離婚後共同親権派の牧野 佐千子氏のAERA記事読むと夫はニジェールのトゥアレグ族とありましたのでトゥアレグ族のWikipedia関連記事PDF魚拓


◎牧野佐千子(まきの・さちこ)

ジャーナリスト。早稲田大学第一文学部東洋哲学専修卒。読売新聞記者、JICA青年海外協力隊(アフリカ・ニジェール)、素粒子物理学の研究機関の広報など、異なるフィールドを渡り歩いた末、フリーランスに。夫はニジェールのトゥアレグ族。2児の母。

https://dot.asahi.com/articles/-/84252?page=4


トゥアレグ (Tuareg) またはトゥアレグ族は、ベルベル人系の遊牧民アフリカ大陸サハラ砂漠西部(アザワド)が活動の範囲である。自身では「ケル・タマシェク(Kel Tamasheq)」(タマシェク語を話す人々)と呼ぶ。

歴史

伝説に基づき描かれたティン・ヒナンと、彼女に付き従う戦士たち

伝承によれば、4世紀ごろ、サハラ北部のモロッコあたりに居住していたティン・ヒナン英語版)というベルベル人の王族の女性がおり、彼女はサハラ砂漠西部に居を移した。その彼女に付き従った召使いの中に、タカマットという女性がおり、このティン・ヒナンの1人の娘と、タカマットの2人の娘たちが、トゥアレグの祖となったという。ホガール山地に、ティン・ヒナンのものと伝わる墓がある。

中世にはサハラ交易を支えた。しばしば隊商を襲撃したことから好戦的民族として恐れられた。フランスによる北アフリカ地域の植民地化に頑強に抵抗し、第一次世界大戦では同盟側に呼応して1915年から1917年にかけてニジェールを中心に武装闘争を起こす(en:Kaocen Revolt)が、徹底的に弾圧された[1]

アフリカの年などにより北アフリカの旧植民地が分割独立した結果トゥアレグは4か国に分断されてしまい、境遇を同じくする土着アラブ人のモールと呼応する形でアドラールを中心に第1次トゥアレグ抵抗運動英語版) (1962年-1964年)が発生した[1]。弾圧を逃れた多くのトゥアレグが難民と化してリビアに流入した。

1984年サヘル地域に過去最悪と言われる干魃が発生し国際社会が援助活動を行ったが、ニジェールとマリの中央政府が支援物資の横流しを行った事が問題となった[1]。また、1988年にリビアとチャドの和平が成立した事で、第1次トゥアレグ抵抗運動以来リビアに逃れていたトゥアレグ難民がニジェールやマリに帰還した[1]1990年トゥアレグ抵抗運動 (1990年-1995年)英語版)が発生した。特に1992年頃から、ニジェール北部を中心に反政府武装闘争の活動が活発化、外国人観光客を襲撃するなどの武装闘争を展開した。ただし、大規模な拡大には至らず政府と和平協定を締結。2002年には武装解除されたと伝えられた。

マリのトゥアレグ抵抗運動は北部独立運動へと発展しつつあり、それに呼応して長期化したトラオレ軍事政権に反発するデモが頻発した[1]アルファ・ウマル・コナレら軍内部の勢力がトゥアレグに呼応する形で1991年クーデタを起こし、トラオレ政権は崩壊した。その後1992年に北部平和のための国民的条約が締結され、マリの分裂は回避された。しかし、終戦後も軍部による反乱トゥアレグへの弾圧は続き、約16万人のトゥアレグ・モール住人が国外へ逃れた[1]

2007年、再び武装闘争を再開し(トゥアレグ抵抗運動 (2007年-2009年)英語版))、活動範囲はニジェールだけでは無く、マリ共和国、チャド、モーリタニアにまで及んでいる。

マリ北部紛争

詳細は「マリ北部紛争 (2012年)」、「トゥアレグ反乱」、「マグリブ反乱英語版)」、および「セルヴァル作戦」を参照

2011年リビア内戦に参加し軍事力を蓄え、2012年1月に開始した独立紛争はマリ軍事クーデターを引き起こした。4月6日にマリにおける北部支配地域アザワド独立を宣言

分布

トゥアレグ族の分布域

現在では、トゥアレグ族は主にアルジェリアマリ、ニジェール、リビアなどのサヘル地域に分断されて分布しており、その数は100万から350万人の間といわれる。

言語

使用する言語はトゥアレグ語[2]である。タマシェク語は独自の表音文字ティフィナグ文字)を持っている。

文化と風習

トゥアレグ族の衣装

フランスニースで開かれたジャズ祭にて、歌を披露するティナリウェン

伝統の青い衣装を身に着けたトゥアレグの男たち

青いターバンと民族衣装を着用することから青衣の民として知られる。一般にイスラーム世界では女性が全身や顔を衣装で隠す習慣があるが、トゥアレグでは逆に男性が全身そして顔を衣装で覆い、女性は皮膚を露出していることもある。また女系社会でもある。

