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雑巾ひとつで。
トイレの隅に、絞ったままの雑巾がおいてある。母はこんな置き方をしない。姉もしない。父と住んでいる姪も。そう、ウチの女性ではないひとがこのマンションに来ているのだ。姪が大学へいっている隙に。
翌日、社長室にいる父と二人になったときに言った。
「お父さん、どこの女の人と付き合っても構わへんけど、お母さんが来るマンションはいかん。女の気配はすぐにわかるんや」
「まいったな。何でわかったんや」
父はうつむいたまま言った。
1週間後、父に喫茶店に呼び出された。印鑑を持って来いという。昭和の雰囲気満載の喫茶店だ。レモンスカッシュを注文した。分厚い縦長のグラスに角氷とさくらんぼが入っている。子供の頃、さして美味しくもないこの缶詰のさくらんぼを、何であんなに姉と取り合いしたんだろうと思いながら、父が話し始めるのを待った。
「お前のいうとおり、お母さんの来るマンションに女の人を入れんために、別のマンションを借りることにした。お前が言い出したんやから、保証人になってくれ」
呆れて言葉も出ないが、それでも母を傷つけずに済むならと、印鑑を押した。父親の女遊びの応援をするなんて、私はとんでもない娘だ。姉だったら、父が浮気をしていることを知ったら卒倒するだろうが、私は平気だった。むしろどこかで、父と私だけの秘密を持ったことがちょっと嬉しかった。
「あのさ、腹上死とかして放っておかれると困るから、何かあったときは知らせてもらうように私の携帯の番号、相手の人に教えてといてね」
「そうか、すまんの。今度紹介するわ。お前よりうんと若い子や」
「紹介なんか、いらんわ。恋人何人いるの」
「5人や」
70代にもなって何やってるの。あいた口が塞がらない。
半年くらいたったある日、取引先の会社の会長さんから私の携帯に電話があった。秘密のマンションで囲碁をしていて、父が倒れたらしい。
駆けつけたとき、さっきまでは女性もいて、先に返したのだなとわかった。父は頭に手をやり、床に横になっている。119番に通報した。自分でも驚くほど冷静だった。母が到着するまでは、私がしっかりしなければという思いだった。病名は脳溢血。すぐに処置を施してもらったが、右半身不随になり、退院後は実家に戻って母に介護をしてもらうことになった。
退院して二ヶ月後、記憶を取り戻した父が、母に「実は内緒で借りていたマンションがある」と話した。母は家賃など誰かに迷惑をかけていたら大変だと青ざめ、「保証人は誰なの」と問いただしたのだと言って電話をかけてきた。
「お父さんは何て言ったの」
「『身内の人』って」
家族同士の会話に「身内の人」という表現はありえない。が、父には私の名前を出すのが忍びなかったのだろう。母は、父が勝手に私の名前と印鑑を使ったのだと解釈してくれていた。
記憶や思考がぼやけている中で、何とか私を庇おうとしてくれたことが嬉しかった。父と母のためについてきた嘘なので、これ以上嘘をつき続ける必要もない。母には正直に、マンションは私が承知の上で借りていたこと、すでに解約して片付けてあることを話した。父娘でだましていたのかと責められるだろうと思ったが、意外なことばが返ってきた。
「そうやったんか。あんた一人に大変な思いをさせてごめんね」
父は横暴でワンマンなところがあった。が、激しく言い合うことがあっても、私が一度も父を嫌いだと思ったことがないのは、一緒に仕事をしたり遊んだりしたからだけでなく、秘密の共有があったからかもしれない。
16年前に倒れた父はまだ生きているが、脳の障害もあって、ただのおとなしいおじいさんになってしまった。
二人で内緒話をし、茶目っ気たっぷりのウインクをする父にはもう会えない。
そのことは、母や姉と一緒に残念がることもできない。