コンテンツとは「孤独なつながり」に他ならない。
コンテンツとは情報量だと誤解していた。時間あたりの情報量をどう増やしていくかだと今まで思っていたけど、それは技法であり目的ではなかった。コンテンツの目的は孤独によって、つながりを表現することだ。つながりとは何か。
2日前からLINEで配信している復興庁のマンガ「ふくしまを食べよう」は、福島の風評被害を無くそうと頑張っている高校生を取材して作ったマンガで、NHKでも紹介してもらえた。
マンガはスーパーからはじまる。
※アプリ「LINE」のメニュー>ウォレット>LINEポイント>マンガから読めます。
制作には実にさまざまな人が関わっていて、制作のメインは遠藤なつみさんであり私がしたのは原案と監修だけだけど、高校生を取材していて「早く大人になって、福島への誤解をときたいと思ってた」という言葉には胸を打たれるものがあった。
「大人になりたい」と願いながら病気で亡くなっていく子供を取材したときの事のことを思い出した。
この記事で引用しているが、12歳で亡くなった宮崎涼くんの詩は美しい。
宮崎涼くんの詩
「ぼくは幸せ」
お家にいられれば幸せ
ごはんが食べられれば幸せ
空がきれいだと幸せ
みんなが幸せと思わないことも
幸せに思えるから
ぼくのまわりには
幸せがいっぱいあるんだよ
死を前にすると、何かのつながりにしか意味がないことが分かるという。
彼らがなりたいと願った大人に、自分はなれているだろうか?週刊SPAのくだらない記事をゲラゲラと喜んで読んでいる場合だろうかとたまに思う。
しかし冒頭の復興庁のマンガ「ふくしまを食べよう」や、前に原作を担当した外務省のマンガ「ODAガール&主夫ボーイ」でいろんな人が喜んでいる姿をみると、やっぱりコンテンツを作っていて良かったなと思う。何かつながってる感覚がする。
どちらのマンガも、わかってもらってない苦しみを描いている。
この状況は実際によくあり、マンガを読んだ青年海外協力隊の方も経験したと書いてくれていた。
どちらのマンガもハッピーエンドで、わかりあえる所でおわる。断絶していた人たちがなんらかのつながりを見出す、というのは物語の王道だけど、制作に疲れてくるとこの王道を忘れてしまい、シュールで残酷な方向に走ってしまう。
やはりコンテンツの目的はつながりを表現することだ。そして白を表現するために黒が必要なのと同じで、つながりの表現にはそれと対極の孤独がセットとなる。王道だけに忘れがちな初心を思い出したので書いた。
※つながりについては「星の王子さま」の著者、サン=テグジュペリが面白いのだけど余談なので興味ある方のみで。
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