アメノカルと呼ばれる首長を頂点とする複雑な階層社会を取る[1]。上級階級の混血が進まないようにするための措置とされる。ニジェールでは他の周辺民族の身分制度も含めて差別を禁止する法律が施行されている(実効性は不明)。

キャラバン

タウデニと呼ばれる塩鉱から半年ごとにアザライ英語版)と呼ばれるキャラバンを行う[3]

脚注^ a b c d e f g 嶋田義仁 和田正平(編)「砂漠化と民族紛争の背後にあるもの」『現代アフリカの民族関係』 明石書店 2001年、ISBN 475031420X pp.27-40.
^ トンブクトゥ周辺の方言はタマシェク語と呼ばれ、特に区別されている。
^ 南里章二、「アザライ (塩の隊商) 現代におけるその活動の実態」 『アフリカ研究』 1992年 1992巻 41号 p.75-83, doi:10.11619/africa1964.1992.41_75, 日本アフリカ学会


関連書籍イブン・バットゥータ大旅行記』全8巻 イブン・ジュザイイ編、家島彦一訳、平凡社平凡社東洋文庫〉、1996-2002年。 - 14世紀のトゥアレグ族についての記述がある。


関連項目



ウィキメディア・コモンズには、トゥアレグに関連するカテゴリがあります。イブラヒーム・アル・コーニー - トゥアレグ出身の作家
フォルクスワーゲン・トゥアレグ - フォルクスワーゲンの自動車。トゥアレグ族が名前の由来となっている中型のSUVである。
クリミナル・マインド 国際捜査班 - シーズン1第7話においてトゥアレグ出身の誘拐犯が登場する。
ハーモニー (小説) - 物語の冒頭でトゥアレグ族が登場する。
風の城砦 - 物語中のメインキャラクターとしてトゥアレグ族が登場する。
ティナリウェン - メンバーがトゥアレグ族のバンド。第54回グラミー賞(2012年)ベストワールドミュージックアルバム賞受賞。
トゥーマスト - ニジェール出身、トゥアレグ族のバンド。
機動戦士ガンダムZZ - 劇中にトアレグ族で構成された「青の部隊」が登場する。


外部リンクArt of Being Tuareg: Sahara Nomads in a Modern World - National Museum of African Art
反政府闘争を活発化させるサハラの「トゥアレグ」人、その歴史的経緯 - AFPBB News
ジャネット。オアシスの暮らしと結婚式 ÷サハラエリキ÷
塩キャラバンにまたがって/ ニジェール ÷サハラエリキ÷


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最終更新 2024年8月3日 (土) 06:38 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。

トゥアレグ出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


4月5日 AFP】ニジェールとマリで反政府武装闘争を展開しているトゥアレグ(Tuareg)人。一躍世界に注目されるようになったトゥアレグ人は、ベルベル人を祖先に持つサハラの遊牧民だ。かつては「砂漠の支配者」と呼ばれるほどに権勢を誇っていたが、度重なる干ばつにより、今は貧困にあえいでいる。

 専門家は、トゥアレグ人の人口を100-150万人、ニジェール、マリ、アルジェリア、リビア、ブルキナファソンにまたがる200万ヘクタールの土地に居住していると見る。その多くが、ニジェール(推定70万人)とマリ(推定30万人)に住む。

 彼らは、自分たちのことをアラブ語源の「トゥアレグ」ではなく「ケル・タマシェク(Kel Tamasheq)」と呼ぶ。タマシェク語を話す人々という意味だ。そして、アフリカで独自のアルファベットを持っているのは、エチオピア以外ではトゥアレグ人だけだ。身体は、インディゴで染めた真っ青な布で覆う。「青い民」と呼ばれるゆえんだ。

■活動を活発化させる武装組織

 彼らの一部は反政府勢力を結成した。2007年2月に「正義のためのニジェール運動(Movement of Nigeriens for JusticeMNJ)」は誕生し、政府軍への攻撃を繰り返している。 

