約束忘れの老若男女の言い訳「バタバタしていて…」は、ボクたちホモ・サピエンスにナニをもたらすのか。
えぇぇぇぇ?
やっていなかったの?
あれだけ繰り返し言ったのにやっていない。
こまった、納期に間に合わない。
ほんとうに信じられない。
こいつ十中八九、忘れていたよな…。
不運にも優秀な君たちは、相手を信頼するがあまり、こんな残念極まりない場面に遭遇してしまうことが日常的にあるだろう。
そしてやっていなかった輩からは決まってこう言われる。
「すみません、バタバタしておりまして」
今自分は手が回っていないんだ、
とても忙しくて大変な状態にあるんだ、
だから色々なことを大目に見てくれ。
いや本当に、非常事態でありまして…。
今大変な状況なんです。許して下さい。
………
「忙しさ」というものを様々な責任を逃れる為の「言い訳」にして、不毛な熱意のアピールが始まる。
バタバタ…
バタバタ…、バタバタ…
この今にも飛び立とうとする擬音表現。
良識あるヒトの多くは、普段の生活でバタバタと聞くとどうしても我々人類ホモ・サピエンスの枠組みを超えて、鳥類が今にも大空を目指して飛び立とうとするのに近い状態を想像してしまうだろう。
バタバタと鳥類が飛び立つ姿。
それはきっとスズメ目スズメ科スズメ属のイエスズメの類の小型鳥類ではない。
中型鳥類であろう。
あえて例えて言うならばハシブトガラスと言った鳥類に近い。
つまりこういうことだ。
こんなことすらできていないの?
ってレベルのことを
「バタバタ忙しい」
と言い訳してしまうホモ・サピエンスは、影でジャパニーズ・クレイジー・カラスと呼ばれても仕方がない、ということだ。
そこで、ふと疑問がわくだろう。
なぜボクはこんなにジャパニーズ・クレイジー・カラスの気持ちが分かるのか。
それはもう、何を隠そう自分自身がどこからどう見てもこの「忙しいアピール」を繰り返す人間以外の何者でもないからだ。
ボクはバタバタしているフリを4番目の特技とし、普段から入念にできなかった時のタメに、色んなことに保険をかけまくっているのだ。
※ちなみに1番の特技は寝たフリである
「ああ、ゆづおさんは忙しいから仕方ないよね」
「そりゃ、ミスもするよね、こんなに忙しければ」
「忙しいからこんな意味不明な手抜き記事なんだろう」
と思ってもらいたいのだ。
まさしく極めて悪質であるが、相手を欺いて優しくして欲しいという、お腹をすかせてゴミを漁るカラスに似た欲望とまるで同じである。 ボクの中に宿るカラスイズムと言っても過言ではない。
だからやたらとバタバタと忙しぶっているのだ。
実態はと言えば、何一つとして追いつめられてはいない。
毎日のように定時に仕事を終えて家に帰ると
子どもたちと‘’かくれんぼ‘’をして、高さ的にも絶対に見つからない押入れの中で布団にくるまって息をひそめて時間稼ぎをしているし、
寝る前には推理小説を読みながら古畑任三郎ばりに名刑事気取りをして「あ、これこいつが犯人だわ」って妻に「半分しか読んでないのにオレは分かったんだよ」って事前に知らしめておくことに意義を感じているし、
部屋でくつろぎながら鼻をほじって株価ボードを眺めて
「あぁ2億貯まったらどんな生活スタイルにシフトしようかな」
と資産の皮算用に余念がないし…
バリバリ働き盛であるはずのアラフォーとしては稀にみるほど暇な部類に入るボクなのに
「とにかく色々やっていて忙しい感」
を持ち出して間接的に「凄み」をアピールしているのである。
まさに愚の骨頂である。
苦労賛美の根は深い
はえーなぁ。
そうか、もう2021年が終わるのか。
テレビから流れる番組の特集を見て年末年始を感じるようになった。
「M-1グランプリ」
「箱根駅伝」
元来よりテレビ嫌いの僕でも、毎年、時間を忘れるほどに見入ってしまう大好きな番組がこの2つである。
紹介VTRが特に良い。
これらのVTRは基本的に‘’the苦労話‘’である。
制作側が伝えようとする
「苦労したこと自体に価値がある」
という主張を心の深いところでボクは純粋に受け止めて
「彼らはこんなに頑張ったんだ。きっといいパフォーマンスをしてくれるはずだ。本番でもガンバれよ!」
と、普段の「斜」の精神を忘れてあろうことかまさかの感情移入してしまうのだ。
そう、苦労話は
「信頼度や期待値、感動などの上乗せ要素」
があるのだ。
彼氏が深夜、クソ寒い中、自転車に乗って1時間かけて会いに来てくれたら、
そりゃ、乙女の脳内には
山下達郎の「クリスマス・イブ」の旋律が流れるだろう。
それはもうタクシーでお金をかけて会いに来てくれるよりも愛を感じるはずだ。
