……。」
その様子を見ていた道津が耳打ちしてきた。

電車が羽田空港へ近づくにつれ、私刑団の動きは過熱していった。SNSで共有された指示に従い、各車両にいるメンバーがわざと小松田の近くで会話を交わしたり、行動を観察したりしていた。

「こいつ、今さら何考えてんだ?」
「まあ、どうせ誰にも本当のことなんて言えないんだろう。」

坂下は、すれ違う時にわざと肩をぶつけるように歩きながら、笑みを浮かべていた。
「これだけ人数が集まるなんてな……俺たち、本当に正義の味方みたいじゃないか。」

しかし、その一方で、どこか不安な気持ちも胸の片隅に生じていた。この集団が完全にコントロールできるものではないことを坂下自身が理解していたからだ。

羽田空港に到着すると、私刑団の熱気はさらに高まった。
小松田が改札を抜け、ターミナルへ向かうと、私刑団は自然とその周囲を取り囲むように歩き出した。

「なあ、あいつ、何かしそうな顔してるな。」
「こんなやつが社会に普通にいるなんて、許せないよな。」

坂下もその輪の中に加わり、小松田を観察しながら言葉を続けた。
「……あいつ、絶対どっかでしくじるだろうな。」

その時、小松田がペットボトルを手にして何気なく振り回し始めた。それが近くにいた赤ん坊連れの女性の目に留まり、少し怯えたように足早に去っていくのが見えた。

「おい、見たか? あの女の人、びびってたぞ。」
道津が小声で言いながら肩を揺らして笑う。

「わざとだろうな。あいつ、監視されてるのを分かってるんだ。」
坂下は目を細め、小松田の動きをじっと見つめた。

不安と興奮の交錯
坂下はこの状況にどこか奇妙な興奮を覚えていた。これだけの人数が、彼の一言に反応して集まり、一斉に小松田を追い詰めている――その中心に自分がいるという事実に酔いしれた。

しかし、同時に言い知れぬ不安も膨らんでいく。この行為がどこへ向かうのか、自分たちの復讐心が本当に正当化されるものなのか――答えは出ないまま、坂下は小松田の後をつけ続けた。

彼はふと、スマホの画面を見た。SNSのタイムラインには、「奴を許すな」という声と共に、熱狂的な支持の言葉が連なっていた。その一方で、内心では、この異様な状況にどこか引き返せないものを感じていた。

「……でも、ここで終わるわけにはいかない。」
坂下は拳を握り、再び小松田に目を向けた。

続く監視と執拗な攻撃の中、坂下は次第に追い詰められていく小松田の反応に注目し始めていた――次に何が起こるのか、坂下自身も知らないままに。

    *

大石は羽田空港の改札口で立ち止まり、少し遠くから小松田の後をつける私刑団の一団を見つめていた。
数十人にも及ぶその集団は、SNSで結成されたという割には、驚くほど統制が取れているように見える。

「これ、本当にやりすぎじゃないか……。」
自分もその輪の中に加わっていることを、大石は少し後悔し始めていた。

私刑団に入った理由は、単純な好奇心ではなかった。
小松田が何を考えているのか――そして、この異様な状況がどこへ向かうのかを見届けるべきだと感じたからだ。

「大石さん、ここにいたんですね。」
道津が気さくに声をかけてきた。
「お前もあいつのこと、許せなかったんだろう?」

「……まあ、そうだな。」
大石は曖昧に答えた。実際、許せないというよりも、小松田が危険な状況に追い込まれるのを見過ごせなかっただけだ。

「今日は徹底的にやってやりましょうよ。」
道津は笑顔を浮かべ、坂下に何やら指示を出しながら去っていった。

大石はその背中を見送りながら、心の中に不安の影が広がるのを感じた。

ターミナル内では、小松田がゆっくりと歩いている。その周囲には私刑団が散らばり、どちらも黙々と彼を監視しているのが分かる。

「これ、本当に異常だな……。」
大石は思わず呟いた。

その時、小松田がペットボトルを手に持ち、軽く振り回しながら歩いているのが目に入った。
近くにいた赤ん坊を連れた女性が少し怯えた様子で立ち止まり、別の方向へと急いで去っていく。

