障害者から見たトランスジェンダリズムの不合理性鈴木紗々夜鈴木紗々夜2024年7月11日 14:18PDF魚拓


2024年7月10日、下記の判決が出ました。
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20240710/k10014507081000.html
この判決自体は、当然、訴訟を起こされた方の個別の事情を考慮してのものです。
この方は性同一性障害ですし、全てのトランス自認の人に無条件で適用されるものではないのですが、今後「この道」が開けてしまう懸念があるのも事実です。

私には発達凸凹(神経発達症=いわゆる発達障害)があるのですが、その立場から見て、以前からトランスジェンダリズムは不合理だ、と感じていたんですよ。

トランスジェンダリズムって、個人の障害や特性を否定する思想なんじゃなかろうか…? と。
そのあたりのモヤモヤを書き出していこうと思います。
◆ 心身二元論?

トランスジェンダリズムって、「心と身体は別々に存在する」という「心身二元論」でできているんですよね。
永遠不変の自我と、滅びる肉体、という、ある意味キリスト教的な価値観を基準にして出来ています。
なので、身体ではなく「心」こそが実体の本質だ、という考え方なんですよね。
心で判断する性別は正しいけれど、身体で判断する性別は間違っている、と。

ところで。
身体と心って、切り離せるのでしょうか。
私は、コレ、生物である限り無理!と思うのですが…。
トランスジェンダリズムの根幹にある「正しい心」と「間違った身体」って、いったい何なのか。
それが成り立つなら、「間違った心」と「正しい身体」も成り立つのか…?

…コレ、ねぇ…
ある意味「障害の存在否定」になってしまうんですよ…。

障害って、当然、身体に起こる不具合から来るものなんですよね。
精神疾患を「心の病」などと言いますが、本来は脳という身体の一部である臓器が不具合を起こすことで、認識が偏ったり歪んだりする病気のことを、精神疾患・精神障害などと言います。
過重なストレスがかかった時、認識の幅が狭まる(考えが視野狭窄的になる)のも、「これ以上のタスク処理はできない」と判断した「脳=身体」が起こす、ごく自然な自己防衛反応ですよね。
これが続いたり酷くなったりすれば、抑うつ状態になります。
タスクをこなす能力には当然個人差がありますが、その個人差って「個体差」、つまりその人の身体に備わった体質の一部で、心の持ちようとか根性とかの問題じゃないんですよ。
精神的な病って、結局は身体の状態や反応から来る病であって、心に問題があるからかかる病気じゃないんですよねぇ。

しかし、心身二元論を基準に考えると、心と身体は切り離すことができるとされてしまいます。

これまで、精神的な疾患を「身体とは関係ない・心の問題」と考えることで、病者・障害者がどれほど追い込まれてきたことか…。
曰く
ウツは甘えだ!精神を鍛えれば治る!!
…………
治らんがなっ!!!( ノ ゚∇°*)ノ"

心頭滅却すれば火もまた涼し、かも知れませんが、火を涼しいと思い込んで触り続けたら、重度の火傷で死亡しますよ。
身体が死亡しても「心だけ」で生き続けられるのでしょうか…?
宗教などの世界観ではあり得るかもしれませんが、現代の医療としては、心身二元論は否定されているんですよ。
心って、要するに「身体の中で起こる現象」なんですよね。
心と身体は切り離せないんですよ。

本人にとって、どれほど不都合な身体であったとしても、それがその人特有の「限界」。
その限界を知ることを、【障害の受容】と言ったりしますが、健常者にも当然限界があり、それを知ることが生きることの豊かさを享受する前提条件だと、私は考えます。
https://note.com/sasayo_suzuki/n/nbd6ca35bae69
↑参考:以前にあげたブログです。

トランスジェンダリズムが基礎とする【心身二元論】に、私は【生物としての人間の否定】と、どのような希望でも人間の開発する力で叶えられると思い込んでしまう【脳の暴走】を感じてしまうんですよ。

脳の暴走って、人体の構造として陥りやすい「自滅への罠」だと私は思っているんですよね…。

◆ ジェンダーに対する違和感と性別違和は別のモノ

今回の裁判の原告は性同一性障害の方ですが、いわゆる「トランスジェンダー」と名乗る人たちの大多数は、性同一性障害ではない人、なんですよねぇ。
性同一性障害については私にはよく解らないので何も言えませんが、「ジェンダーに対する違和感」というのは、感覚として解る気がします。

ジェンダーってざっくり言うと、性別そのものではなく、「社会的な役割としての男らしさ・女らしさ」の事ですよね。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%83%B3%E3%83%80%E3%83%BC
この、「社会的な役割」というところが重要なんだと思うんですよ。

