30分早く着いても時間の価値の分からない自分に、大いなる不安を感じている。
高校時代。
心を寄せたのはバンドにラグビー、
熱湯コマーシャル、失楽園、おとなの絵本、ゲーム、エロ、広末、キムタク。
奇跡の女神が舞い降りた‘’大学受験‘’を除けば、いったい自分がどこに向かおうとしているのかもよく分からない、もはやどうしようもない学生生活を送った。
授業中は、先生にバレないように、
ポケットにある“MDプレイヤー“からのびるイヤホンコードを制服の袖の中に通してこっそりとロッケン・ロールを聴いた。
からだの中で複雑な通し方をすればするほど、コードはぐちゃぐちゃにからまり、思えばそのからまりを解きほぐすムダに、ボクは人生の少なくない時間を費してきた。
今思うと
なんとも不思議な光景である。
当時のボクのような不真面目な高校生は、
今でも一定数いるであろうが、
諸君はコードのからまりを解きほぐすことに無駄な時間を費やしてはいやしない。
先生の目をかい潜るのも楽であろう。
無線イヤホンを使い、
ドングリみたいなものを耳に詰め、
コードが絡まる心配もなく、音楽を優雅に聴いているのだ。
…というよりも、、
ん?
なんて言った?
MDプレイヤー??
諸君にはその疑問が、
真っ先にくるであろう。
知らないという人のために、オーディオ機器に精通しているとは決して言えない素人丸出しのこのワタピが、
端的かつ専門的に解説しておこう。
MDプレイヤー。それは、
「SONYが開発し、わずか5年程ではあるが、一世を風靡したオーディオ用記録メディアである。CDよりも圧倒的にコンパクトな四角いディスクを入れ‘’カシャ‘’って音がするのが特徴である。」
というものだ。
時代は流れ、社会は変容する。
これだけ‘’ナウい‘’ものでありながらも
もはや現世には出回っていやしない。
モタモタしてるうちに、
流行なんてものは、誰からも見向きもされないノスタルジーたっぷりな過去の遺産と化してしまうのだ。
一瞬の輝きを放ったMD
現アラフォーのボクが、高校生の頃。
音楽はCDからMDに焼き付けて聞くのが主流となった。当時は「ディスクマン」をいうCD再生用のポータルプレイヤーもあったが、
当時のCDは編集ができなかったため
複数の曲を1メディアに入れるためには‘’カセットテープ‘’に録音するしか方法はなかった。
しかし、このカセットテープがいまいちなのだ。
曲の頭出しする際に時間がかかるだけでなく、CDと比較すると圧倒的に音質が悪い。
その点MDは比較的高音質で、
瞬時に頭出しができ、録音もでき、
まさにCDとカセットのいいとこどりをした当時の‘’最強メディア‘’と言っても過言ではなかった。
MDが登場してから数年後には、
低価格のMDデッキが登場し、
ディスクに名前が記録できたり、
曲順を変更したり、
トラックを消去したり、
テープメディアにはない利点によって、特に流行に敏感で多感な時期の学生の間では、
瞬く間に広まった。少なくともボクの仲間内では、めちゃくちゃに流行った。やたらとカラフルで透明な色とりどりのディスクを買い、CDからMDにデジタルで録音して、好きな74分の組み合わせを大量に作り出したのだ。
とにかく、その圧倒的に新しい感じに、我々高校生は狂喜乱舞した。意味も分からずに誰かが「おまえがMDに編集したセブンス、マジヤベえ。」と言えば、また誰かが「あのセブンスは半端ねえ。逆に組み合わせの不協が効いてるよね」と言った。
誰一人として、
「セブンス」の意味も「不協」の効果も分かっていなかった。
しかしこんな輝きも一瞬であった。
情熱的な時間が嘘だったかのように、MDはボクらの前から姿を消した。
パソコンが登場し、CD-Rが開発されると、
家で簡単にCDに高音質のデジタル録音ができるようになった。
MDにとどめを刺したのは、
スティーブ・ジョブズ。iPodの登場。
iPodなら、あらかじめデジタル化した音楽をiTunes上でプレイリストとしてマウスで並べ、データとして同期すれば良い。
74分のMDを用いるのに、
