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「意識、高いっすね」と若者から言われて、デヘっとした。
もうタイトルに書いた内容以上でも以下でもなく、これで今日のnoteはスパッと終わるべきかもしれないが、
意識そのものが平均以下であるボクですら「謎の私デキる感」で装飾するだけで“意識高い系”がつくれてしまう大発見をしたので、忘れぬよう、
noteにしたためておきたい。
◇
“ノースマホ、ノーストレス”
の生活から2週間がたった。時間があれば、本を読んでいる。
通勤中の社用バス、
営業中の電車移動、そして昼休みと。
それをみた20代の部下が
「ゆづおさん、意識高いっすねー」
そう言った。
褒められたのか、バカにされたのかわからない。ボクらの世代の“高い”は
高収入、高学歴、高身長と、プラスの意味に使われてきたが、ワカモノ語ではその真意は掴めない。マイナスに使われてしまうこともあるからややこしい。
ボクはひとまず褒められたことにする。
じゃないと、アラフォーおっさん。
涙もろくて泣いちゃうから。
だけど、ここにワカモノたちにお詫びとともに訂正をさせていただいておこう。
キミたちには言っていなかったけれど、スマホが壊れたのだ。岩にガンッしちゃって。
だから、仕方がなく本を読んでいる。
本当はツムツムがしたくて、人差し指がウズウズしちゃって仕方がないのだ。
過剰なるセルフブランディング。
意識高い系とは、
人並み以下の意識を高く、それらしく見せているだけで成立できちゃうもんなんだな。
娘2人が漢検を受験した
小3の長女は3回目、小1の次女は初めての受験。そろばん、暗算、水泳と並んで娘が昇級を楽しみにしているプチお受験である。
「小学生の子どもを学習塾と英会話と体操とスイミングとピアノに通わせているので、オレの小遣いは少ねーのよ。エヘエヘエヘヘヘヘ。(チラッ、チラッ)」
的な、よくある愚痴からの流れの、
さりげない子ども自慢&おカネ使ってます話を今からしたいわけではない。
ぜんぜん、ちゃう。
ボクは、多少のお金がかかろうとも、
日常のスパイスとして、子どもたちには取得できそうな資格をどんどん受験してもらいたい、そう思っている。
努力を積み重ねるプロセスの果てに得られる小さな達成感を積み上げてほしいから。
ビリギャルのように、
不良やギャル、落ちこぼれの高校生が一念発起して猛勉強し、難関大学に合格していくという一発逆転のストーリーは確かに存在する。しかし、現実はそんな奇跡の物語は滅多に起こらない。
悲しいかな、パパママの平凡な遺伝子をもった我が子には、そんな危なっかしい裏道があるだなんて、存在すら頭に入れておかないでいてほしい。だって無理だから。
そういうガチャをことごとくハズす遺伝子だから。
いや、それよりもね。
そもそもの話になるが、
そんな可能性に賭ける必要なんてない。
日本の国立大学に入りたいのであれば、特別な才能、天才は必要なく、相応の努力を積み重ねるだけで相応の大学に入れるのだから。
でも、その積み重ねの習慣は、
小学、中学時代をどう過ごすかでほぼ決まる。それがボクの人生経験から導き出された確信であり、学問に対する持論である。
小3、小1の漢検7級や10級なんてそれ自体に夢や希望、そして資格としての価値はない。しかし、確実に達成できることを積み重ねていくそのプロセスこそが、後々に、大きな“自信”と言う名のエンジンになる。
きっとなる。
親であるボクは、それを期待している。
先日、“契約社員”が我が部の仲間になった。
ボクと同い年。
松坂世代の1歳上。AGE43。
契約社員。
我が社は特段なキャリアがない限り、中途採用はない。そのハードルは新卒とは比べものにならないくらいに高い。だから彼は、将来的に正規雇用されることを目指して入社してきたわけではない。純粋に2年の期限付きの契約社員である。