私は発達凸凹があり、周囲にうまくなじめないまま生きてきたのですが、トランスジェンダーを自称する人の中に、神経発達症の傾向のある人が多いことが、とても気になるんですよ。
私の場合は、「男の子文化・女の子文化」以前に「人間のコミュニティ」にうまくなじめなかったので、単純に「ヘンなヒト」なのですが、
人間のコミュニティに違和感はないけれど、男の子文化(女の子文化)にうまくなじめない男の子(女の子)の場合、「自分は性別を間違えているんじゃなかろうか?」と感じてしまうこともあるんじゃないか、と思うんですよね。
この場合の問題の本質は、性別の違和ではなくて、マジョリティの文化になじめない「外れ値」の特性をもつ個体であること、なんですよね。

これ、別に特性が外れ値だって良いんですよ。
それがニューロダイバーシティというものなのですから。
無理に「どちらかの文化」に合わせる必要はないはずです。
けれどそれでは疎外感は埋められない。
だから、頑張ってどちらかの文化へ帰属しよう、と考えたとしてもおかしくはないと思います。

以前から思っていたのですが、トランスジェンダーを名乗るMtoFの人たちの言動からは、性別としての女性になりたいわけではなくて、「女性的といわれる文化的立ち位置」に対するあこがれのようなものを感じるんですよね。
たとえば、「かわいい女の子になってキラキラ・チヤホヤ・キャッキャウフフをやってみたい」という感覚。
…これ、別に「女性」にならなくてもできるんですよ。
男性のまま「キラキラ・かわいく」すればいいと思うのですが、たぶんそれをやると、男性文化からはじき出されてしまうんですよね。
だから「女性にならなければいけない!」という思い込みになってしまうのかも知れませんが、それって、「性別としての女性」ではなく「社会的立ち位置・ジェンダーとしての女性」になることを望んでいるんですよね。
更に言えば、性別としての女性にとって「キャッキャウフフ」は全く持って必然ではない、ですし、ねぇ。

どこまでも「身体的な性別」ではなく、「社会的な帰属・承認」の問題なんだと感じるのですが、どうなのでしょう。
無理に「女性」になるのではなく、「MtoFというジェンダーの人」として社会に承認されて生きることができれば、問題は無くなるのではないのでしょうか?

以前、別ブログでトランス女性に対する疑問を書いた時、MtoF当事者と思われる方から
「トランス女性は日々パス度を上げるため大変な努力をしているのに、それを認めようとしないのは差別だ」
という意味のコメントをいただきました。
この方にとってはやはり、努力を認めて欲しい、という、【承認】の問題が大きいんですよね…。

もし、根本的な問題が性別違和ではない人まで「性別自体をトランスしなければ!」と思い込んでいるのだとしたら…
それは不幸なことではないのでしょうか…?

◆ LGBとTQ+は分けて考えないとダメ

LGBTQ+、というように、一括りで言われてしまっていますが、本来は別の問題なんですよね。
LGBは、どういう人をパートナーにするか、の問題。
家族として生活をするための社会的権利の問題です。
けれど、TQ+には性的な表現や性癖なども含めたあまりにもいろいろな問題がひっくるめられている。
生活上の社会的権利を獲得したい(LGB)、と、性別・性行動の自由を保障して欲しい(TQ+)、と言い換えると、ますます「別のもの」になると思います。
なのだけれど、この辺りを整理しようとすると、虹色旗の人たちは、
「定義すること自体が差別だ!」「ノーディベート!」
と話にならないんですよ…。
結局、論理的な話になってくるとトランス擁護がしきれなくなる、ということなのかと思います。

とにかく、一括りにすることで本当に困っている人に不利をもたらすようなことになるのは、絶対に避けてもらいたいです。

◆ 『特性』は変えられない

マジョリティである健常者は言い難いと思いますが、ままならない身体を持つ障害者ならば、ある程度言っても理解してもらえるのではないかと思い、書きますが…
『最初から身体に備わった特性=性別は、変えられない』です。

どんなに不都合であっても、障害者は健常者にはなれません。
ある程度の治療はできても、【全くの健常者と同等】にはなれないんですよ。
どれほど医療技術が進もうと、外れ値は最頻値に改造できない、と思います。
「生き物」としての人間の限界は、当然あります。
自然の全てをコントロールする能力など、未来永劫人間には備わらない、と思います。
同様に、性別も、他の性別の人に近い外見にすることはできても、最初から身体に備わった性別を、別の性別にすることは、できません。
それが気に入ろうが気に入るまいが関係なく、それこそがその人個人に備わった【限界】であり、【アイデンティティ】であり、【尊厳】なのだ、と私は思います。

