オウム真理教の国家転覆計画.白い愛の戦士.自動小銃密造事件.オカムラ鉄工乗っ取り事件.地下鉄サリン事件.坂本弁護士一家殺害事件.滝本太郎弁護士サリン襲撃事件.松本サリン事件Wikipedia等のオウム真理教のテロ事件に関する資料PDF魚拓


https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/070/000070_hanrei.pdf

https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/817/005817_hanrei.pdf

https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/572/005572_hanrei.pdf





https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/572/005572_hanrei.pdf





(二) オウム真理教の宣伝に「文化人」「有名人」らが果たした役割






オウム真理教は、マスコミを使って疑惑否定の宣伝を行い、教団の宣伝を行うことにことさら熱心であったが、その方法として「宗教学者」「文化人」「有名人」を利用することを意図的に追求していた。そしてそのオウム真理教の方針に結果的に乗せられた「宗教学者」「文化人」「有名人」もいた。

 
その中では、特に坂本事件発生直後、「宗教学者」中沢新一氏の果たした役割が大きい。

松本智津夫らがドイツのボンに集団脱出する直前、中沢氏は、松本智津夫と2時間語り合ったとして、その対談を雑誌週刊SPAに「狂気がなければ宗教じゃない オウム真理教教祖が全てを告発」と題して掲載している。また、週刊ポスト12月8日号では、「オウム真理教のどこが悪いのか」という見出しのインタビュー記事で、オウム真理教や松本智津夫の人物像を語っている。

そして週刊SPAの中で、中沢氏は
「例の弁護士さん一家失踪事件という不可解な事件のことです。これについて本当のところをお聞かせ願えませんか。オウム真理教を今の時期、弁護しなきゃならないという義務を感じているものですから(笑い)その点だけはっきりしていないと、どうも腰のすわりが悪いのです。」
と松本智津夫に言い、松本智津夫に
「それについては、私たちの方こそ、狐につままれたような気分なのです。先日の記者会見で説明しましたように、あの事件についてはオウム真理教は全く関係がないとしか、言いようがないのですよ。それというのも、失踪された坂本弁護士は、確かに『被害者の会』というのの顧問弁護士ではある方なのですが、彼だけが特別な能力をもった弁護士というわけでもなく、ほかにも弁護士はたくさんおりますからね。たとえその人がいなくなったとしても『被害者の会』がなくなることもありません。だとすると、オウム真理教が(そんな事件を)やる意味は全く見あたらないのです。」
と言わせている。

そしてさらに中沢氏は
「では『尊師』は、『先生』を前に、はっきり否定なさるわけですね。」
と念を押し、松本智津夫に
「はい。もちろん否定します。」
と答えさせている。

さらに中沢氏は
「それなら、『弁護士』としても気が楽になりますけどね。くどいようですけど、仮に若い連中が麻原さんの気づかないところでやっちゃったということも、ないですよね(笑い)。」
と念を押し、松本智津夫に
「もちろんですよ。」
と答えさせて、そして最後に坂本弁護士一家事件について
「わかりました。もうこの問題には立ち入りません。」
と締めくくっているのである。

 また週刊ポストの中では、中沢氏は松本智津夫について
「僕は彼が顔に似合わずとても高度なことを考えている人で高い意識状態を体験している人だと認めています。日本のいまいるいろいろな宗教家の中でも知性においてかなり上等なレベルにいる人だとおもいました」「僕が実際に麻原さんに会った印象でも彼はウソをついている人じゃないと思った。むしろ今の日本で宗教をやっている人の中で、まれにみる素直な人なんじゃないかな。子供みたいというか、恐ろしいほど捨て身な楽天家の印象ですね」
と語っている。

更に、坂本弁護士一家事件についても
「さっきもちらっと言いましたけど、今問題になっている横浜の弁護士失跡事件で、もし、万が一、オウム真理教の組織の末端が、家族ごと拉致するというバカな犯罪行為を犯していたとしたら『困るんだなあ』と麻原さん無邪気に語ってましたけど、そうなるとオウム・バッシングは正義を得て致命的なものになってしまうでしょうね。これは、僕にとっても日本の社会にとっても非常に残念で、困ったことなんですよねエ。」
と語っているのである。

総じて、これらの発言、対談は、オウム真理教に対する坂本事件への疑惑を打ち消す方向でなされ、かつ松本智津夫及びオウム真理教を非常に高く評価しているものとなっている。 この記事が載った雑誌が出版されたのは、坂本事件が起きてわずか一ヶ月の時期であり、オウム真理教に対する疑惑で、世間が騒然としていた時期である。この時期に、中沢氏が敢えてこのようなオウム真理教・松本智津夫を認知し、擁護する発言を行った意味は大きい。

しかも、中沢氏はチベット仏教をもとにした著書もある「宗教学者」であるだけに、社会に一定の影響を与えると共に、オウム的なものに興味を持つ人たちに、「オウムは間違ったことをしていない」という誤った印象を与え、現にこの記事を読んでオウム真理教に興味を持ち、入信したという者も現れた。そして、オウム真理教が坂本事件、坂本事件による疑惑自体を「弾圧」と称して攻撃する上で大きな根拠を与えたことを忘れることはできない。






この中沢氏の記事の後、オウム真理教を肯定的にとらえる論評や、松本智津夫らの弁解、宣伝をそのままのせる報道が増えることとなった。そのオウム真理教の疑惑隠しに結果として利用されたのが、島田裕巳氏であり、吉本隆明氏、荒俣宏氏、栗本慎一郎氏、ビートたけし氏らであった。国土法違反事件以降になると、更に池田昭氏らが加わってきた。  


島田氏は、「オウムは特異な集団に見えるが、むしろ仏教の伝統を正しく受け継いでいる(週刊朝日1991年10月11日号)」「非常に東洋的なね、宗教の伝統の上にあるというのは間違いなくって、今はオウム真理教というスタイルをとってはいるけれども、非常に伝統的であると。そこで、非常にわかりやすいんですよ。(朝まで生テレビ)」などと発言し、オウム真理教擁護の役割を果たしてきたし、さらに、1995年に入って松本サリン事件に関するオウム真理教への疑惑が高まっていた時期に、オウム真理教の第七サティアンに招き入れられ、その後、これを単なる宗教施設であるとして、オウム真理教の弁解をそのまま繰り返していた。

吉本氏は、「この本(「生死を超える」)を読んでいるとヨーガの肉体的な修練が、なぜ仏教的な世界観である生死を超える理念をつくるところにたどりつくかが、一個のヨーガ修熟者の記述を介して『普通の人間』にも実感的にわからせるところがある。この記述は貴重なものというべきだ(CUT,1992年5月号)」などと述べ、荒俣氏も「私は麻原尊師に限りない好感を抱いた。恐らく解脱した者は幼児のように他愛もないか、あるいは阿修羅のように熱狂的であるかの、どちらかだろう。・・・麻原彰晃がほんものの解脱者として、彼が示す寛大な姿勢は、明らかに前者の例と言えるだろう(ゼロサン、1991年6月号)」と述べている。

栗本慎一郎氏は「麻原さんのように煩悩を越えられた方は非常に素晴らしいし、そこからの教えを説いていっていただきたいと思います。(サンサーラ、1992年1月号)」と述べ、ビートたけし氏は、「ビートたけしのテレビタックル(1991年12月30日放映)」で松本智津夫と対談した後、さらに「Bart」誌でも対談した。  そして、オウム真理教は、これら「文化人」「有名人」の発言を最大限に利用し、オウム真理教が発行する「ヴァジラヤーナ・サッチャ」「本物の時代」「選択」などにおいて、「知識人・有名人も認めるオウム真理教の真理」「尊師対談ハイライト」などと称して繰り返し紹介した。