実は、同い年と聞いてボクは心底、嬉しかった。だから部下になる“同級生”をその夜、飲みに誘った。雇用形態、会社での立場は違えども、同じ時代を歩んできた“同士”だから。
聞くと、彼は大卒で音楽の道を志して10年、その後はイベント関係の派遣を転々としてきたようで、今回、初めてスーツを着る仕事に就いた、と言う。
生き方には良いも悪いも、上下もなく、
ただ“違い”だけが存在するということを完全なるおっさんのボクは知っている。
同い年だから似てる。
けど、どこか違う。
それはここに語り尽くせぬほどに、多くが違った。
20年のロスは想像以上に残酷なまでに大きかった。その時間を正規のリーマンとして生きてきたボクと、その世界に触れてこなかった人間との差は、“この土俵で生きるのならば”決して小さくはない。
残酷だが、その年月を取り戻すのはほとんど不可能である。
彼は言った。
大学4年で一度は就職活動をした。氷河期で入りたい会社・業界に入れず、そんな時にサークル仲間が音楽の道へと誘ってくれた。
一発当たればと2年くらい音楽の道を突き進みながら、その期間に就職活動をしようと思っていたもののダラダラとバイトで食いつなぐ生き方をしていると、気がつけば30歳を過ぎていた。
今となっては就職活動中にそう決断した自分、それが、そもそもの失敗だったことはわかっている。でも低学歴の自分ではどうしようもなかった、時代が、そして運が悪かった。
と。
あぁ、なるほどな。
と思った。
就職氷河期。
たしかに、あのころはしんどかった。
今の子には分からないかもしれないが、それは事実。
ボクだって希望していた企業には片っ端からエントリーしたが、片っ端から書類選考で落とされた。苦労して面接に進んでも面接担当者ガチャがハズれで、力を発揮できなかった。結果、就職戦線で苦労し、当時の希望とは程遠い業界で働き始め、今までやってきた。
でもあれから20年も経った。
これもまた事実。
あの頃をなんとか生き抜いた人間は、ツイてなかった環境も受け入れて皆、なんとか努力を積み重ねてやってきている。
そうだ。
この人は、努力を積み重ねるプロセスはあったかもしれないが、一発大当たりの人生を夢みて、小さな達成感の積み上げが少なかったのだろうな、目の前の地味な成功を掴みに行かなかったのかもしれないな。
そう思った。
いつまでも時代が悪かったといっているのは積み上げてきたものがなかった、
と、自身が歩んできた過去を否定しているようなものだ。
失われたものをいつまでも嘆いているほど人生は長くないし、人生は後悔のためにあるんじゃない。
エリートをうらやむだけの惨めな人生を送るのか、自分に折り合いをつけた人生を生きるか、伸びしろの少なくなったアラフォーのボクらに残された道は、多くのケースでもはやどちらかしかない。
彼の長い人生で、おそらく最大で2年しか交わることもないのだろうけれど、失われた過去に縛られて未来まで失うことはない、そういう言葉を彼にどんどんぶつけていこう。
酒を交わしながら、
珍しくボクはずっと聞き役に徹して、
心のなかでそう思った。
漢検のテストが終わり…
二人とも満面の笑顔で帰ってきた。
“できたよー!”
“次も頑張るねー!”
第一声がそれで、
靴を脱ぐとその足でサーっと机に向かい、それぞれが次の階級となる6級、9級の単語カード作りを始めた。
あれれ?
あれだけ前日まで、
もうしんどい、
習ってないからわからない、
二度と受けたくない、
なんてブツブツ泣き言を言ってたのにね、キミたち。
なんなの、この姿勢、変わりよう。
ああ、、、。
もしかしてあれかいな。
平凡きわまりないオレの遺伝子?
過剰なるセルフブランディング。
なるほどね。
ボクは2人の机に行くと、後ろから
「意識、高いっすね!」
そう声をかけて、ポンと肩を叩いた。
娘2人は、デヘっとした。
地味な努力、その先にある地味な達成感。
色んな経験をしていって欲しい。
そりゃ負けることだって、挫折することだってあるだろう。
しかしね。
それでいいのだ。