無理に他者に合わせたり、リードされる(身バレする)ことに怯えながら女性の振りや健常者の振りをするのではなく、気に入らない特性を持ち合わせたままの自分自身で生きることこそが、多様性のある生き物=人間としての尊厳ある生き方だ、と私は思っています。

それが元々のダイバーシティの理念、ですよねぇ。

◆ 思想と現実は「別モノ」

「自己決定権」と言うと、自由意志で何でも選択できる素晴らしい権利、と思われがちですが、実際には、何でも選択できる訳ではないんですよ。
当然ながら選択肢は、自身が認識できるものの範囲に限られてしまいます。
その人が置かれた環境と認知能力よって、選択肢の範囲は決まってしまうんですよ。
なので、洗脳や霊感商法のようなことも、割と簡単にできてしまうんですよね。
他の選択肢の無い環境に、その人を囲い込んでしまえばいいのですから。

つまり、自由意志や自己決定を両手放しで信頼するのは、結構危ないことなんですよ。
特に「何々が絶対欲しい!」というような欲望に駆られている時は、冷静な判断ができなくなっていたりします。
現実に欲望のバイアスがかかって、視野狭窄を起こしたり、実際とは違うモノが見えたりしてしまうんですよねぇ…。

それに、自由意志で欲望を達成する・自己実現するにしても、他者の尊厳を毀損するやり方はダメなんですよ。
欲望が満たされないのは、差別ではないんですよ。
被差別の状態って、安全が確保されない・生命の維持が困難になるような、欲望を持つどころではない状況のことなんですよねぇ。
欲望が満たされないから自殺する、というレベルではなく、生活が成立しないから生きられない、というレベルなんですよ。

でね。
「思想」って、その人の理想や欲望を実現するための指針なのだけれど、当然そこにはバイアスがかかっているのよ。
どんなに素晴らしいモノであっても、そうなんですよ。
「現実」そのものではない。

つまり、その思想に共鳴できない人から見ると、とんでもない空想だったりするんですよ。
けれど、共鳴できる人にとっては、これ以上ない素晴らしいモノに見える。
…なので、コレ、政治的意向で煽るのにモッテコイな道具になるんですナ…
ちょっとアブない一面もある。

その危なさを解った上で楽しむならば、それでいいと思うんですよ。
だけれども、実際にこの問題に巻き込まれている人のほとんどは、そうではない、と感じます。

全ての差別に反対する、という言葉は、誰にとっても良い事のように見えますが、
「では、その差別とは?」
という問いに対して、これを唱える人々は
「問う事自体が差別だ」
という答えしか返しません。
コレ、おかしいですよね。

つまり、この思想って、整合性が取れなくても構わない宗教のようなモノ、なんですよ。

宗教は、自分に合ったものを信じて構わない、それこそ内心の自由です。
だからこそ、それは科学でも医療でも法律でもない、他者を従わせることはできないモノなんですよね。
「嫌だ」と言っている人を、「嫌がるのは差別だ!」と糾弾する権利などないんですよ。
強引な布教ももってのほか。

そして、思想に心酔している人たちを煽って利用するのは、とても卑怯なやり方だ、と思います。

歴史的に見ても、被差別の問題がこじれるのは、政治的に利用されてしまう・させてしまうからだ、と思うのですが、どうなのでしょうか…。

◆ 本人が本人として生きられるように

私が願うことは、健常だろうが障害だろうがトランスだろうが、本人が本人として生きられる世界であって欲しい、ということです。

女に(男に)化けて身バレに怯えて生きるトランス、とか、健常者に化けて過緊張のあまり潰れる障害者、とか、そういう「マジョリティに無理して化けるマイノリティ」の辛さは、もうウンザリなんですよ。

そして、マイノリティが生きる上でどうしても必要になる【合理的配慮】。
これは、マジョリティの側に無理がかからない範囲でなければ成立しないんですよ。
社会はどうしても、最頻値に合わせて出来ています。
もしこれを、外れ値に合わせてしまったら、大多数の人が運用できなくなってしまう。
マジョリティが生きられないような世界になったら、マイノリティなどそれこそ消されてしまいます。

で、マジョリティの側にも、自身の限界を知った上で生きて欲しい、と思うんですよ。
マジョリティが生き辛くギスギスしていると、マイノリティはもれなくいじめられるんですナ。
マジョリティが不幸だと、マイノリティは不幸100倍なんですよ。