 隣国のマリでは、前年5月にトゥアレグ人反政府勢力がアルジェリア・ニジェール国境付近でマリ政府軍を攻撃し、10人が死亡。北部での反政府武装闘争に火をつけた。

 今年3月には、マリのトゥアレグ人反政府勢力が兵士20人を拉致し、全員の身柄は現在MNJの管理下にあるとの報道があった。MNJ側は報道を否定している。

■武装組織誕生の経緯

 20世紀の初め、トゥアレグ人は遊牧をし、らくだのキャラバンで交易をしていた。反植民地闘争の先頭にも立ち、植民地主義のもとでの教育を拒んだ。だがそうしたことが、西アフリカ諸国がフランスから独立した際に雇用機会などが得られないという不利な状況を生み、立場は弱まっていった。

 追い打ちをかけたのが、1973-4年と1984-5年の飢饉(ききん)だ。家畜は死に絶え、若者たちはアルジェリアやリビアの大都市に移住。リビアの最高指導者ムアマル・カダフィ(Moamer Kadhafi)大佐は、彼らの多くをイスラム軍(Islamic Legion)に入隊させて軍事訓練を施した。

 その約10年後、リビアは原油価格の下落で経済が破たんし、トゥアレグ人たちは故郷への帰還を余儀なくされた。やがて、武力で自治を勝ち取るための武装組織が次々と生まれ、刀剣や古いライフル銃はカラシニコフ銃に、らくだは四輪駆動車へと交換されていった。

 そしてニジェールでは1990年5月に、マリでは同年翌月に、武装闘争が開始された。和平合意でトゥアレグの自治権は拡大されたが、5年間にも及ぶこれら2つの闘争で、死者は数百人、避難民は数千人にものぼったとされる。

 当時、トゥアレグ側の武装解除が約束され、戦闘員の多くは政府軍などに組み込まれたが、近年では軍を脱退して武装闘争や強盗を組織する者が増加傾向にある。

 ニジェールでは、トゥアレグ人が、フランス主導のウラン発掘事業における利益の分け前を増やすよう要求しているが、政府は聞き耳を持っていない。(c)AFP

反政府闘争を活発化させるサハラの「トゥアレグ」人、その歴史的経緯

2008年4月5日 16:52 発信地:バマコ/マリ [ アフリカ マリ ]

https://www.jstage.jst.go.jp/article/africa1964/1992/41/1992_41_75/_pdf/-char/en




2012年マリ軍事クーデター(マリぐんじクーデター)は、2012年3月21日、マリ共和国の首都バマコにて発生した軍によるクーデターである。

背景

マリ共和国では1960年の独立以降、遊牧民トゥアレグ族による反政府闘争が続いてきた[1]。トゥアレグ族は2011年リビア内戦に参加したことにより戦闘経験を積んだほか、高性能の武器をマリに持ち帰ることにより軍事力を強化した[2]。反政府組織・アザワド解放民族運動 (MNLA)のもと組織化されたトゥアレグ族は2012年1月中旬より新たに独立を求め蜂起し、政府軍との紛争(トゥアレグ反乱 (2012年))が勃発したが、軍内部からは武器や資材が不足しているといった不満が生じ、また多くの政府軍兵士が死亡もしくはトゥアレグ族勢力に拘束されていると思われたことから、政府の対応に不満が溜まっていった[1]

推移

アマドゥ・トゥマニ・トゥーレ(2011年)

2012年、新たに国防大臣に就任したサディオ・ガサマが不満を募らせている兵士のために3月21日、バマコ郊外のクリコロ州カチの軍事キャンプを訪れた。その場で弾薬など武器の充実などを求められたがガサマは色よい返事をせず、このため兵士たちは空砲を撃つなど抗議を開始。バマコに向けて進撃を始め、午後4時半には国営放送局を占拠。大統領府も攻撃し、警備隊との間で銃撃戦が勃発した[1][3]。スメイル・ブベイエ・マイガ外務大臣や内務大臣など複数人の閣僚が拘束され、アマドゥ・トゥマニ・トゥーレ大統領は銃撃戦開始後に大統領府を脱出したとされる一方で、大統領府にとどまっているとも報じられるなど[1][3]消息は不明であったが、3月23日にアフリカ連合ジャン・ピン委員会委員長はトゥーレは無事であると述べた[4]。一連の騒乱で38人が怪我をし病院へと運ばれた[5]

3月22日早朝、反政府勢力は自らを民主主義制定のための全国委員会英語版) (CNRDR)と名乗り[1]、国営テレビを通じて権力掌握と憲法の停止、また国家機関の解体を宣言[6]。クーデターを起こした理由として、トゥーレ政権が「無能な政府」であり、これを終わらせることで責任を取ると決定したこと[7]、また武器が不足していることを挙げた。また国内が再び統一され、領土が保全され次第、民政に移管することも表明した。マリ国内には外出禁止令が出され、バマコでは反乱兵士による暴行やガソリンなどの略奪行為が相次いだ[4][8]。 国営放送では、クーデターを指導するアマドゥ・サノゴ英語版)大尉がトゥーレ大統領に代わって権力を掌握したと宣言した[9]