「何がしたいんだ、あいつは……。」
大石は心の中で問いかける。

坂下がその様子を見て笑いながら、私刑団のメンバーに何か指示を出しているのが見えた。
「やっぱり、小松田はああいう奴だよな。人を苛つかせる天才だ。」

「本当にそうなのか?」
大石は小松田をじっと見つめた。彼の表情は一見すると無感情に見えるが、その奥にはどこか疲労と諦めが漂っているように感じた。

「坂下や道津は復讐と言っているけど、これ以上やる意味が本当にあるのか?」
大石は胸の中で疑問を抱きながら、私刑団の人々を見渡す。

皆、一様に高揚した表情を浮かべている。SNSの呼びかけで集まったとはいえ、ここまで一体感を持って動けるのは奇妙に思えた。

「これじゃあ、ただの集団いじめじゃないか……。」
彼の心には、私刑団の行動が正義ではなく、単なる自己満足や暴力衝動の発散に見え始めていた。

小松田がゆっくりとターミナルの外へ出ていく。彼の背中を追いかけるように、私刑団と公安が動き始めた。

「……どうなるんだろうな、これから。」
大石は一歩後ろに下がりつつ、その場を離れられない自分に気づいた。

彼の胸には、小松田へのわずかな同情と、目の前で進行している異常な事態を見届けなければならないという責任感が入り混じっていた。

「ここで終わらせるべきなのか、それとも何か別の道があるのか……。」
大石は答えを見つけられないまま、小松田を見守り続けた。

     *

羽田空港のターミナルに設置された監視カメラの映像を小林は睨みつけていた。
小松田は一見何事もなかったように歩き続けているが、その周囲にいる数人のグループが妙に統率が取れているように見える。

「どう思う?」
小林はイヤホン越しに東条に問いかけた。

「奇妙っすね。監視対象者の周りにいる人数がちょっと多い気がします。普通こんなに人が集まりますか?」

「単なる偶然……ではないかもしれないな。」
小林は画面に映る複数の人物が、小松田の動きを目で追いながら、あたかも何か計画を共有しているかのように見えるのを不審に思った。

「彼らが何者かは後で調べるとして、今は小松田を注視する。何か問題を起こされるわけにはいかない。」

その時、一人の若い男が急に動き出した。モニター越しに彼の様子を見ていた小林は、胸に嫌な予感を覚える。
「東条、あの男を見ろ。小松田に向かっている!」

モニターには、小松田の背後から男が走り寄る様子が映し出されている。

「止めろ!」
小林の叫びが監視ルームに響く。指示を受けた公安職員が即座に動き、男の腕を掴んでその場に押し倒した。

「やめろ! なんで止めるんだ!」
男は暴れるが、職員たちの冷静な動きによりそのまま制圧される。

小松田は一瞬振り返ったが、再び歩き出した。その表情には動揺の色は見られない。
一方、男の突発的な行動により、周囲の空気は一変していた。

「何だったんだ、今の……?」
小林はモニターに映るその他の人々の動きに目を凝らした。小松田を取り巻いていたグループの中には、動揺したように互いに顔を見合わせる者や、小声で何かを話し合う者もいた。

「小林さん、これ……何かおかしいっすよ。」
東条の声が少し震えている。
「普通の通行人がこんなに一斉に反応しますか? 何か……目的がある集団なんじゃ?」

「目的が何であれ、今は混乱を抑えるのが先だ。周囲の安全を確保しろ。小松田はまだ何か仕掛けるかもしれない。」

小林は視線をモニターに戻し、引き続き小松田の行動を追う。だが心の中では、先ほどの出来事がどうしても引っかかっていた。
あの男の暴力衝動は偶然の産物ではない。そして周囲のグループの動きも、単なる傍観者のものとは思えない。