どうか、この点を忘れないでください。

書かせていただきありがとうございます。

障害者から見たトランスジェンダリズムの不合理性





鈴木紗々夜

2024年7月11日 14:18


性同一性障害と診断され、手術を受けずに戸籍上の性別を男性から女性に変更するよう申し立てた当事者に対し、広島高等裁判所は変更を認める決定を出しました。これまで戸籍上の性別を変更するには外観を似せるための手術が必要だとされていましたが、裁判所は「手術が常に必要ならば憲法違反の疑いがある」と指摘しました。

目次注目
当事者「生きにくさから解放 うれしい」
手術要件の撤廃に反対派「強く抗議」


広島高裁「手術が常に必要ならば 憲法違反の疑い」

広島高等裁判所で性別の変更が認められたのは、性同一性障害と診断され、戸籍上は男性で、女性として社会生活を送る当事者です。

性同一性障害特例法では事実上、生殖機能をなくし、変更後の性別に似た性器の外観を備えるための手術をすることが要件の一つとされていました。

このうち生殖機能の手術については、この当事者の申し立てを受けて最高裁判所が去年10月、体を傷つけられない権利を保障する憲法に違反して無効だという判断を示しました。

一方、外観の手術については最高裁が審理をやり直すよう命じ、広島高等裁判所で審理が続いていました。

10日の決定で、広島高等裁判所の倉地真寿美裁判長は外観の要件について「公衆浴場での混乱の回避などが目的だ」などとして正当性を認めましたが、「手術が常に必要ならば、当事者に対して手術を受けるか、性別変更を断念するかの二者択一を迫る過剰な制約を課すことになり、憲法違反の疑いがあると言わざるをえない」と指摘しました。

そして「他者の目に触れたときに特段の疑問を感じない状態で足りると解釈するのが相当だ」と指摘し、手術なしでも外観の要件は満たされるという考え方を示しました。

その上で、当事者がホルモン治療で女性的な体になっていることなどから性別変更を認めました。

家事審判では争う相手がいないため、高裁の決定がこのまま確定しました。

弁護士や専門家によりますと、外観の手術は主に男性から女性への変更の要件とされ、手術無しで認められるのは極めて異例です。注目


当事者「生きにくさから解放 うれしい」

性別変更が認められた当事者は、弁護士を通じコメントを出しました。

当事者は「物心ついたときからの願いがやっとかないました。社会的に生きている性別と戸籍の性別のギャップによる生きにくさから解放されることを大変うれしく思います。これまで支えて下さったたくさんの方々に感謝したいと思います」としています。

代理人を務める南和行弁護士は、決定を伝えたときの当事者の様子について「ことばを詰まらせて電話の向こうで泣いている感じでした」と話し、「申し立てから5年近くかかったので、ようやく本人が安心して生活できるようになったことが何よりもうれしいです」と話していました。



代理人を務める南和行弁護士
「性別変更に必要な外観の要件について判断の枠組みを明確に示したので、各地の家庭裁判所での審判に影響がある。個別の事情から手術を受けられず、諦めていた人が申し立てをしやすくなると思う。

最高裁判所大法廷の決定以降、与野党ともに議論が始まったと聞いている。困っている人の生きづらさや不利益をできるだけ少なくするという視点で立法の議論をしてほしい」

手術要件の撤廃に反対派「強く抗議」

性別変更における手術要件の撤廃に反対している「女性スペースを守る会」は「女性ホルモンの影響で萎縮などしていても『男性器ある法的女性』であり、強く抗議する。ただ外観要件は維持されたので、何ら医療的な措置をしない男性が法的女性になる道はない。その点はよかった。何より重要なのは、特例法とは別に男性器がある限りは女性スペースの利用はできないとする法律を作ることだ」とコメントしています。

また、性同一性障害の当事者でつくる「性同一性障害特例法を守る会」は「私たちは心から手術を求め、それゆえに法的な性別の変更は世論から信頼されてきた。この判決の基準のあいまいさが社会的混乱を引き起こし、今後の特例法の改正論議に悪影響を及ぼしそうだ。すでに戸籍上の性別変更をした当事者の声を聞くべきだ」とコメントしました。注目


決定のポイントは

広島高等裁判所が出した決定のポイントです。

【外観要件は「比較的幅がある」】
今回の審理では、性同一性障害特例法で定められている、性別変更の5つの要件のうち「変更後の性別の性器に似た外観を備えていること」といういわゆる「外観要件」が議論になりました。

この要件について高裁は「自分の意思に反して異性の性器を見せられて羞恥心や恐怖心、嫌悪感を抱かされることのない利益を保護しようとしたものと考えられる」と指摘し、目的には正当性があるとしました。