この混乱に乗じてMNLAはさらに北部攻勢を進め、4月6日に北部をアザワド(右上地図中の赤枠領域)とするアザワド独立宣言を発表[10]。対応を迫られた反乱軍は同日、制裁を課してきた西アフリカ諸国経済共同体(ECOWAS)と制裁解除を条件に、実権をディオンクンダ・トラオレ英語版)国会議長に移譲することで合意[11][12]。政権の座を追われていたトゥーレは4月8日に正式に大統領の辞任を表明し[13]、トラオレは4月12日に暫定大統領に就任。マリ共和国はクーデター発生22日後に民政に復帰した[14]

国外の反応国際連合 - 潘基文事務総長はクーデターを非難し、司法の回復を求めた[15]
アフリカ連合 - 反乱軍を非難する立場[8]。3月23日にはマリ共和国の加盟資格を停止した[4]
西アフリカ諸国経済共同体 - 反乱軍を非難する立場[8]
アメリカ合衆国 - ジェイ・カーニー英語版ホワイトハウス報道官は、反乱軍による政権転覆を強く非難。トゥーレ政権支持を表明し、憲法による統治に戻るよう求めた[16]
中国 - 洪磊外務省報道官は事態を注視すると共に、早期の収拾を希望すると表明[15]
南アフリカ共和国 - 反乱軍を非難する立場[8]


出典^ a b c d e “マリでクーデター、反乱軍が大統領府制圧 憲法停止表明”. AFPBB News (フランス通信社). (2012年3月22日) 2012年3月22日閲覧。
^ “反政府勢力45人殺害 マリ、元カダフィ派か”. 産経新聞. (2012年1月20日) 2012年3月22日閲覧。
^ a b “軍部隊が反乱、大統領府攻撃 マリ、クーデターか”. 産経新聞. (2012年3月22日) 2012年3月22日閲覧。
^ a b c “マリの加盟資格を停止 アフリカ連合、大統領無事”. 産経新聞. (2012年3月24日) 2012年3月24日閲覧。
^ “マリで軍部隊がクーデター 大統領の消息は不明”. CNN.co.jp (CNN). (2012年3月23日) 2012年3月24日閲覧。
^ “反乱軍が権力奪取を表明=マリでクーデター”. 時事通信. (2012年3月22日) 2012年3月23日閲覧。
^ “マリ軍兵士がクーデター、大統領府攻撃後に「権力掌握」”. ロイター (ロイター). (2012年3月22日) 2012年3月23日閲覧。
^ a b c d “マリの首都バマコで暴行や略奪”. ロシアの声. (2012年3月23日) 2012年3月24日閲覧。
^ “Soldiers Declare Coup in Mali” (英語). ニューヨーク・タイムズ. (2012年3月22日) 2012年3月22日閲覧。
^ “マリ北部の「独立」宣言 遊牧民の反政府武装勢力”. 産経新聞. (2012年4月6日). オリジナルの2012年4月6日時点におけるアーカイブ。 2012年4月7日閲覧。
^ “マリ:クーデターの国軍反乱部隊 民政移管で合意”. 毎日新聞. (2012年4月7日) 2012年4月7日閲覧。[リンク切れ]
^ “クーデターのマリ軍、文民政府へ実権返還 北部の独立宣言で”. CNN.co.jp (CNN). (2012年4月7日) 2012年4月7日閲覧。[リンク切れ]
^ “マリ大統領が辞任表明、クーデターの軍政から民政移管へ”. ロイター (ロイター). (2012年4月9日) 2012年4月9日閲覧。
^ “マリで暫定大統領が就任 民政復帰へ”. CNN.co.jp (CNN). (2012年4月13日). オリジナルの2012年5月27日時点におけるアーカイブ。 2012年4月13日閲覧。
^ a b “マリのクーデター反乱軍が国境封鎖、国際社会が非難”. CRI Online (中国国際放送). (2012年3月23日) 2012年3月24日閲覧。
^ “反乱軍を「強く非難」 米大統領報道官”. U.S. FrontLine. (2012年3月22日) 2012年3月24日閲覧。

マリ軍事クーデター (2012年)出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


西アフリカ・マリの国防当局は19日、アルジェリアとの国境に近いマリ北部で18~19日、遊牧民トゥアレグ民族の反政府勢力とマリ軍との戦闘があり、反政府勢力の45人を殺害し、マリ軍兵士2人が死亡したとの声明を出した。