 もちろん、これらの人々は、オウム真理教が破壊的なカルト教団であると知りつつ、あえてこのような言動を行った訳ではない。しかし、これらの人々の言動によって、坂本弁護士一家事件はオウム真理教とは無関係ではないかと思う人が増えたことは事実であるし、特に若い人たちのオウム真理教に対する警戒心を解き、結果としてオウム真理教へ入信した者も現れたことは事実である。このように、これら「文化人」「有名人」の言動は大きな社会的影響を持つこと、そして、坂本弁護士一家事件のオウム真理教に対する疑惑解明にとっても、これらオウム真理教「擁護」の論調が大きな障害となったことを、これらの人々には十分認識してもらう必要があろう。

(二) オウム真理教の宣伝に「文化人」「有名人」らが果たした役割






https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/770/005770_hanrei.pdf



ああ言えば上祐、こう書けば森達也さん

-言説変更、『殿様と家臣の共振現象』



森達也氏のインタビュー記事が出ているのですね。

朝日新聞2011年9月6日夕刊の記事「教祖と弟子の相互作用」-塩倉裕氏の記事です。以下はその一部

******

森は、「麻原彰晃の意図とは別に」「勝手に」側近が動いたとする「暴走」説を退ける一方で、「自分たちはすべて管理されている」と弟子たちが思いこんだ時間こそ「主語を失った過剰な忖度」が駆動したのではないか、と話した。

(抗議に対しては)森は「本の内容を踏まえた批判とは思えない。無罪主張をした覚えはない。」と語る。

******



あのー



1-森氏は、A3で、松本死刑囚について「有罪だ」とか「無罪を主張しているのではない」などとは、一切書いていない。



2-この記事で言う「過剰な忖度」は、一審弁護団でも主張してきた無罪主張の論理だったでしょうが。

-「A3」487ページで、「言いかえれば幹部信者たちが、「これは尊師の指示である」として、信者たちに指示や通達を伝えることがとても多くなった。こうした過剰な忖度は暴走する」と記述してあります。一審弁護団の無罪主張とどう違いましょうかしら。



-そして「教祖の意図」どころか「指示」がなければ有罪にはできないものです。「暴走を促した」どまりでは無罪です。そして「意図」「促した」どころか「指示」が、抗議書別紙のとおり具体的に認定されている事案なんだよ、と言う指摘です。



3-森氏は、繰り返しになるが、

-A3初めあたり94ページで、

「弁護側は、起訴された13の事件すべての背景に『弟子の暴走』が働いているとして、被告の全面無罪を主張した。」としている上で



-終盤の485ページで、

「この周辺と麻原との相互作用。そこに本質があった。連載初期の頃、一審弁護団が唱えた『弟子の暴走』論について、僕は(直観的な)同意を表明した。二年半にわたる連載を終える今、僕のこの直観は、ほぼ確信に変わっている。ただし弟子たちの暴走を促したのは麻原だ。勝手に暴走したわけではない、そして麻原が弟子たちの暴走を促した背景には、弟子たちによって際限なく注入され続けた情報によって駆動した危機意識があった。」と書いている。



 相互作用の指摘にとどまらず、一審弁護団の全面無罪主張である「弟子の暴走」論についての「直感的な同意」を「ほぼ確信に変わった」と書いているんです。



これ、どのような文学的な修辞を施そうと、理屈をこねようと、自分の「弟子の暴走」論が、無罪主張に帰結することを認めているというほかはないですよ。



今回、朝日新聞では「相互作用を言っただけ」というような説明に、変えているんですね。なんとご都合主義な。



「ああ言えば上祐、こう書けば森達也さん」とでも言う外ないと



**********

 ちなみに「相互作用」は、傍聴を重ねてきた方ならしばしば感じ、あちこちに出ていることではないかしら。



1-カルト問題に長年携わり、証人にも出てきた浅見定雄東北学院大学名誉教授が、もともと「殿様と家臣の共振現象」と、より正確に表現してきたのと類似し、



2-破壊的カルトでは、代表の回りがイエスマンばかりとなり、教祖の歓心をかうために教祖あてにも刺激し合うこととなり、目新しいことではなく、



3-オウム裁判を傍聴してきた多くの方々も感じ、例えば朝日新聞の降幡賢一氏が「蚊柱」として表現してきたことでもあり(私は蚊柱の喩だと中心がないから問題ですと指摘させていただいた)、青沼さんの「オウム裁判傍笑記」にもよく出ていて、弟子間の「帰依」競争さえも見られたものでした。



4-「殿様と家臣の共振現象」は、私の下記ブログにさえ記載しています。読んでおられたかな。

2009.8.17 http://sky.ap.teacup.com/takitaro/871.html

2010.2.15 http://sky.ap.teacup.com/takitaro/941.html



 それを新発見のように、よくもまあ言うものだ、と感じます。



 そして、「A3」では、そんな相互作用にとどまらず「弟子の暴走」論を言ってるのに、説明を変えてきた。なんとも。そして、抗議書の別紙を読めば、「弟子の暴走」論なぞ的外れであることは明白です。具体的に3つあげれば、下記のとおり。



1-松本死刑囚は、例えば、1995年3月の地下鉄サリン事件では、いわゆるリムジン謀議を別としてでも

・18日午後11時ころ遠藤誠一被告に「ジーヴァカ,サリン造れよ。」などと言い、

・19日午後1時過ぎころ、井上死刑囚に対し「アーナンダどうだ。」「じゃ、おまえたちに任せる。」と言い

・午後10時30分頃、遠藤被告が「できたみたいです。ただしまだ純粋な形ではなく混合物です。」と報告したのに対して「ジーヴァカ、いいよそれで。それ以上やらなくていいから。」と言い

・3月20日未明、遠藤被告がサリン入りビニール袋11個について「修法」という儀式を求めたのに対して、段ボールの下に手を触れて瞑想をし、修法を終えた

のです。



2-松本死刑囚は、例えば、1989年2月上旬ころの田口殺人事件では、実行犯に対して、

・「まずいとは思わないか。田口は真島のことを知っているからな。このまま,わしを殺すことになったらとしたら,大変なことになる。もう一度,おまえたちが見にいって,わしを殺すという意思が変わらなかったり,オウムから逃げようという考えが変わらないならばポアするしかないな。」

・「ロープで一気に絞めろ。その後は護摩壇で燃やせ。」など

と言ったのです。



3-松本死刑囚は、例えば、同年11月4日未明の坂本弁護士一家殺人事件では、実行犯に対して、

・「今、ポアをしなければいけない問題となる人物はだれと思う」と述べ坂本弁護士を名指しし

3日午後11時ころ、電話をしてきた早川死刑囚に対して

・「じゃ,入ればいいじゃないか。家族も一緒にやるしかないだろう。」

・「人数的にもそんなに多くはいないだろうし,大きな大人はそんなにいないだろうから,おまえたちの今の人数でいけるだろう。今でなくても,遅い方がいいだろう。」

と言ったのです。



 そんなことを一切記述も分析もせず、どうして「A3」で「弟子の暴走」なぞと記述できる感覚が分からないです。まして、どうしてノンフィクション賞が授与されるのか、不思議。オウム集団側としては、講談社ノンフィクション賞を授賞した「A3」ということで、実に格好の勧誘材料となったなあ、と思います。「映画『A』推進委員会」と同様に、今度は秘密裡に「書籍A3推進委員会」でも作ったかなあ。



https://web.archive.org/web/20180325045441/http://sky.ap.teacup.com/takitaro/1221.html




https://web.archive.org/web/20211109142803/https://tvf2010.org/TVFcineparaforum.pdf




http://www.jscpr.org/wp-content/uploads/2018/01/%E3%82%AA%E3%82%A6%E3%83%A0%E8%A3%81%E5%88%A4%E3%81%A815%E5%B9%B4%E9%96%93%E3%81%AE%E5%A4%89%E5%8C%96-2010.6.9.pdf