最新鋭のソフトを使ってチェックをすれば一発でわかるバグも、
「我が社の開発チームの10人が総出で、1週間かけて入念にチェックしました!」
の方がどことなく説得力と感謝の気持ちが生まれる。
「苦節20年!試行錯誤でやっと完成した店主こだわりのラーメン」
と
「AIを駆使して5分で開発したラーメン」
のどっちを食べたいかと聞かれれば、時間がかかってるってことは、それだけ試行錯誤を繰り返して時間をかけたってことだから、きっとおいしいはずだ。
と、やっぱり苦節20年のラーメンをまずは選んでしまう。
というように、苦労というのは、
「そこまでしたのだからいいもののはず」
という信頼につながり、そのものの価値を底上げする効果をもっているのだ。
こんなことを書いて思い出した20年前の出来事
僕が本命の内定を頂き、就活をちょうど終えた頃に、大学が主催した講演会にて、とある上場会社の社長の講演を聞く機会があった。
ボクたち就活生、これから社会人になるヒトに向けたメッセージといった内容だった。
最初はすべてが新鮮だったからであろうか。フムフムと納得することが多かった。
しかし講演の中盤に差し掛かったときだ。
「エントリーシートや履歴書は内容よりも筆圧をみている」
と言いだした。
‘’内容よりも、ひ・つ・あ・つ!?‘’
常日頃から斜に構えている精神の捻じ曲がったボクは、内心、プッと笑った。
なにを言ってるんだろう、このオジさんは。
「対話のできない状況で自己アピールする唯一の手段である履歴書を書く時に、真剣さがあれば自ずと力が入りシートに筆圧が残るはずだ。履歴書の一字一句に真剣になれずに手間を惜しむような人の仕事は、いい加減と判断できる」
と、強い口調で言い切ったのだ。
ほぅ。なるほど。
それは‘’手書き‘’という土俵だけの世界観では一つの指標として一理あるであろう。
‘’手書き‘’というアナログの土俵だけでモノゴトを考えるのであればね。
これを聞いて理解に苦しむボクは、
「やれやれ」
とため息をついて講演会場を後にした。
これから40年こんな世界でやっていけるのだろうか。死刑台に向かう囚人のような気持ちになった。
履歴書だけではない。
今度はボクの会社の話になるが、入社したての3ヶ月の試用期間は「日報」を書かされた。そして「日報は手書きで書け」という慣行があった。
人事部が言うその理由は
「手で書くことで、今日の振り返りが確実になる。」
と言うのだ。
もしも
‘’手書きはその人のココロの声が伝わる‘’
と、フワッとした概念ではあるが、こう言われるとボクは意外にも納得していたように思う。
たしかに数少ないが、学生時代にもらったラブレターは女子特有の丸みを帯びた手書き文字から伝わってくるココロの声が嬉しかったし、
年賀状だって、手書きのメッセージのところしか読まない。
これはPCの印字によるものでは絶対に踏み入れられない領域にあるように思う。
しかしウチの人事は手書きによる
‘’成果・質‘’
に言及したのだ。
ここがどうしても納得がいかなかった。
結局ボクは、外ヅラの姿勢が抜けない最初の一ヶ月は手書きで提出したものの、残りの二ヶ月は
「バタバタ忙しい」
とハシブトガラスになって、PCで打ち込んで印字したものを提出するようにした。
今、当時の人事部だったヒトとは、とても仲良くなって一緒に飲みに行くような関係になったが、何千人もみてきた試用期間中の新入社員で、こんなクソ生意気な態度をいきなりかましてきたのは後にも先にもボクだけだったようだ笑
しかし、よく考えてほしい。
合理的な側面でみると、履歴書も日報もPCで構わないはずである。
「漢字間違っていないだろうか」
「鉛筆で下書きして、最後はボールペン」
「修正液は使えない」
「間違えると最初からやりなおし」
大事なのは内容なのに、手書きだと内容以前に気を使うポイントがありすぎてそれだけでくたびれてしまう。
しかし「面倒くさいほど価値がある」という考えで凝り固まった‘’一部のおじさん‘’世代を前にすると
医師が最先端の機器を使って診察時間を短くするようならば
「ちゃんと見ているのか!?」
とクレームをだすように、
こういった人達は無理にその認識を変えようとすれば強い抵抗を示すのだ。
「テレワーク」をするよりも、朝早起きして満員電車に揺られて出社した人が「偉い」謎の文化
南アフリカの変異種確認のニュースを朝からやっていて、不気味さはあるものの、ようやくコロナの収束がみえてきた。
「アフターコロナを見据えて」