一方、「要件は比較的幅のある文言を用いている。体の外性器にかかる部分に近い外見があるということで足りるとも解釈できる」との見解を示しました。
【手術を迫ることは「違憲の疑い」】
高裁は、特例法が制定された当時と現在の治療の変化に着目しました。

法律が制定された2003年当時、学会のガイドラインでは精神科での治療やホルモン治療などの身体的治療を行った上で、性別適合手術を行うという「段階的治療」が採用されていました。

しかし、2006年以降は医学的な検討を経た上で見直され、治療として手術が必要かどうかは人によって異なるとされました。こうした変化を踏まえ高裁は「手術を常に必要とするならば、当事者に体を傷つけられない権利を放棄して手術を受けるか、性自認に従った法的な扱いを受ける利益を放棄して性別変更を断念するかの二者択一を迫る過剰な制約を課している」と指摘し、「憲法違反の疑いがあると言わざるをえない」と判断しました。
【外観要件手術必要としない解釈】
その上で外観要件について「性別適合手術が行われた場合に限らず、他者の目に触れたときに特段の疑問を感じないような状態で足りると解釈するのが相当だ」とし、手術なしでも外観の要件は満たされるという考え方を示しました。

そして、今回の当事者はホルモン治療で女性的な体になっていることなどから、要件を満たしていると判断し、性別変更を認めました。

性別変更の要件をめぐる動き

2004年に施行された性同一性障害特例法では戸籍上の性別変更を認める要件として、専門的な知識を持つ2人以上の医師から性同一性障害の診断を受けていることに加え、18歳以上であること、現在、結婚していないこと、未成年の子どもがいないこと、生殖腺や生殖機能がないこと、変更後の性別の性器に似た外観を備えていることの5つを定めていて、すべてを満たしている必要があります。

このうち、生殖腺や生殖機能がないことと変更後の性別の性器に似た外観を備えていることの2つが事実上手術が必要とされていましたが、生殖機能の手術については最高裁判所大法廷が去年10月に違憲判断を示して以降、各地の家庭裁判所で手術を必要としない判断が示されています。

岡山県や岩手県、静岡県では女性から男性への性別変更が認められるケースが相次いで明らかになりました。

一方、外観に関する要件については最高裁が高等裁判所で審理をやり直すよう命じたため、憲法に違反するかどうかなどの統一的な判断は示されていません。

こうした状況について今回性別変更が認められた当事者側は「現状で外観の手術が問題になるのは男性から女性への変更の申し立てのみだ。生物学的な男女別で異なる取り扱いをするのは憲法が保障する法の下の平等に違反する」などと主張していました。

この要件については、さまざまな意見があります。

性的マイノリティーの当事者などで作る団体は「望んでいない人にまで手術を強いる形になっている今の法律は人権侵害だ」などと手術の要件の撤廃を求めています。

一方、要件の撤廃に反対する団体は「要件がなくなると手術を受けていなくても医療機関の診断で性別変更が可能になり、女性が不安を感じるほか、法的な秩序が混乱する」などと主張しています。

性別変更の要件については、法務省が最高裁大法廷の違憲判断を受けて法改正についての検討を続けているほか、公明党が手術の要件を見直す見解をまとめ、自民党にも呼びかけて秋の臨時国会を視野に法改正を目指すことにしています。注目


変更が認められるまでの経緯

当事者は5年前、2019年に手術無しでの性別変更を家庭裁判所に申し立てました。

社会生活上と戸籍上の性別が異なることで生きづらさを感じる一方、健康な体にメスを入れることの負担や、長期の入院などを強いられることなどから悩んだ末に性別適合手術は受けられないと判断したということです。

家庭裁判所と高等裁判所は変更を認めませんでしたが、最高裁大法廷は2023年10月、生殖能力をなくす手術の要件は憲法に違反して無効だと判断しました。

一方、変更後の性別に似た外観を備える手術の要件については審理を尽くしていないとして、高等裁判所で審理をやり直すよう命じました。

この判断について当事者は当時「予想外の結果で大変驚いています。今回はわたしの困りごとからなされたことで、大法廷でも性別変更がかなわず、先延ばしになってしまったことは非常に残念です」とコメントしていました。