第2 被害者救済と特別立法による監視
1 宗教法人としては解散、そして破防法、財産処分について。
オウム真理教に対しては、1995 年 10 月 29 日東京地裁から、「宗教法人」としての解
散命令が出された。サリン製造の認定に基づいている。同年 12 月 19 日東京高裁は即時
抗告を棄却し、法人としての解散が確定した。
一方、公安調査庁は同年 5 月 24 日、この「団体」を破壊活動防止法上の調査団体に
指名したうえで 12 月 20 日、弁明手続きを公示し、1996 年 7 月 11 日には解散命令を請
求した。同法上、初めてのことである。弁明では、教祖麻原自身までもが教義などを得
意満面に説明した。
公安調査庁の動きは、あまりに遅かった。大規模な強制捜索が続き、首謀者も幹部ら
も次々逮捕され重い処罰が予想される状況下で調査団体にするという体たらくであり、
もはや「暴力主義的破壊活動」を「継続又は反覆して」なす「明らかなおそれ」が認め
られる「十分な理由」はないという外なかった。公安審査委員会は、1997 年 1 月 31 日
解散請求を棄却した。
この破防法上の解散命令や、宗教法人の解散命令には、まともな財産処分規定がない
という欠陥がある。それは「破産制度」によるしかない。そこで、1995 年 12 月 8 日、
被害者自身が、氏名などを明らかにする恐怖を押し切って破産を申し立て、次いで国が
申し立てた。1996 年 3 月 28 日、東京地裁はこれを認め、破産管財人阿部三郎弁護士ら
による財産処分が始まっていき、1996 年末までに施設から信者をすべて退去させるこ
とができた。施設解体費は、管財人の説得により、国が廃棄物として負担した。
2 税金などが優先するという不合理
既存の破産制度によれば、配当の際には被害者よりも税金が優先されてしまい、被害
者の救済に欠ける。そこで、破産管財人と被害者らは、国、地方公共団体や国会議員に
強く働きかけ、異例にも税金を劣後させる特別法を制定させるに至る。1998 年 4 月 24
日成立の「オウム真理教に係る破産手続における国の債権に関する特例に関する法律」
である。
3 破産宣告後の財産と賠償契約について。
また、既存の破産制度では、破産決定の際の財産のみが「破産財団」を形成し、その
後に集団が実質残っていて財産ができてもこれを配当に回すことができない。それは同
時に、団体としてのオウム真理教の存続復活を容易にしてしまう。
そこで、更に被害者や管財人は努力し、1999 年 12 月 7 日「特定破産法人の破産財団
に属すべき財産の回復に関する特別措置法」を制定させるに至る。これにより、後に教
団が取得した財産も既存団体から「流出したと推定」され、既に法人格はないが団体で
ある教団が、2000 年 7 月 6 日破産管財人と賠償契約を結ぶに至っている。
4 あらたな団体規制法による「観察処分」
上記法律の成立と同じ日、「無差別大量殺人行為を行った団体の規制に関する法律」
が成立している。これは、破防法の解散命令が棄却されたことを受けて、公安調査庁と
して別に監視する方法を模索した結果である。
この法律に基づき、教団は、2000 年 1 月 31 日から3か月ごとに施設、信者、活動状
況を報告しなければならず立ち入り調査にも応じる「観察処分」を受けており、3年ごとに更新されている。
同法には、観察処分に違反したり甚大な違法行為があれば、6か月間なんら活動して
はならない「再発防止処分」ができ得ると規定されているが、まだ発動されていない。
同法は5年ごとの見直し規定があるが、継続されてきている。
対象団体は、「麻原彰晃こと松本智津夫を教祖・創始者とするオウム真理教の教義を
広め,これを実現することを目的とし,同人が主宰し,同人及び同教義に従う者によっ
て構成される団体」である。すなわち、対象はオウム真理教の分派とみられるいくつか
の団体を含めたすべてである。が、現実に対応しているのは、後記の「アレフ」と「ひ
かりの輪」のみである。
観察処分につき、「ひかりの輪」への公安審査委員会の対応が注目される。というの
は、2009 年 1 月 23 日更新決定では「未だ脱却が行われたものと認めることはできない
が、今後の『ひかりの輪』の活動が、両サリン事件等に対する真の反省に基づき実施さ
れるものであると認めることができるか、また、被害者や周辺住民等の理解を得られる
ものであると認めることができるかを注視していくことにしたい。」と付言からである。
将来、観察処分の対象から外す可能性がある。
筆者は、この付言は重大な間違いを犯している、と考える。「ひかりの輪」は後記の
とおりの背景と実態を持つものだからである。
「ひかりの輪」は同委員会に観察処分の取消しを請求し、「アレフ」は、東京地方裁
判所あて取消請求訴訟を提起している。
5 オウム真理教被害者の民事救済
破産制度による配当は、上記の管財人や被害者らの努力により、外部の人身被害者に
対して 36.87%(寄付金を含めれば 40.39%)という一般の破産実態からは高い配当率
になったが、人身被害であるという特質からは足りるものではない。
一方、米国は 2001.9.11 アルカイダによる奪取した航空機を使った同時多発テロの人
身被害につき、数カ月を経ずして被害補償をしていた。日本でも犯罪被害者等基本法が
2004 年 12 月 8 日成立し、間もなく犯罪被害者等への給付金が増えた。が、給付金増額
はさかのぼって適用されない。
そこで、地下鉄サリン事件の遺族高橋シズヱさんをはじめとする被害者らは、引き続
き強く社会や国に訴えた。国に対するテロ事件の被害であり、警察などがまともな捜査
していればここまでの被害にはならなかったからである。
その結果、ようやくにして 2008 年 6 月 23 日「オウム真理教犯罪被害者等を救済する
ための給付金の支給に関する法律」が成立した。内容は、一連のオウム事件のうち外部
人身被害者につき 10 万円から 3000 万円を国が補償し、国がオウム教団に求償するとい
うものである。これにより大幅な救済が図られ、また地下鉄サリン事件では、死亡者が
刑事裁判では 12 人であったが実は 13 人であること、傷害を受けた者も 5000 人余りで
はなく 6300 人に上ることが判明し、給付につなげることができた。
だが、重い障害を負っている方らへの補償額は不足し、医療・療養体制は備えられておらず、被害者らへの継続的なケアー体制もないままである。
なお、上記とは全く別に、早期に、上記「家族の会」の提唱で「見舞基金」が作られ、
信者家族や脱会者 137 名が 12,956,107 円を拠出し、1996 年中に外部死亡者遺族に 50
万円ずつ受領して頂いたほか(受領いただけないご遺族もいた)、管財人が作った寄付
口座に 2,717,498 円を入金している。
6 オウム教団の民事責任
オウム集団の民事責任としては、上記救済法に基づく国の求償権に応ずる義務のほか、
被害者自身の未だ補償されていない請求権が優先する。そこで破産管財人は、2009 年 3
月 18 日に裁判所の許可を得て、「オウム真理教犯罪被害者支援機構」に、教団との間の
賠償契約上の債権を譲渡し、同機構が請求・受領することとした。
ところで、前記の破産管財人と教団との間の 2000 年 7 月 6 日付賠償契約は、オウム
集団の後継である「宗教団体・アーレフ」が、破産手続き上確定した債務(51 億 5830
万 9374 円)を引き受け、法人であったときの財産とは別に、まずは 2005 年 6 月末日ま
でに内金 9 億 6000 万円を分割して支払うという内容であった。
教団はいったん合意した以上、破産業務が終結しても、これに応じて支援機構に対し
て支払う義務がある。しかし、オウム集団の本流「アレフ」は、上記債権が譲渡された
後、支援機構との間で支払い合意をしないままであり、分派「ひかりの輪」は 2005 年
9 月 7 日合意書を交わしたものの、約定どおり支払わないままである。
その結果、寄付金などによる配当増加額をも加えて控除しても、破産結了直前の 2008
年 11 月 18 日現在で、残金 24 億 7527 万 9050 円が支払われていない。
