長野県松本市の住宅街で猛毒の神経ガスが一般人に向けられ、8人が死亡した松本サリン事件は27日、30年を迎える。県警はサリンの原料となる薬品から背後に見え隠れするオウム真理教の影を捉えた。当時捜査1課刑事だった上原敬さん(69)は水面下の捜査を指揮し、オウム真理教幹部の取り調べも担当。「皆若く、純粋な 奴 (やつ)が多かった。真面目な若者たちがなぜ……」との思いは今も消えない。(塔野岡剛)
「松本で食中毒のような事案があった」。1994年6月27日午後11時頃、県警本部からの一報で松本市北深志の現場に向かうと、目の前には石垣にへたり込む人や路上で口元にハンカチを当てる人たち――。パトカーや救急車のサイレンで周辺は騒然としていた。
県衛生公害研究所の水質部門の研究員だった小沢秀明さん(66)も原因物質特定のため、事件翌日に第一通報者の河野義行さん(74)宅の池の水を採取し、分析を進めた。被害者が一様に農薬中毒などに見られる 縮瞳 (しゅくどう)を起こしており、「ガス化するような農薬など存在しないのに」と首をかしげていた。後に「ガスクロマトグラフ質量分析計」という装置で「サリン」と分かり、文献との照合や、さらなる分析でも矛盾がなかった。
事件から約1週間後の7月3日、県警は「原因物質はサリンと推定される」と発表した。大学時代に農芸化学を学んだ上原さんが理系の警察官で構成する捜査班を指揮することになった。サリンにたどり着く物質や薬品の化学式をつなぎチャート図にまとめ、東京大学の農芸化学の権威だった教授の助言も受けた。
薬品販売最大手の会社からデータを取り寄せると、大半の購入履歴は研究や実験を目的とするなど不自然な点はない。7月下旬には「メチルホスホン酸ジメチル」というサリンの生成過程にある薬品を大量購入している東京都内の男が浮上。男の住所はオウムの「世田谷道場」。このほか正体不明の4社があった。登記簿上の設立目的は「化学工業薬品の販売」など。業務実態がなく、一度に大量購入した薬品は現金で全額支払い、その後の取引が途絶える点も共通していた。
調べるとオウム関係者が薬品を手に入れるためのペーパーカンパニーと判明。サリン生成の出発物質となる「三塩化リン」の購入量は計180トンに及んでいた。県警内で秘密保持は徹底され、オウムのことは世田谷道場の最寄りの駅名から「山下」という隠語で話した。捜査を進めるとオウムと事件のつながりは確信に近づいた。4社の登記簿を分析すると、2社の代表取締役と、別の1社の営業担当に同じ男の名前。そんな工作も捜査を難航させた。薬品の購入自体は違法ではなく、拙速な強制捜査で証拠隠滅の恐れもあった。
翌95年3月20日、このうち1社の山梨県内の倉庫で県警捜査員が張り込み中、地下鉄サリン事件が起きた。「やられた」。オウムの関与を直感し胸が締め付けられた。6月には警視庁との合同捜査本部が発足し、7月16日に松本サリン事件の容疑者逮捕に至った。
サリンプラントの設計に関わった幹部の男は、オウムの「ワーク」として国立国会図書館で化学を独学したと語った。「プラントができたらサリンを70トン作ることになっていた」との供述には背筋が凍る思いがした。事件から30年。当時作り上げた捜査資料をひもときながら、上原さんは嘆く。「能力を違う方向に使えば良かったんだ。あの若者たちがなぜ事件を起こしたのか、今でも分からない」