高裁でのやり直しの審理で当事者側は、外観の手術についても体を傷つけられない権利を保障する憲法に違反しているなどと主張しました。

また、当事者の日常生活や長年のホルモン治療の結果などを総合的に見れば、性別を変更するための要件は満たしていると主張しました。


識者「画期的な判断 ほかの裁判所の判断にも影響」

性的マイノリティーの問題に詳しい早稲田大学の棚村政行名誉教授は今回の決定について「性別変更で必要とされた外観の要件を大幅に緩和し、手術をしなくても認めるという画期的な判断をした。体を傷つけることなく性自認に従って生きるという個人の尊厳や利益を真正面に捉え、当事者の救済に努めた。拘束力は無いが、ほかの裁判所の判断にも影響が出るだろう」と評価しました。

そのうえで「特例法で性別を変更するために設けられている要件がすべて合理的なのか、見直していく必要がある。個人の生き方を尊重しつつ、社会の不安を払拭するような環境整備の議論が必要だ。国会できちんと議論して法改正してほしい」と指摘しました。

林官房長官「引き続き適切に対応」

林官房長官は午前の記者会見で「国が当事者として関与しておらず、詳細を承知していないため、政府としてコメントは差し控える」と述べました。

その上で「関係省庁では去年10月の性同一性障害特例法に関する最高裁判所の違憲決定を踏まえて、実務的な課題や対応などについて検討している。立法府とも十分に連携し、引き続き適切に対応していきたい」と述べました。

男性から女性 戸籍上の性別変更 手術なしで認める決定 高裁

2024年7月10日 17時46分


(2022年3月に書いたものを手直しし、再掲します。)

「あの人は障害の受容ができていない」ということばを時々聞きますが、このことばの意味を

「人間のB級品(ジャンク品)として生きる覚悟ができていない」

という意味で使う人がいます。
…それ、とても差別的な発想だと思うんですよね。

「できない奴はできないままでいい。従順であることだけを教えておけばいい」

こう言い放ったかつての臨教審のお偉いさんは、よほど劣等感が強かったのだろう、と思ってしまいます。
差別感情って、劣等感の裏返しなんですよねぇ。
このことばに引っ掛かりを感じる私も、劣等感が強いです。
役立たず、穀潰し、愚図、生かしちゃおけねぇ、おまえなんざライオンのエサだ、等々、周囲と比較され、さんざん罵られてきましたので。
今でも、周囲と比較されたり競争させられたりする場には、とても恐怖を感じます。
その上に従順を強要されたりしたら、
「私は家畜ではない!」
という、強烈な怒りと憎しみが沸いてしまいます。

私に障害があることがわかったのは、大人になってからです。
障害が判明したことで、どうして子供の頃から周囲の子たちについて行けなかったのか、とても納得できたんですよね。
個性では収まらないレベルで、変わってるし、テンポが遅く何かと弱々しいし、集団も苦手なのですが、それでも自分の事を「ジャンク品」とは思っていません。

たぶん、臨教審の先生も、ご自身をジャンク品とは思っていなかったでしょう。

これって、何をもって人を「ジャンク品」と選別するのか? という価値基準の相違なんですよね。

上記の臨教審の先生は、
「企業の中枢や、上級公務員として国家運営に関わる者には高度な教育が必要だけれども、そうでない者は、ただただ従順な労働力であればいい。」
という価値観で、労働力として使いづらい(例えば、組合活動で企業に逆らう人、とか)を、極力作らないようにしたかったんですよね。

自身の感情を理解したり、相手と交渉したりするには、どうしても教養が必要になります。
教養なしに感情も含めた表現をすると、単純に暴力になってしまいますから。
教養って、それなりに質の良い教育と薫陶がなければ身に付かないんですよ。

この先生は、一般大衆に余計な教養をつけさせず、従順こそが美徳だと子供の頃から教え込めば、唯々諾々と命令に従うだけの労働力を増やすことができる、と考えたのだと思います。
しかし、一般大衆から教養を取り上げる・教養を培うことを否定する、ということは、民主主義の崩壊すら意味してしまうんですよねぇ。。。
2024年の都知事選の様相を見れば、実感として解ると思います。

この人にとっての「ジャンク品」とは、「効率の良い国家運営に適さない個体」ということだったのでしょう。
一般大衆を単なる労働力と捉えていて、「生きて、生活している人間」だとは全く思っていなかったのでしょうが、その考え方で教育を組み立てると、現代国家を成立させるのに適さない「ジャンク品」を「大量生産」してしまうことになるんですよねぇ。。。

人間って、労働力である以前に、自身の感覚・感情を持った生き物である「一人のヒト」、なんですよ。

労働って、自他双方が生きやすくなるための行為なので、「自分」が無かったら「労働」も無いんですよ。
一人のヒトとして全うな扱いを受けずに幸福なんてあり得ないし、不幸な労働力(≒奴隷)ばかりを大量生産して安定的な国家運営をするなんて、できる訳ないですよねぇ。