第3 1995 年 5 月以降の「オウム真理教」
1 現在の状況
公安調査庁によれば、「アレフ」は、日本国内に出家約 450 人,在家約 850 人、施設
数は全国各地に23カ所である。「ひかりの輪」は、出家約 50 人、在家約 150 人で、施
設は8カ所である。
信者数は、1995 年 3 月当時、国内で出家 1400 人以上、在家 1 万 4000 人以上、ロシ
アで出家者数十人、在家 3 万人であったから、これと比較して、激減している。
ひかりの輪は、教祖から「マイトレーヤ正大師」とされた上祐史浩が指導している。
2009 年末現在、公安調査庁によれば、国内の施設数 8 カ所、出家者約 50 人、在家約 150
人である。インターネットを通じた勧誘の外は積極的に勧誘活動をせず、上祐説法のほ
かは、神社仏閣など霊地をめぐる活動などをしている。これは、前記の「観察処分」を
なんとしても外してもらうためであると見られ、公安審査委員会にその要請を重ねてい
る。収入状況はじり貧で、東京都世田谷区の施設を一部明け渡している。
アレフは、教祖の妻である「ヤソーダラー正大師」こと松本知子と、「ウマー・パー
ルヴァティー・アーチャリー」こと三女とが指導し、代表者共同幹事を上田竜也・松下
孝寿、後に田中和利・鈴木和弘としている。2009 年末現在、同じく日本国内に出家信
徒約 450 人、在家約 850 人である。2009 年には関西や北海道を中心に 100 人以上の新
規信徒を獲得している。拠点施設は国内各地に 23 か所であるが、2010 年 6 月、東京都
足立区内に関係会社名で1億円程度とみられる中古4階ビルを購入している。また、茨
城県龍ヶ崎市内の一軒家が妻知子らの居住用に会社名で確保され、三女ら居住のための
埼玉県内のマンションが信者名で取得されている。
アレフは、2009 年を「哀れみの救済の年」と位置づけ、「救済の十のテクニック」説
法ビデオを使って勧誘の訓練し、また書店の精神世界コーナー,アルバイト先、ダミー
のヨーガサークル、占いホームページやSNSを利用している。「グルとの合一」など
を唱和する修行を重ね、6 月には在家対象に、麻原説法映像(「信徒用説法集 DVD」全
14 巻,1 巻3万円)を、ついに販売するに至っている。また、前記「観察処分」に対し
ては、2009 年 7 月 8 日、取消しを求める行政訴訟を起こしている。
合計すれば、出家の9割程度と在家の6割は地下鉄サリン事件前からの信者である。
新たな信徒も入っていて 34 歳以下が2割を占めている。その他、後記の通りいくつか
の分派があるが、その信者数は合計 100 人以下、すべてを合計して国内で出家者 500
人前後、在家者 1100 人程度と思われる。
なお、公安調査庁は、ロシアの信徒は約 200 人、数か所の施設があると報告している。
2 1995 年 5 月から 1997 年 1 月 31 日の破防法棄却まで
― 獄中説法の影響期
教祖が 1995 年 5 月 16 日に逮捕されると、破壊活動も殺人指令も出せなくなったが、
当初は選任した私選弁護人を通じて「獄中メッセージ」を幾つか発していた。次期代表
につき、まず愛人であり自身との間に秘密裡に3人の子をなしている「ケイマ正大師」
こと某女を指名したが、同女も同年 11 月 22 日に逮捕された。1996 年 6 月には、麻原
の地位は「開祖」に、麻原の長男次男である幼児2名を「教祖」にせよ、と発してきた。
この2人は、生まれながらの最終解脱者であり教祖の次に高位だということとなってい
た。
教祖の子どもらは、児童福祉法上の「一時保護」を受けていなかったことから、この
ようなことが可能となった。すなわち、出家者の子どもらは、「愛着してはいけない」
と教えにより親と離れてかつ不衛生な場に暮らされ、義務教育も受けずオウム教義を教
え込まれるばかりであった。ために、1995 年 4 月から数カ月にわたり、山梨県など 1
都 1 府 6 県で 1 歳から 14 歳までの児童合計 107 名が一時保護された。子どもらは、後
に養護施設や信者でない祖父母らのもとで育っていった。また未成年の出家者らは
1995 年夏までにいったんは自宅に帰るよう指導された。
しかし、教祖の子は、幼児まで含めて、父そして母が逮捕されても、母が指定した養
育係がいたことや成人に近い姉らが共にいたために、保護されなかった。教団には男児
2人の写真が飾られ、信者らはこの子どもらに帰依を誓った。具体的には、「正悟師」
らを中心とする「長老部」により指導されていた。1995 年 10 月 8 日には「マイトレー
ヤ正大師」こと上祐史浩も逮捕されていた。
教団は、破防法対策のために、破産管財人の指示には基本的に従っていた。またオウ
ム真理教被害対策弁護団が、出家者の全てが親族と面談できる世に親族窓口を作るよう
要請し、これが実現できた。教団は、1996 年末には従来の教団施設をすべて破産管財
人に明け渡した。なお、その折出家信者の多くは 10 万円ずつ教団から持たされていた。
出家者は、教祖の指示により6人程度ずつ居住するための随時アパートを借りようと
していた。が、オウム信者であることが分かると賃借できないことが多くなり、暴力団
関係者が多額の金銭に応じて用意した競売中の「事故物件」に居住せざるをえない者も
多くいた。
3 1997 年 2 月から 1999 年末まで
― 破防法棄却による誤解とハルマゲドン期待期
教団内の元号は前年まで「救済」であったが、1997 年、教祖は「間違いなく真理元
年になる」としていた。これは教祖が 1997 年に世界最終戦争ハルマゲドンが起きると
予言し、また破防法の解散命令が適用されると予測していたことによる。
しかし、破防法は、既にその要件を満たしていないことから適用されなかった。ハル
マケドンも来なかった。教祖の予言が外れたのだが、信者らは免罪符を得たように活動
を活発化させるようになる。この頃には、教祖には国選弁護人が就いているだけとなっ
ていて、教祖からのメッセージも容易に届かなくなっている。
一方で、外部にあっては、映画監督森達也が 1997 年、映画「A」を撮影して上映し
始めたことが注目される。同映画は、教団の信者が「普通の」「真面目な良い子」であ
ることを示す日常生活を描く貴重なものであるが、殺人までもした信者も「よい人」な
のだ、というカルト集団と事件の恐ろしさの本質が描けていないものであった。教団は
これを世論工作として普及すべく「映画A推進委員会」なる組織を作って協力し、同監
督もこれを知っていた。
また、幹部らの私選弁護人を選任するために、教団は、1969 年設立のもっぱら新左
翼セクトの刑事弁護のための「救援連絡センター」に依存するようになり、1996 年 1
月には「オウム裁判対策協議会」を立ち上げた。これは運動家の千代丸健二、山中幸男、
映画監督の山際永三らが主催するものであり、集会を催すなど世論工作につくした。こ
れらの主軸は古参幹部の別所幸弘が「脱会者」だとしてあたり、「人権救済基金」と称
して信者でない親らにまで金銭を無心するようになっていた。
これら外部の動きは、後に朝日新聞系などが 2000 年に出所した上祐史浩にインタビ
ューするなど、一定の効果を発揮している
資金的には、パソコン事業が注目される。オウム真理教は、1994 年頃から台湾製の
部品を組み立てて販売する方法により一般社会で販売して多額の収益を得ていたが、工
場の集団作業も可能となったことから、出家者の手により組立作業をして多額の利益を
得るようになった。また、出家者の一部 120 人ほどは一般社会で働く「財施部」とされ
た。コンピュータ事業部(CMP)の売り上げは年商70億円になったこともある模様
である。
教団はこれら資金をもとに、長老部の指導の下、集団活動を活発化させていく。再び
個人賃借の形で、各地に道場を確保して再建し始めた。水炊きなどのいわゆる「オウム
食」もまとめて作られ、全国に配布するようになる。各地で勧誘のためのビラ配り、大
学でのダミーサークルも再開した。1998 年には、在家の女性信徒らにロックバンド「完