「これは……単なる監視対象者への偶発的な攻撃じゃないかもしれないな。」
小林はそう呟きながら、次に何が起こるのか、さらに神経を研ぎ澄ませていった。

   *

羽田空港の出来事から数時間後、坂下は家の中を苛立たしげに歩き回っていた。
「あいつが悪いんだろうが! 何でこっちの仲間が捕まらなきゃいけねえんだ!」

小松田の背後から拳を振り上げた仲間が、警察に取り押さえられる瞬間の光景が何度も頭をよぎる。
「ふざけるな……あいつこそ、俺たちをこんな気持ちにさせた張本人じゃないか。」

坂下はスマホを手に取り、SNSを開いた。羽田空港での出来事を撮影した動画が拡散され、コメント欄には膨大な数の意見が寄せられていた。

「これは小松田が引き起こした当然の報いだ。」
「でも、警察があんなに周りを取り囲んでいたのはどういうことだ?」
「警察が小松田を守るためにいたのか、それとも別の理由か?」

SNS上では小松田を擁護する声と、自分たちを支持する声が入り乱れ、論争が過熱していた。

「これじゃあ、まるで俺たちが悪者じゃねえか……。」
坂下はコメント欄を読みながら、拳を固く握った。

その時、道津からのメッセージがスマホに届いた。
「もう限界だな。奴だけじゃなく、警察も徹底的に追い詰めるべきだ。」

「警察を追い詰める?」
坂下は道津の提案に目を見張ったが、胸の中には同意する気持ちが湧いてきた。

「あいつらが何を考えているのか知らないが、俺たちの仲間を捕まえておいて、その理由すら明かさないなんてふざけてる。」

坂下は道津と連絡を取り合い、羽田空港で動いていた警察官について調べることを決めた。

数日間、SNSや動画の解析を通じて、坂下たちは羽田空港で小松田を監視していた警察官の一人が、小林という名前であることを突き止めた。
「こいつだ。羽田で俺たちを取り締まってた警察の一人だ。」

坂下たちは小林の顔写真や勤務先をネット上にさらし、彼の行動を監視することを決定した。

「いいか、今度は徹底的にやる。」
坂下はSNSのグループで道津や他のメンバーに指示を出した。

「警察が俺たちの仲間を不当に捕らえたんだ。だったら俺たちも同じことをしてやる。」

彼らは小林の勤務時間、帰宅ルート、生活習慣に至るまで調べ上げ、交代で彼を尾行する計画を立てた。

坂下は、この計画が単なる怒りの発散ではなく、自分たちの正当性を主張する手段であると思い込んでいた。
「これで奴らにもわかるだろう。俺たちが黙っているわけにはいかないってことをな。」

その夜、坂下は自室のカーテンを閉め、ベッドに腰掛けた。スマホには次々と通知が届き、計画が順調に進んでいることを知らせてくる。

「小松田も警察も、全部俺たちが暴いてやる。」
坂下の中で膨らむ怒りは、もはや抑えようのないものになりつつあった。

だがその一方で、心の奥底では、これ以上の行動が何を引き起こすのか、わずかながら恐怖も感じていた。
「……もう、引き返せねえんだよ。」

坂下はその恐怖を振り払うようにスマホを握りしめ、次の計画に目を通した。

 第三章

羽田空港での出来事以来、小林は異様な視線を感じ続けていた。
家を出れば、見知らぬ誰かが遠くから自分を見つめている。勤務先に向かえば、路上に佇む人物がスマホを手にこちらを撮影しているようだった。最初は偶然だと思おうとしたが、次第に無視できなくなっていった。

「東条、最近おかしなことが多いんだ。」
休憩室で東条に声をかけた。
「おかしなことって?」
「家を出るたびに誰かにつけられている気がする。駅やコンビニでも、やたらと視線を感じるんだ。」