もしかしたら、優秀なリーダーさえいればその他大勢は人間以下でも大丈夫、それこそが効率性、なんて思っていたのかもしれませんが…。
国家運営うんぬん以前に、そもそもの人間観がオカシイ、と思います。

この基準で線引きをすると、障害のあるなし関係なく、ものすごく大量に「ジャンク品」が発生してしまいます。

私としては、生き物に上等も下等もない、と感じています。

「障害者」というのは何かと「健常者」よりも下等と見做されるのですが、上等とされる健常者の頑迷さに
「どうしてこんな簡単なことがわからないのだろう???」
と思うことがしばしばあります。

「どうしてこの人は、自身の感情や立ち位置を俯瞰できないのだろう???」と…。

コレって、たぶん、私の障害特性としての言語優位が働いていて、嫌味ったらしいのかな、とも思うのですが、いつも私を見下している優秀な人ならバカな私がわかることくらいわかって当然だろ? と思ってしまうのですよね。
だけれども、その簡単なことが理解できない健常者は、私なんかと違いバリバリ稼げるんですよ。
私には全くできないことを、テキパキこなすことができる。
つまりコレ、どっちが上か下か、なんてことは意味の無い比較なんですよ。

これ、あらゆる立場の人に当てはまると思います。

どんなに無能そうに見えたとしても、その人をバカにできる立場の人なんていないし、その逆もそう、なんですよね。
比較なんて、基準を動かしてしまえば、どこまでも相対的なモノなんですよねぇ。

そう考えると、障害の受容って、単純に
人間としての限界の理解
なんだと思うんですよ。

人間は神さまじゃないので、なんでもできる訳じゃないです。
これ、誰でもわかっているはずなのに、忘れてしまいやすいことなんですよね。
経済は永遠に成長する、とか、人類はどこまでも増殖する、とか、科学技術は自然を全てコントロールできる、とか…。
普通に考えたら無理であることがわかるのに、欲望を満たすという目的を見つけてしまうと、タガが外れちゃうのよね。
障害のあるなし関係なく、人間の脳みそが抱えた特徴なんだと思います。

障害者から見て、優秀な”はず”の健常者にも、当然限界があります。
限界があることは、異常ではなくて「普通のこと」なんですよね。
障害があると、大勢の人がなんてことなくやっていることが出来なかったりする。
極端に限界が狭い場所にあったりする。
確かに、みんなが簡単にできることができない、というのは、とても不便です。
なので不便ながらも工夫をして生活をするわけですが、その工夫をみっともないとか馬鹿馬鹿しいとか生意気だとか、否定したがる人って、結構多いんですよねぇ。

「できないクセにやろうなんて、思いあがるんじゃないよ」と。

これ、臨教審の先生のことばと同じです。

自分の限界を見たくないから、他人の限界を指摘して、他人に無能というレッテルを貼りたい。
自分に限界があるのは、他人が足を引っ張るからだ、と思い込みたい。


…悲し過ぎますよ…。

障害者に限ったことではなく、人間って、自身の限界が理解できていれば、可能性はいくらでも見出すことができるんじゃないか、と思うんですよね。
限界の内側での工夫の仕方は、数限りなくある、と感じます。

障害の受容=限界の受容って、逆説的に上手く使えば、無限の可能性を見つけられるんじゃないか、と思いますよ。

障害の受容って、「人間のB級品として生きる覚悟」なんて意味とは、違うのよ





鈴木紗々夜

2024年6月22日 16:27


ジェンダー: gender)は、生物学的な性: sex)とは異なる多義的な概念であり、性別に関する社会的規範性差を指す[1]:499。性差とは、個人を性別カテゴリーによって分類し、統計的に集団として見た結果、集団間に認知された差異をいう[1]:500[2]:409。ジェンダーの定義と用法は年代によって変化する[1][2]。ジェンダーという概念は、性別に関して抑圧的な社会的事実を明らかにするとともに、ジェンダーを巡る社会的相互作用をその概念自身を用いて分析するものである[1][2]

生物学的性別に関しては性別を参照

語源と用法



この節は検証可能参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方
出典検索?: "ジェンダー"ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2022年7月)

生物のを示すジェンダー・シンボル(性別記号)。それぞれ火星金星を表す惑星記号に由来する。

語源はラテン語: "genus"(産む、種族、起源)である。共通の語源を持つ言葉として"gene"(遺伝子)、"genital"(生殖の)、フランス語: genre(ジャンル)などがある。「生まれついての種類」という意味から転じて、性別のことを指すようになった。