全解脱」をつくらせてコンサート活動をさせ、駅頭で宣伝活動までさせた。また、信者
の中には、教祖の「エネルギー」を得るためとして教祖のいる東京拘置所の周囲を歩く
修行をする者が増えた。
これら活動の活発化は各所住民の不安を引き起こし、少なくない自治体では出家者が
転居しても住民票を受理しないという対策をとるようになる。これは、後に裁判により
自治体側が信者個人に慰謝料を支払えとの判決が出て自治体側の敗訴が確定したが、世
論の批判の強さが教団にあっても対応を余儀なくさせた時期であった。
同時に、教団は 1999 年7月のハルマゲドンへの危機感を募らせ、教祖家族らが避難
するシェルターを長野県の山中に作る、非常救出グッズを各自所持するなどしていた。
日本では 1970 年代、五島勉が喧伝した「ハルマゲドン」の 1999 年 7 月が、広く知られ
ており、信者らも不安と言わば期待を持っていたからである。
しかし、1999 年 7 月を過ぎてもやはりハルマゲドンはなかった。社会との軋轢も極
めて強くなっており、破防法に代わって団体を規制する法律を求める世論がわき起こっ
てきていた。
かような情勢の中、教団は 1999 年 9 月 29 日、対外的な宗教活動の休止と教団名の一
時使用停止からなる「オウム真理教休眠宣言」を発表し、さらに同年 12 月 1 日、「正式
見解」として、事件の関与を認め謝罪し、賠償を行うこととした。
それでも、上記のとおり同年 12 月 9 日、団体規制法は成立した。
4 2000 年 1 月から 2003 年 6 月 27 日まで
- 団体規制法制定と「麻原隠し期」
上祐は 1999 年 12 月 29 日出所してきた。同人は「正大師」の称号を返上したとし、
2000 年 1 月 18 日に教団は会見を開き、上祐の謝罪・反省の弁と村岡達子代表代行によ
る教団改革の発表を行った。
しかし、時すでに遅く、教団は、2000 年 1 月オウム新法の「観察処分」に付せられ
た。教団は、破産管財人から「オウム真理教」の名称を使用しないよう指導も受けたこ
ともあり、2000 年 2 月に新団体「宗教団体・アーレフ」とした。初代代表には、麻原
逮捕後からオウム真理教代表代行を勤めてきた村岡達子が就いた。「麻原外し」路線を
推進、麻原を単に「旧団体代表」と定義し、麻原の肖像を掲示して「観想」することを
禁じ、また道場を公開するなどした。
教団は、2000 年 7 月 6 日、破産管財人と上記の通りの賠償契約を締結し、入金し始
めるようになる。また上祐はマスメディアに積極的に対応し、朝日新聞のインタビュー
を受けるまでになる。教団は、教祖を奪還しようとロシアから来日し日本各所を回って
いた信者を、公安警察に通報し、逮捕させるにいたる(シガチョフ事件)。教団は、サ
リン事件被害者らのケアーを行ってきた団体である「リカバリーサポートセンター」(木
村晋介弁護士が代表、2002 年 3 月NPO法人化)に対して資金を援助している。
上祐は、2002 年 1 月 30 日、正式にアーレフ代表に就任した。
筆者は、この上祐路線には裏があると考える。どこまでいっても「麻原隠し」路線で
あって決して「麻原外し」路線ではないのである。
教団としては、再び信者勧誘などを活発化させて力を蓄えるのが大切であり、そのた
めに観察処分を外させるべく、「麻原隠し」を徹底してなすことが必要だった。教祖の
教えを、教祖の名を隠し一部言葉を変えつつも維持していき、後に実はこれは教祖麻原
彰晃の教えでありグルなのだ、と言えば直ちにオウム教団となるのであり、いわば「大
人の知恵」である。
証拠の一つが、秘密にされた上祐の 2000 年 1 月 16 日頃の長老部における改革案であ
る。
****************
① -「宗教団体アレフ」にする。・組織の性格は、教団を拡大して尊師の死刑を止める。・
そして再開を可能にする。・表向き、教祖や子どもなど麻原家を、外す。
② -新たな布教活動として・「21 世紀サイバー教団」として、インターネットで布教活動
をする。・「アクエリアス教団」として、科学と宗教が合致した超人を育成する。・「ホワ
イトフリーメーソン」として、オウム色を出さずに救済活動をする。企業活動の基盤を
つくる。・グローバル教団になるべく、イギリス・ロシアで、インターネットを活用して、
布教、経済活動をする。
③ -声明では、麻原尊師の指示、関与を認める。・謝罪し、被害補償活動を行う。・被害者
を「守護者」と呼ぶ。・発表することで、マスコミを味方につける。
④ -観察処分について。・立入り検査を逆利用して、危険性なしのアッピールをする。・職
権濫用の告訴、国家賠償請求の前提として、証拠の保全に努める。・大日本帝国に似てい
るとして、国民を味方につける。
⑤ -立入り検査に対する「対策マニュアル」・法務部名で出す。・訴訟、懲戒免職を求めるた
めに、氏名・役職を確認し、写真を撮る。・問題がないものはある程度見せるが、焦らし
ながら見せること。・金庫や机は、鍵をかける。自分の机じゃないという。パソコンは、
立ち上げを求められても、自分のパソコンじゃないのでバスワードを知らないと。・人の
調査に対しては、立入り検査は設備や帳簿の調査が対象でしょう、という。・個人的に使
用している者、団体に無関係などと対応する。
****************
というものなのである。「被害者を守護者と呼ぶ」というのは、教祖の指示によって
殺された被害者は、現在カルマの法則により教祖・教団に感謝し守護している、という
考えに基づく。
そもそも、上祐は偽証罪などで実刑に服したのであるが、元々メディアなどに対して
「嘘をつく」のがワークであり、これが本人のヴァジラヤーナ教義実践の中核にある。
上祐も人生をかけてオウム真理教に出家し、恋人さえ教祖に「捧げた」人物であった。
加えて、上祐を正大師とした「大乗のヨーガ」成就式典での麻原説法(1993 年 1 月 3
日)は、前記第2の4の末尾に記載の通りなのであり、上祐はこれを自ら代表となるこ
との正当化資料ともしていた。
しかし、幹部らの多くはここまでの「麻原隠し」についていけなかった。特に、上祐
自身にあって自らが行った場所には虹が出るとか、龍の形をした雲が出るとか言い出し
てカリスマ化を図ろうとする動きに対しては、不満が噴きした。
そして、上祐と同じ正大師の地位にある「ヤソーダラー正大師」こと松本知子(以下
「妻知子」という)が出所し、やがて教団運営に関与してくると状況が変化する。それ
までは、教祖の2人の幼児やその姉らがいても抑えられたが、大人である妻知子が関与
し始め、決定的に変わってきた。
5 2003 年 7 月から 2006 年 5 月まで
- 上祐派と原理派(妻・三女派)の暗闘期
妻知子は、刑事裁判にあってはオウムと決別したという態度を取りながら、教祖で
ある夫との離婚は結局しないまま、上祐が正式な代表となった年である 2002 年の 10
月、出所してきた。
それまで、6人の子どもらは、お付きの信者 2-30 人ほどの庇護の中にあり、情報を
遮断され、また小さい子にもオウム真理教の教えをたたきこまれ続けた。が、姉妹の仲
が良くなく、2000 年 1 月には、長女とともにいた長男を、二女と三女がお付きの信者
ともども拉致してしまって逮捕され、長男も児童相談所の一時保護を受けるなど、混乱
を極めていた。その後は、子どもらもお付きの者らも「脱会者」名目となる。2000 年
11 月には、後見人として後に教祖の控訴審の弁護人となる松井武弁護士がついたが、
同弁護士は格別親らしいことをせず、子どもらをお付きの人と生活させるままにしてい
た。
長女は、上記拉致事件後、精神的に不安定になっており、2001 年 1 月 19 日、スーパ
ーで大量に食料品を万引きし逮捕され、その後福祉の力を借りて一人で生活している。
なお、三女は、精神的に不安定になったお付きの「脱会者」名目の信者から、髪の毛を
掴まれてまわされるなどの暴行を受けてもいる。
出所してきた妻知子と子どもらは、茨城県龍ヶ崎市の一軒家の家を確保して居住した。
この建物は、Y2PC(ワイワイピーシー)というパソコン販売会社の社員からの多額の布