東条は眉をひそめた。
「監視されてるってことですか? それ、仕事の影響じゃないんですか?」

「かもしれないが……羽田のあの事件以降なんだよ。」
小林は拳を握りしめた。自分が警察官であることを知り、何か報復しようとしているのだろうか? 頭の中で答えの出ない問いがぐるぐると回る。

翌日、小林の不安はさらに高まった。
出勤途中、駅のホームで立っていると、近くの男性がわざとらしく声を上げた。
「こいつ、警察だよな?」
その声に反応して周囲の人々がざわめき始める。誰かがスマホを向けているのが視界に入る。

小林は咄嗟にその場を離れた。だがエスカレーターを上がる途中でも、不快な笑い声が耳に残る。
「こんな奴、守る価値ないだろ。」
「警察のくせに俺たちを捕まえるって、どういうことだよ。」

冷や汗が背中を伝い、小林は深呼吸を繰り返しながらも足を止めることができなかった。

嫌がらせは日を追うごとに悪化していった。
帰宅するとポストには「お前を見ている」という手書きのメモが差し込まれている。
SNSを開けば、自分の顔写真や住所が拡散されている投稿が目に飛び込んでくる。

「もう耐えられない……。」
小林は机に突っ伏し、頭を抱えた。自分が正義を信じてこの仕事を選んだはずなのに、今ではその正義に押しつぶされそうになっている。

その夜、小林は警察署の屋上に立っていた。
風が強く、街の明かりが遠く瞬いている。誰もいないはずの屋上で、小林は冷たい鉄柵に手をかけ、空を見上げた。

「これ以上、誰も守れない……。」
そう呟いた瞬間、視界の端にふと何かが揺れるのが見えた。だがその時、小林の心の中では全てが静寂に包まれていた。

翌朝、小林の同僚が屋上で発見したのは、小林の遺書と、彼の制服のボタンだった。
「誰も助けられなくて、すまない。」
その一言が書かれたメモが、小林の最期の言葉だった。

    *

坂下は、昼間の光が差し込む部屋の中で、自分のスマホをじっと見つめていた。
SNSの通知が止まらない。そこには彼の顔写真、名前、そして住所が晒されていた。

「おい坂下、調子乗りすぎたな。」
「警察官をいじめてたって本当か?」
「お前も小松田と同類だな。」

通知に続くコメントを読み、坂下は手を震わせた。羽田空港での出来事からしばらくして、自分たちが警察をターゲットにした計画は成功したと思っていた。だが、その代償として、逆に自分が追い詰められる立場になるとは夢にも思わなかった。

数日前、道津からの連絡で、小林の自殺のニュースを知った。
「坂下、これヤバくないか?」
「ヤバいって、何がだよ。小林が勝手に追い詰められただけだろ?」

道津は声をひそめた。
「俺たちのやったことが原因だって噂されてる。しかも、その話がSNSで広まり始めてる。坂下、お前の名前も出てるぞ。」

その時は笑って流そうとしたが、家のポストに差し込まれた無言の手紙や、電話越しに響く息遣いのような音が、坂下の平穏を奪い始めていた。

「坂下、お前のやったこと、知ってるぞ。」
コンビニの店員が冷たい視線を向けてくるように思えた。買い物をしている他の客が、わざと坂下から距離を取る。

SNSを見れば、彼の行動を非難するコメントで埋め尽くされている。
「こいつ、人の人生を壊したんだろ?」
「自分がやられたらどう思うんだ?」

誰もが坂下を責め立て、彼の居場所をどこにも残さない。

「お前、ここに住んでる坂下だよな?」
家の前で見知らぬ男が声をかけてきた。
「……違います。」
そう答えるのが精一杯だった。坂下は家に駆け戻り、鍵を二重にかけた。

ドア越しに聞こえる不気味な笑い声に耐えきれず、部屋の隅で膝を抱えた。

「もう、無理だ……。」
深夜、坂下はスマホを握りしめ、誰かに助けを求めることを考えたが、連絡先を眺めるだけで指は動かなかった。道津すらも、坂下のメッセージには既読をつけるだけで何も返してこない。