録音時間だけでも74分必要だったMDに比べると、圧倒的に編集時間が短くなるため、
これは画期的だった。
iTunesの登場によって、
音楽を聴く概念が全く変わったのだ。
「MD、CDで音楽を聴く」から
「PCで音楽を聴く」へ完全に切り替わった時代の境目であった。
‘’長崎‘’の妻の実家に帰省した
実に3年ぶり14度目。
甲子園なら、立派な常連校と言えるが、里帰りだと超お久しぶりね、と言われる。
この3年。まだかまだか、待ち遠しいと言われ続け、やっとこさ帰った。
1歳そこらで小ぶりだった愛犬は、
ハアハアに留まらずペロペロしながら腰をふる全身全霊の喜びダンスでお出迎え。
彼女の体長は、貫禄のあるボディに変化を遂げ、両手で持ち上げるとズシリとその重みを感じるようになっていた。
ボクは生暖かい哺乳類のぬくもりに触れ、カラダの芯から、安心感と愛情が爆発するのを感じた。
じいじ、ばあばもまた
子どもを迎え撃つ本気度が凄まじかった。
回らないお寿司屋さん、
庭でのバーベキュー、
佐世保バーガー、
本場仕込みの長崎ちゃんぽん、
大村湾の牡蠣小屋 etc
県内で‘’旨い‘’と評判の有名どころをくまなく連れ回ってくれ、3日間、至れり尽くせりの超絶なおもてなしをうけた。
一体ナニが、起こったんだ。
きっと、コロナが会いたい人と自由に会えない日常をつくりだし、会える時間をより非日常感の溢れた貴重な時間へと変えてくれたのだ。
でも一番変わったこと。それは、、、
博多から長崎までの移動。
いやいや。もうね、
ハードルが劇的にあがった。
今までは博多から長崎まで、
‘’特急かもめ‘’一本で約2時間。
ゆらゆら揺られてボケ〜っとしながらウトウトぐぅぐぅスヤスヤ。子どもも大人も、一眠りして起きた頃にはちょうど着いていて、
これがわりと電車旅行の醍醐味でもあり、
ゆっくりできて居心地の良い時間でもあった。
しかし、2022年9月。
西九州新幹線の開通。
と言っても開通したのが
「武雄温泉〜長崎」区間の部分開通なので、「博多〜武雄温泉」区間は引き続き‘’特急‘’で向かうことになる。
つまるところ
博多から特急に乗車し、武雄温泉に到着すると、ホームの向かい側に停車している新幹線に強制的に乗り換えし、そこから長崎までの69kmの区間だけを新幹線で進むのだ。その乗車時間わずか26分。
それで博多ー長崎間をトータル30分も短縮できるのだから、新幹線すごい、ともいえる。
が、
そうなの?
いやいや。
面倒くせぇよ、って。
多くの人はそう思うんじゃないだろうか。
少なくともナマケモノのアラフォーダメ男のボクはそう思った。
今の部分開通だったら、
30分長くかかっても乗り換えなしの方が圧倒的にラクに思えるのだ。
経済効果や利便性が見込めないという理由から、断固、新幹線建設に反対する佐賀県。
ということは、もうこの武雄温泉乗り換えがこれからのデフォなわけね(超涙
タイムイズマネー。時は金なり。
そう。ベンジャミン・フランクリンに怒られてしまいそうだが、
30分現地に早く着いて、
時間を充実させることのできない
成り行きと惰性の塊で生きてきたオジサンからすると、総工費6000億超の税金がかかってると聞くと開いた口が塞がらない。ガッチガチに固まっている。
ビジネスマンの利用が見込めるのか?
これはあくまで、
平凡リーマンのボクの仕事観ではあるが、
すでにコロナ禍で、これだけオンライン化、リモートワークが進んでいくなかで、
30分とか1時間、目的地に早く着くことができる交通手段に、
以前ほどに価値が見いだせなくなってきた…すでにそんな時代の兆候がある気がする。
最短で2037年。15年後か。
MDのように一瞬の輝きで終わったり、
できたときにはもう次の時代がきて、合わなくなってしまったとあるかもしれないが、
そんな大層な不確定な未来のことを
ボクなんかが考察してもな。
30分早く着いてナニしようか。
ボクにとってはそれが喫緊の問題である。
そうか。今思うとな。
コードのぐちゃぐちゃな絡まりを解きほぐすのって、知恵の輪みたいで良い時間つぶしだったよな。