施を得ている資金で取得され、名義も本人名ではない。同社は、有限会社オフィス・ワ
イという上記「オウム裁判対策協議会」を作った山際永三や山中幸男が役員を務めてい
る。実質教団信者である社員らは、自らの銀行口座を上位の信者に管理され、教団財政
とは別にほとんどが教祖の妻子への布施になっている。なお、生活資金としては、その
ほか、松本知子の絵画賃借料名目でアレフから一か月 40 万円が内密に出されていた。
上記「脱会者」名目らの教祖一家にお付きの信者や別所幸弘を中心とする集まりは、
「第二オウム」とも呼ばれる。信者らは、チベット密教に源流をもつオウム真理教であ
ること、長男と次男が生まれながらの最終解脱者とされていたことから、やはり血脈を
重視する思考にあり、名目が何であろうと子どもらを押し立てようとしている。
うち、古参幹部の別所幸弘は、現役信者の被告人に弁護人をつけるべく、新左翼勢力
が古くから作っていた「救援連絡センター」を頼っていたが、これを母体に「人権救済
基金」を作り、現役信者から麻原教祖らの弁護に使う金員に使うとして教団本体とは別
に金員を集め、余剰でユーロ債数百万円も購入している。彼は、2006 年 3 月には「脱
会者」名目になりながら、弁護のためとして教祖家族と接触できる立場であるから実質、
権力を増している。
三女や妻知子らは、マスメディアや社会、そして法廷でも「脱会者」であると言いな
がら、2003 年 6 月から上祐以外の教団幹部に指示して「麻原彰晃」を前面に出すよう
求め、上祐外しをさせるべく工作を始めた。中堅幹部には、もともと上祐の「麻原隠し」
にはついていけなくなる者も増えてきていたから、これは効果を発揮した。同年 6 月
27 日未明の会議にて上祐は失脚し、同年 10 月「修行に専念(事実上の失脚)」すると
した。教団の運営は、表面上は野田成人ら「正悟師」5 名が構成する旧長老部がしてい
るという建前で、実際は三女や妻知子の指示するところとなった。
正悟師らの集まりである旧「長老部」の中では、まだまとめる力ある野田成人は、2004
年 7 月 6 日、後記の「桃源事件」で逮捕され、2005 年 12 月 26 日まで身柄を拘束され
た。この間、他の幹部らは、妻知子らの指示と教団運営との調整に疲れていた。そのた
め上祐は 2004 年 11 月、復帰することが許された。が、妻知子や三女は、今度は中堅幹
部をけしかけて、2005 年夏までに再び上祐を失脚させた。
実質残っていた「正悟師」二ノ宮耕一は関西を拠点として動かなくなり、同村岡達子
が 2005 年 11 月、同杉浦実から会計を引き継ぐこととなる。この頃の教団財政は、出家
者の生活費を含めて月間 3~4000 万円ほどである。
この間、2005 年正月には男性出家者が温熱修行で死去した。富士山に冬季、修行登
山していた男性出家者も死去し後に発見された。驚くべきは、教団はこの2人の遺体を
ビデオ撮影し、無常を伝えるものとして信者に広く見せていた。
6 2006 年 5 月から現在まで
- 大分裂期
アレフは、現在に至るも裏に隠れた妻知子や三女が差配する状況である。すなわち、
2005 年 9 月、最終的には 2006 年 1 月に教祖の 16 歳になる四女が家出をし、村岡達子
が教祖一家、特に妻知子や三女の矛盾した内幕を聞き、裏支配に疑問を持つようになる
と、妻知子は村岡を直接、指導部から外した。同年末、執行猶予により戻った野田成人
も、中堅幹部らに糾弾させて失脚させた。実質「正悟師」二ノ宮耕一は関西を拠点とし
て動かない。
上祐史浩は、2006 年 5 月、「人を神としない。新教団を 2007 年 2 月までに作る」と
セミナーで宣言し、2006 年 7 月には財政面、実務面ともに教団本体からの分離が行わ
れた。上祐らは、2007 年 5 月 7 日、教団から脱会したとして新団体「ひかりの輪」を
設立した。
その間、上祐史浩は、麻原夫人の松本知子一家に対して「松本知子作の絵画の使用料」
名目で教団が資金援助を行っていたこと、松本一家が間接的ながらも教団に影響力を与
えていることを公言し始め、これにより分裂は決定的になった。
アーレフは、2007 年 3 月から「合同会議」なるものを作り、妻知子や三女が、前記
別所や中堅幹部荒木浩を介して指導する体制となった。形式上は 20 人ほどの出家者委
員が共同幹事2名外を選任する形となっている。
前記野田は、2007 年 2 月から、唯一残っている「正悟師」として自称代表と言うが、
内部限定のインターネット情報、次いで外部でも教団批判を繰り返して実権を失い、
2009 年 3 月には除名される。「宗教団体アーレフ」は、2008 年 5 月 13 日「宗教団体・
アレフ」「Aleph」と名称を変更している。そして第3の1に記載の通り、2009 年
からは、麻原説法映像を信者向けに高額で販売するまでに至っている。
しかし、「ひかりの輪」は、決して「オウム真理教」から外れたものではない。次の
点から明らかである。財産や居住場所、出家者の意思確認など、教団本体と協議の上で
分裂したものである。内部地位はオウム真理教の位階に拠っている。指導者の上祐は、
もう名乗らないと言いつつも教祖麻原の認定した「マイトレーヤ正大師」という権威を
背景としている。立位礼拝やマントラは酷似している。麻原は霊的指導者としての能力
はあったとしている。そもそも、上祐は「嘘をつくのがワーク」である。麻原説法上何
としても残存させるのが上祐の使命とされている。
ここでいう麻原説法とは、1993 年 1 月 3 日の上祐史浩こと「マイトレーヤ正大師・
大乗のヨーガ成就式典」での教祖説法で、次のとおりである。
*************
「息子として転生し、弟子として転生してきているということは、当然わたしもいず
れ彼(上祐)を離さなければならない時期が来る。離さなければならないとは、一人立
ちし、そして多くの衆生のリーダーとし、その世界の救済をしなければならないという
ことである。」
*************
以上からして、上祐派である「ひかりの輪」は、「観察処分」を外すためには麻原隠
しもし続け、嘘でもつく「大人の過激派」であるのに対して、「アレフ」は、麻原隠し
が我慢できない「原理派」「子どもの過激派」と考えられる。
なお、教祖には正妻以外の女性との間にも何人もの子がいるが、多くは教団から実質
的にも外れて生活している。
第4 その他の分派状況など
1 「中田グループ」は、1996 年頃、元暴力団員だが出家者信者であった中田清秀が中
心となっている。破壊活動防止法の適用を回避するためであろうが、代表と養子縁組を
多くした。岐阜県内で土産物屋や民宿を経営している。マスメディアに対して「脱会者」
と称しているが、アレフとも長く人を交流させてきた分派である。次第に人数が減り、
またアレフの混乱の影響かアレフとの交流が無くなってきている。
2 1997 年頃、福岡騒動が起こった。福岡支部の男性の一在家信徒が、教祖が乗り移っ
たがごとき言動を繰り返し、多くの信者とくに女性支部長までこれに幻惑されていった。
教団幹部らが乗り込んで女性支部長を別の場所に幽閉して鎮静化させた。
3 「ケロヨンクラブ」は、1999 年頃できた。在家の女性信者北沢優子が「私の胸の中
に教祖がいる」として代表になったものである。経済的には子どもがいる女性信者らに
計 20 人ほどに生活保護を受給させ、それを全体の生活費としていた。神社から者を盗
んで検挙されもした。
温熱修行で女性が一人死亡した。子どもに酒を飲ませる、熱い棒を持たせる修行もあ
った。代表は、2004 年 9 月 10 日未明から、通称「ドキュン」という合法ドラッグをの
ませ、座法を組ませ足をガムテープなどで緊縛して、女性一人を竹刀で 8 時間計 10 万
回叩くよう指示し、外傷性ショックで死亡させたものである。叩いたのは 2800 回位で
あり、傷害致死事件として起訴された。代表以下 3 人が刑事裁判となったが、代表のみ
は争っており、その途中病気となって崩壊しつつある。
4 アレフ幹部である二ノ宮耕一は、2000 年頃から滋賀県に「二宮グループ」を形成し