窓の外は静かで、月明かりがかすかに部屋を照らしている。坂下は立ち上がり、テーブルの上にあるノートを手に取った。

「俺は間違っていたのかもしれない。でも、それでも……。」
そう書き残し、ペンを置いた。

翌朝、坂下の部屋に訪れた警察官が発見したのは、テーブルに置かれたノートと、静まり返った部屋の中で佇む彼の姿だった。
ノートにはたった一行だけ書かれていた。

「誰も俺を見てくれないなら、生きている意味はない。」

 エピローグ

何も変わらない日常が、今日も静かに流れていく。

窓を開ければ、穏やかな風がカーテンを揺らし、隣の家からは子供たちの笑い声が聞こえる。街路樹の葉がさらさらと音を立てる中、僕はコーヒーを淹れながら何気なくニュースを眺めている。

「警察官の自殺に関与した疑いが……」
「SNSを利用した監視行為と、その代償……」

スクロールする手を止め、画面をじっと見つめる。僕の名前はどこにも出ていない。もちろん、そうなるように仕向けた。

僕の計画は完璧だった。彼女との喧嘩がきっかけで、ほんの些細な悪戯のつもりだったのに、そこからここまで事態が転がり落ちていくとは思わなかった。でも、結局全ては計算の範囲内だ。

警察が出てくる? それは予想外だった。しかし、思いがけないスパイスが加わったおかげで、今回の快楽はさらに深みを増した。僕が仕掛けたのはただの「悪戯」。そこに監視や報復といった要素が絡まり、事態は思った以上に劇的に展開していった。

小林という警察官。彼は真面目だったが、それゆえに僕の「遊び」に翻弄され、最後は自ら命を絶った。坂下という男。あれほど僕を憎んでいたはずが、最終的には自分の行動に飲み込まれた。どちらも僕にとっては駒に過ぎない。そして、その駒が自ら転落していく様を、僕はただ眺めていただけだ。

これほどの快楽は人生で初めてだ。自分の行動が世界を、他人を、こんなにも簡単に動かせるとは思わなかった。僕の一言、僕の小さな悪意が連鎖し、何人もの人間の人生を狂わせた。それを知る瞬間、胸の奥がじわじわと熱を持ち、言葉にできないほどの充足感で満たされる。

だが、面白いのはこれで終わりではないということだ。坂下が消え、小林が消えたところで、世界は回り続ける。僕がその中心にいることは、誰にも知られることはない。

「さて、次は何をしようかな。」
カップに残ったコーヒーを飲み干しながら、僕はつぶやく。平然と、何事もなかったように日常を過ごす僕の姿は、きっと誰の目にも「普通」に映っているだろう。

だが、僕だけが知っている。この平穏な日々の裏側で、僕が何を楽しみ、何を得たのかを。

そしてまた、僕は「次」を探し始めるのだろう。誰にも気づかれずに、じわじわと相手の心を壊していく快楽。その甘美さを味わうために。

 あとがき

最近は統合失調症の方々に役立つ記事や、小説などを執筆してきましたが、今回は趣味全開で書いた作品をお届けしました。実はこの小説、前から少しずつ進めていたのですが、最近なかなか手をつけられていなかったので、改めて完成させた次第です。

結構な長編になったので、読むのが大変だったかもしれませんが、サイコパス的な雰囲気やテーマが好きな僕にとっては、とても楽しく取り組めた作品です。もし少しでも楽しんでいただけたら、「スキ」していただけると嬉しいです!

ちなみに、劇中で「精神病だから捕まらない」という描写がありましたが、これは完全に事実とは異なりますので、その点はご理解ください。

最後になぜこの小説を書いたのかというと……実はこの作品、フィクションのようでいて、少しノンフィクションでもあるという背景があるのです。詳しいことは控えますが、そのエッセンスを感じ取っていただけたなら幸いです!

改めて、ここまで読んでいただき、本当にありがとうございました。 




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