この生物学的性のイメージを基にして、20世紀初頭には[要出典]、"gender"[要出典]はフランス語などにおける有性名詞の性による分類ないし分類クラスをさす文法的な用語として用いられるようになっていた。

英米語におけるgenderには、以下のような用法がある。言語学における文法上ののこと。
生物一般における生物学のこと(「性 (生物学)」)。雌雄の別。
医学心理学性科学の分野における「性の自己意識・自己認知」のこと。性同一性
社会科学の分野において、生物学的性に対する、「社会的・文化的に形成された性」のこと。男性性・女性性、男らしさ女らしさ
社会学者のイヴァン・イリイチの用語で、男性女性が相互に補完的分業をする本来的な人間関係のあり方。イリイチはその喪失を批判している。
電子工学電気工学の分野におけるコネクターの嵌め合い形状(オスとメス)の区別のこと。プラグとジャック、雄ネジと雌ネジなど。


1950年代から1960年代にかけ、アメリカの心理学者・性科学者ジョン・マネー John Money、精神科医ロバート・ストラー Robert Stoller らは、身体的な性別が非典型な状態の性分化疾患の研究において、その当事者に生物学的性別とは別個にある男性または女性としての自己意識、性別の同一性があり、臨床上の必要から「性の自己意識・自己認知(性同一性)」との定義で “gender” を用いた[2]:408[3][4]。1960年代後半から “gender identity” とも用いられた(以降も医学・性科学では “gender (identity)” は「性の自己意識・自己認知(性同一性)」の定義で用いられており、後の社会学において定義される意味とは異なる)。

1970年代[2]:408より、一部の社会科学の分野において"gender"は生物学的性よりもむしろ社会的性の意味で用いられるようになった。しかし1970年代の時点では、"gender"と"sex"をどのような意味で用いるかについての合意は存在しなかった。たとえば1974年版の"Masculine/Feminine or Human"というフェミニストの本においては、「生得的なgender」と「学習されたsex role(性的役割)」という現代とは逆の定義がみられている。しかし同著の1978年の版ではこの定義が逆転している。1980年までに、大半のフェミニストは"gender"は「社会・文化的に形成された性」を、"sex"は「生物学的な性」として使用するようになった[5]。このように、社会科学の分野においてジェンダーという用語が社会・文化的性別のこととして用いられ始めたのは比較的最近のことであることが分かる。

現在、英語圏では、"gender"は生物学的な性も社会的な性も指す単語として用いられる。前者の場合、単に「sex」の婉曲あるいは公的な表現として使用されていることになる。例えば、女子のスポーツ競技において、生まれつきの性別を確認するために染色体検査が行われることがあるが、これを指す用語として英語ではジェンダーベリフィケーション(英語: gender verification)という用語を用いる。

複数の英英/英和辞書において"gender"は、第一に「言語学的性(文法上の性)」として、第2に、古くから使われてきた「生物学的性別(sex)」として記述されている(出典:ジーニアス英和辞典、ウェブスターの辞書)。それらに続き、社会科学の分野において用いられる「社会的・文化的役割としての性」という意味の語として記述がなされることがある(出典:英語版ウィキペディア)。「言語学的性」とは、例えば男性を代名詞で「"he"、女性を"she"と分けて表記するようなことである。「生物学的性(sex)」とは、ロングマン現代英英辞典によれば、「the fact of being male or female(男性または女性であることの事実)」と説明され、「male(男性)」は「子供を産まない性」、「female(女性)」は「子供を産む性」と定義される。またヒト以外の動物の雌雄を記述する場合にも用いられる。「社会的文化的役割としての性」とは、その性(sex)から想起される「男らしさ」「女らしさ」といった様々な特徴のことである。

ジョーン・W・スコットの著書『ジェンダーと歴史学』によれば、近年、欧米の社会学において、"gender"という用語はほとんど(7割程度)の場合、「女性」と同義で使用されている(例:"gender and development" 女性とその経済力向上)。

日本において、ジェンダーという言葉が社会的に認知されたのは1990年代である[6]:81。『男女行動計画2000年プラン』では、ジェンダーは不平等を指摘し、それを是正する文脈で用いられるようになった[6]:83。ジェンダーは「ジェンダー・フリー」という表現に用いられることによって、性別二分法システム、性別カテゴリー自体の打破を視野に入れている[6]:84。ジェンダーの用法の広がりとともに、ジェンダー概念についての確認と捉え直しが必要になってきている[6]:84。

この項目では、社会的・心理的性別について説明しています。その他の用法については「性 (曖昧さ回避)」をご覧ください。
ジェンダー出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』