ている。仏具などを輸入販売しており、10 人程以下。アレフに説法に来ることもあり、
完全な分派とはなっていない。
5 2007 年、上記杉浦茂らがアレフから離れ、神奈川県相模原市内に一軒家を借りて、
いわば引きこもりの分派「杉浦グループ」を作ったが、2010 年初夏までには崩壊した
模様である。
6 同年、杉浦実も他の男性とともにアレフから離れ、「越谷グループ」を作っている模
様である。
7 元ナローパ正悟師こと名倉文彦は、1998 年 12 月7日に東京都下に株式会社ナチュラ
ルテラを作り、ハーブや健康食品・宝飾品を販売している。資本金は 3400 万円、店舗
は都内に 10 店のほか、インターネット上で販売している。ついてきた信者らに対して
「白蓮和尚」を名乗って精神的に支配して酷使していた例がある。
8 その他、ヨガ道場、占い、健康食品販売、マッサージ業などを、「元信者」らが単独
または数人で始めているものもあるが、真実脱会者なのか、それとも信仰を残している
かは容易に判然としない。真実、麻原信仰から離れている脱会者で、生活などのために
携わっている者がしている場合も相当あるのである。
また、インターネット上には、多くはオウム教団だと明らかにしていない信者のサイ
トがいくつもあり、勧誘の窓口になっている。末尾で紹介のリンク集に詳しい。
第5 刑事、民事紛争
1 公安警察は、1995 年 3 月以降、出家信者に対して、偽りの住所だったというような
電磁的記録不正作出罪、道路運送車両法違反、教団施設として使用するのに居宅として
借りたなどの詐欺罪をもとに捜索・押収をして監視している。
公安調査庁は、1995 年 3 月以降に調査を開始したが、前記の「観察処分」が実施で
きるまで周辺観察以上の情報は容易に得ることができなかった。公安調査庁は団体規制
法の第7条第2項に基づき、警察は、同法第14条第2項に基づいて、立入検査を同時
に実施することもある。
2 観察処分の拒否、偽りの報告などについては刑事処罰があることから、教団は判明し
た秘密について、結局は認める対応を取っている。ただし、9 枚ほどの入会申込書など
を裁断機にかけて破棄し、団体規制法第39条(立入検査拒否等の罪)違反で大阪地裁
2004 年 1 月 20 日、執行猶予付だが懲役 8 か月が言い渡され、確定している。
違反があるなどするとき、6 か月間、一切の活動停止を求められ、違反すれば処罰あ
る「再発防止処分」が可能であるが、まだ公安調査庁は要求していない。
3 実質的な刑事事件としては、「桃源事件」がある。これは野田成人以下 7 人ほどが、
2004 年逮捕され起訴され、執行猶予つきだが有罪判決となったものである。強いステ
ロイドが含有されているのに含有していないとして塗り薬を販売していた。約 720 人に
計 2300 個販売し、実質的な健康被害も多く生じさせた。
4 民事的には、アレフが次々と訴訟を提起していることが注目される。地方公共団体相
手には、1997 年以降、住民票異動を受理しないことにつき、信者個人が受理と慰謝料
の支払いを求めた訴訟が続いた。受理すべきとされ、慰謝料は原告となって信者一人2
-30万円ずつが認められた。
5 教祖の子どもらについては 2000 年、公立小学校が入学を拒否し訴訟となった。小学
校ら側は、現役信者と言う外ないお付きの信者らが共にいることを問題とした。後に和
解により登校できた。三女は、私立大学が自らの入学許可を取り消したことにつき 350
万円の慰謝料請求訴訟を提起した。裁判では、自分は脱会者であり教団とは全く関係が
ないと偽りを述べ、慰謝料 30 万円が認容された。三女らは父が獄中で治療されていな
い、接見を妨害されているなどとして 750 万円の国家賠償請求をしたが、認められなか
った。
6 教団は、「不当逮捕」につき国家賠償請求をしたり、マスメディア相手に名誉棄損訴
訟を提起し、上訴もしてきたが、ことごとく認められていない。その中では、原告であ
る三女と、被告メディアの取材を受けた四女が、同じ日に同じ法廷で証言するという状
態も生まれた。
2007 年、アレフが教祖の説法を再び使い始めていることを潜入取材されテレビ放映
される際には、撮影された信者名の肖像権をもとに差し止めの仮処分をTBSあてに提
起した。しかしこれは公益目的があるなどとして認められず、次いでアレフとして、2008
年 11 月 25 日、潜入取材者に対して慰謝料請求訴訟を提起している。
7 アレフは、2009 年 7 月、観察処分について取消を求める行政訴訟を提起した。同様
の訴訟はそれ以前にもしており、東京地裁は 2001 年 6 月 13 日、2004 年 10 月 29 日の
2回請求を棄却し、アレフはそのまま確定させている
最近では、2010 年 3 月 30 日、国松長官銃撃事件の控訴時効完成の後、警視庁がオウ
ム集団の容疑を詳しくホームページに 1 か月間掲載したことにつき、削除要請をしてい
たが、これにつき、アレフなどが国家賠償請求訴訟を提起するかどうかが注目される。
第6 脱会と入信の状況、変化
1 1995 年 3 月に強制捜査が入って以来、マスメディアは前代未聞の報道時間、報道記
事を流した。これにより極悪非道の事件とオウム真理教の実態が、次々明らかになって
いった。筆者などの外部の者のみならず、出家していたが脱会した者のインタビューも
繰り返され、これらが在家信徒に影響を及ぼし、次々と脱会していった。
ただし、「今こそ、魂の二分化が始まっている」という教団の説得の中、この年出家
していった者も少なくない。
2 警察・検察には、強制捜査に入る前から筆者が取り調べ手法「心覚え」を提出してあ
りこれが林郁夫外の取り調べにも活用されるなどした。少なくない取調官はマインド・
コントロール対応に工夫を重ね、心を開いていって供述を得ようとした。その過程で、
多くの実行犯は、脱会していった。
3 警察は、在家信者からも犯罪に協力した者が出たこと、逃亡犯の所在捜査のために在
家信者にもことごとく調査にあたっていった。これにより社会生活上の不便があり、次
第に裁判情報などにも聞く耳をもつようになり、脱会した人も多い。
4 出家信者らは微罪逮捕を繰り返された。総逮捕者は 500 人近くになる。これにより反
発心と信仰心を高めた信者もいた。が、取り調べの警察官の情報提供により脱会する者
もあい次いだ。それまで新聞やテレビさえ見ていない信者であったから、具体的な事件
を突き付けられることにより、考え直さざるを得なかったのである。更に、中堅幹部の
中には、裁判傍聴をする中で、教団の全体像と事件実態を知り脱会する者も出てきた。
5 また、教団は、先立つ 1995 年夏には、前記の一時保護の影響から未成年の信者を在
家に戻すようになり、その多くが社会で情報を得たことから脱会していった。
6 筆者が窓口となっている脱会者の集まりである「カナリヤの会」は、1995 年6月設
立され、脱会者が「法友」であった者らに説得活動を多く続けてきた。親の集まりであ
る「オウム真理教家族の会(旧被害者の会)」は、1989 年 10 月から活動していたが、
子どもらへの話し方、接触の仕方を工夫して、聞く耳を持つよう努力し続けてきている。
これらの活動や、接した社会の一般人の努力により、脱会者が引き続き出ている。
7 1996 年、教祖の三女「アーチャリー正大師」が、「生まれながらの最終解脱者」グル
とされている男児2人の権威を背景に、3回にわたり「観念崩壊セミナー」を開催した。
長時間の蓮華座、立位礼拝、睡眠不足などにより、負傷する者が何人も出た。宗教上の
手ひどい悪罵もあり、数十人が脱会してきた。
8 1997 年頃以降は、出家信者でああっても、外部で仕事をして布施することを求めら
れることが多くなり、これにより外部社会と接触して真に慈悲ある人がいることを知り、
聞く耳ができたことから、事件を確認して脱会する者も多く出た。
また、幹部らも次々と脱会する過程にあって、若い男女が近くにいる以上、恋愛感情をもつ男女も多くなった。恋愛をすることにより現実感覚を取り戻していくのであって、