とよく叫ばれてきたが、結局、このコロナが世の中を変えたものはナンだったのだろう。
その観点で振り返ってみるとコロナ感染拡大の看板施策であった
「不要不急の外出禁止」
が最も生活様式そのものを変えたといっても過言ではない。
厚生労働省の専門家は
「新年会や送別会」
などを例にあげていたが、ボクたちに最も身近で危険度が高くそして不要なのが
「満員電車での朝の通勤」
だった。
朝決まった時間に出勤しなければならない合理的な理由がある人は少ない。
ボクの周囲からは通勤ラッシュから解放された会社員の喜びの声が多く聞こえてきていた。
まさにコロナが生んだ副産物。
「テレワークを国家規模で推進」
という施策は
「念のため、在宅勤務します」
と会社で言いやすい雰囲気をつくった。
日本の会社組織では人と違うことをしていると悪目立ちするが、‘’みんな一緒‘’は進みやすい。
みんながやっていると自分もやりやすい。
国家推進のリモートワークの業務形態は、若モノを中心とした合理性を求める彼らに微笑んでいると言えた。
一方で
「一生懸命仕事をして、会社に尽くしてます。だから私を評価してください。私をクビにしないでください」
という‘’誠実さ‘’や‘’忠誠心‘’を示すスタンスで会社と付き合っていた社員は、在宅勤務を命じられるととても困った。
残業による一生懸命さをアピールできず、成果だけで評価されてしまうからだ。
テレワークは自分の活動の「凄み」を客観的に人に説明することが難しい。
あぁ、暇を持て余していると思われてしまったら最後だ。
「自分がいなくても会社が回る」
そんな事実がバレてしまったら大変だ。
そうして上司や同僚が出社するようになると「早起きして、満員電車に揺られて、苦労をして出社した人が偉い」
といった見方をする人が出てきて、終いには出社への“同調圧力”が生まれて、いつの間にか出社が当たり前になってくる。
で、結局テレワークは浸透したのか。
各所からテレワーク実施率が出されているが、今調べてもあまりにも数字にバラツキがありすぎてどれが実態を表すものかが分かりづらい。
しかしここ神戸。
ボクの肌感覚で言えることは、企業ごとに部分的なテレワークの導入はあるのだろうが、もうビフォーコロナの働き方に大勢は戻ってるよね、って。
テレワークは現実的には、‘’苦労のパフォーマンスができない‘’といった側面だけでなく、たしかにやってみてこれ自体が日本特有の働き方と合わないと感じるところもあった。
日常の職務分担を職場内のコミュニケーションで調整している部分は、やはり出社した方が効率的だった。
しかし、国家推進の半強制テレワークがきっかけとなって「ためしにやってみた」という事実は大きく、反省点も含めて各社で在宅勤務のルールが急速に整備されるようになれば、あれだけ変われなかった日本の働き方はもしかしたらこれから大きく変わるかもしれないと、そんな可能性を残したようにボクは思う。
いやぁ、それにしてもバタバタと忙しい。
忙しいながらも鼻クソほじりながら、こうやって5000文字を綴ってきた。
ドヤ。
ほら。
こうやって自分の「凄み」を説明するために、記事の内容勝負ではなく「忙しさ」と「そんな中において多い文字数」いうワケの分からない基準を持ち出す、オレ。
よく考えれば、これはある種のマウンティングである。
「忙しいから内容は低俗であっても許してくれ」と弱さを見せながら、同時に
「忙しいのに俺は凄いんだぞ」
と威嚇し相手をマウントしている、と捉えることができる。
一体自分は、アラフォーにもなって何をやっているのだろうか。こうして頭を整理しながら綴ってきて、ようやく気付いた。
この忙しさをアピる活動、とても低俗で恥ずかしいので、金輪際やめようと思う。
ハシブトガラスの飛び立つ様のアピールは、何も良い結果を生まない。
自分の状況に関しては、いついかなる時も、「暇です」と答えるべきなのだ。
それが正解である。
と、ビシっと言い切ったところで今日の記事を締めたいと思う。
さて、余談ではあるが早起きしすぎて暇つぶしにnoteを書き始めたものの、ぜんぜん時間が進まないぞ。
まだ早朝か。
早く時間が流れて子どもたちが起きてくれないだろうか。
ボクはもう決めているのだ。
今日の子どもたちとの‘’かくれんぼ‘’
湯が抜かれた風呂の中に体育座りで入ってフタをして、息をひそめてジッとしながら時間がゆっくり流れるのを楽しむのだ。
どうだ。想像するだけで‘’忙しい‘’一日が始まるぞ。
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