在家に戻り、後に脱会していくというカップルが多くなっていった。

9更に、重大事件の実行犯らの中からは、井上嘉浩を初めとして、次々と脱会のための

活動をする者が出てきて、自らは死刑判決を受けながらも手紙や面会を通じて、脱会の

ための説得活動を続けてきた。ために教団側が面会を禁止してきた実行犯もいる。死刑

が確定してしまうと、もうそんな活動もできず、障害になっている。

102000年頃以降は、上記「カナリヤの会」外のホームページや、様々な情報がネット

上で共有され、掲示板やメールそして面談で、脱会者側と現役信者との引っ張り合いの

様相も呈し、その中で脱会してきた人も多い。

112003年頃以降になると、上記の上祐派と妻知子ら派との紛争に嫌気がさしたがおも

な原因で教団から離れるものが続いた。分裂の後も、アレフであれば責任は持たないが

裏で妻知子らに支配されている状況に嫌気がさし、「ひかりの輪」ではあれば近づけば

魅力がない上祐に嫌気がさし、離れてくる者もある。

これらの場合、麻原彰晃への「帰依」自体は失わないで出てくることが多く、形式上

は脱会者であっても、実質上は「一人オウム」なのである。その何人かが集まれば簡単

に分派になっていくのであり、「脱会者」かどうか、判然としがたい状況となってきて

いる。また近時、心身の病気が重くなって、つまりは教団から放逐される者も多くなっ

てきている。

12一方、近時、入信していくものとしては、ダミーのヨーガサークルや、信者が作った

占いのホームページを窓口にして入ったり、教団の各ホームページに幻惑され、あわせ

て前記の映画「A」を見て「もういい人だけなんだ」と安心感と親和性を抱いて入って

いく若者が見受けられる。1995年当時は幼児ないし小学生であったことなどから、事

件もその恐ろしさの本質も知っていない状況である。

旧くからの信者にあっては、「最後に残った100人が真理の教えを維持し教団を復

活させる」旨の過去の麻原説法の影響が、使命感の源となっている。また、①すべて

の輪廻転生を知るという教祖の教えを放棄することが無間地獄につながるという恐ろ

しさ、②薬物まで使われて得られた神秘体験により「真理」を実感として確信してい

ること、③自己のしてきた数十年を否定するという辛さ(すべてを否定すること必要

などまったくないのだが)、④現実社会に戻ることの恐怖感・挫折感といったもの、

⑤現実に戻るところがない、方法を知らないといったことが、脱会を止めていると思

われる。

以上のことから、第3の1に記載の通り、信者数は激減したが、教団は残存している。

132010年後半からは、次のことが注目される。①後記紹介の野田成人や四女の書籍

がアレフにどのように影響するか。②メッタジー正悟師こと某男性幹部が2010年夏

に出所するが、自分こそ妻知子や三女の信頼を得て支配する立場だとして動こうから、

一定の混乱がアレフ内にあろうこと。③教祖の長男・次男が成人に近づいてきたこと

から、独自の動きをするかどうか。この子らは上級学校に行けてはいるが、時に家出を

するなど不安定であるが、もはや加害者である「自らを信仰する信者」がいるので、これを支配することの喜びを覚えてしまうと心配である。④ひかりの輪にあっては、資

金難の影響はどう出るか。

14最後に、信者弁護士が1人いることの重要性を指摘する。教祖の弁護人になろうと早

くのうちから出家者の中に司法試験受験グループが作られた。これは、出家者中唯一の

弁護士である青山吉伸も筆者へのサリン殺人未遂罪等で身柄拘束されてしまった(後に

実刑)からである。結局代表格の吉岡毅一人が合格して2005年10月から弁護士(埼玉

弁護士会所属)になっている。そして、高裁段階で教祖弁護人として追加され、教祖に

一人で面会してもいる。現段階でも教祖に面会でき得るので、メッセージの媒介ないし

メッセージ名目での発言が心配される。

第7参考文献

参考とすべき元メンバーの声が出ている本として、元被告人の林郁夫著「オウムと私」

(1998年、後に文春文庫)、早川紀代秀外著「私にとってオウムとは何だったのか」(2005

年、ポプラ社)がある。また滝本太郎・永岡辰哉編著「マインド・コントロールから逃れ

て」(1995年、恒友出版)、高橋英利著「オウムからの帰還」(1996年、草思社)「オウム

をやめた私たち」(2000年、カナリヤの会編)、村上春樹編「約束された場所で」(1998

年、後に文春文庫)が参考になる。

最近の教団の状況や心理状況を知るものとしては、野田成人著「革命か戦争か」(2010

年、サイゾー)、松本聡香著「私はなぜ麻原彰晃の娘に生まれてしまったのか」(2010年、

徳間書店)がある。青木由美子著「オウムを生きて―元信者たちの地下鉄サリン事件から

15年」(2010年、サイゾー)や宗形真紀子著「二十歳からの二十年間」(2010年、三五館)

には、ひかり輪に属する信者の建前と本音が垣間見える。

外部の方の書籍は数百冊にのぼろう。うち高山文彦著「麻原彰晃の誕生」(2006年、後

に文春文庫)、島田裕巳著「オウム-なぜ宗教はテロリズムを生んだのか」(2001年、トラ

ンスビュー)が推薦できる。裁判記録・傍聴記は多く連続本だが、極めて貴重である。毎

日新聞社会部著(現代書館)、降幡賢一著(朝日文庫)が記録性に優れ、江川紹子著(文

芸春秋)、佐木隆三著(小学館)、青沼洋一郎著(小学館)は分析もしている。

カナリヤの会発行の「カナリヤの詩」は1965年6月から今日まで月刊発行されており

筆者のもとにある。ホームページでは、下記が推薦できる。

事件関係では無限回廊

http://www.alpha-net.ne.jp/users2/knight9/aum.htm

元信者の声や麻原判決を収録しているカナリヤの詩

http://www.cnet-sc.ne.jp/canarium/

元信者や現役サイトを紹介しているリンク集

http://www015.upp.so-net.ne.jp/sinzinrui/

以上

jscpr.org/wp-content/uploads/2018/01/オウム裁判と15年間の変化-2010.6.9.pdf