 トゥアレグ民族はリビア内戦で、リビアの最高指導者だったカダフィ大佐を支持。反政府勢力には、内戦時にカダフィ大佐側で戦った後、マリに戻った戦闘員が含まれているとの報道もある。

 一方、反政府勢力はマリ軍側に大きな被害があったとしている。(共同)

関連ニュース外国人1人殺害、3人誘拐 マリの世界遺産の町 レストランから連行
5000人がカダフィ大佐追悼 西アフリカ・マリで礼拝

反政府勢力45人殺害 マリ、元カダフィ派か

2012.1.20 23:00


アザワド解放国民運動(アザワドかいほうみんぞくうんどう)または アザワド民族解放運動[1](タマシェク語: ⵜⴰⵏⴾⵔⴰ ⵏ ⵜⵓⵎⴰⵙⵜ ⴹ ⴰⵙⵍⴰⵍ⵵ ⵏ ⴰⵣⴰⵓⴰⴷ, ローマ字: Tankra n Tumast ḍ Aslalu n Azawad;[2] アラビア語: الحركة الوطنية لتحرير أزواد, ローマ字: al-Ḥarakat al-Waṭaniyat Litaḥrīr ʾĀĀzawād;フランス語: Mouvement national de libération de l'Azawad, MNLA)、以前は アザワド国民運動[3] (フランス語: Mouvement national de l'Azawad, MNA)は、マリ北部のアザワドに拠点を置く政治軍事組織である。

組織は主にトゥアレグ民族で構成されており、リビア内戦で戦った経験がある[4]

脚注^ Pflanz, Mike (1 April 2012), “Mali rebels seize Timbuktu”, The Telegraph (London), オリジナルの17 June 2018時点におけるアーカイブ。 4 April 2018閲覧。 Tuareg rebellion sparks crisis in Mali, Al Jazeera English, (18 February 2012), オリジナルの5 April 2012時点におけるアーカイブ。 2 April 2012閲覧。
^Mouvement National de Liberation de l'Azawad” (フランス語). Mnlamov. 14 April 2013時点のオリジナルよりアーカイブ。9 April 2012閲覧。
^ Morgan, Andy (6 February 2012). “The Causes of the Uprising in Northern Mali”. Think Africa Press. オリジナルの9 February 2012時点におけるアーカイブ。 10 February 2012閲覧。
^ Vogl, Martin (31 January 2012). “Tuareg rebels attack 6th town in Mali”. Google News. Associated Press 4 February 2012閲覧。


外部リンク公式ウェブサイト (フランス語)

アザワド解放民族運動出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


トゥアレグ反乱 (2012年)から転送)

アザワド独立宣言



アザワドの国旗としてMNLAが定めた旗

作成日2012年4月6日所在地ガオ[1]作成者アザワド解放民族運動目的アザワドの独立

アザワド独立宣言(アザワドどくりつせんげん)は、2012年4月6日、マリ共和国北部を実効支配する反政府勢力アザワド解放民族運動(Azawad National Liberation Movement、MNLA)が一方的に行った独立宣言である。アザワド(Azawad)の成立を宣言したが、これは国際的な承認を得られていない。

背景

1960年にマリが独立して以降、遊牧民トゥアレグ族は反政府闘争を続けてきた。また、トゥアレグ族はマリのほかニジェールにもいるが、彼らの中にはリビアでカダフィの傭兵として働いていた者が多数いた。こうした者たちが2011年リビア内戦によるカダフィ政権の崩壊によって、高性能の武器とともにマリに流入・帰還した結果、軍事力はさらに強化された。やがてトゥアレグ族は「アザワド解放民族運動」(MNLA)を組織し、2012年1月中旬より新たに独立を求め蜂起。武器や資材が不足する政府軍を相手に戦いを有利に進め、3月22日には政府軍の一部がクーデターを起こすに至った[2]

独立宣言

灰色部分がMNLAの主張するアザワドの範囲

4月6日午前、MNLAはウェブサイト上で北部の独立を宣言[3]。1960年のマリ共和国独立にアザワドの意向は反映されていないとし、独立以降幾度となく弾圧されてきたと主張。国際連合憲章第1条と第55条(人民の同権及び自決の原則の尊重)を根拠に、4月6日付のアザワド解放を宣言した[4]。同時に、近隣諸国との国境を尊重し侵略しないこと、また国際連合憲章を遵守することなども付け加えた[5]

独立宣言の反響

国内

MNLAの独立宣言を受け、軍事クーデターを起こした反乱軍は対応を迫られる。4月6日、反乱軍と西アフリカ諸国経済共同体(ECOWAS)はマリ共和国に対する外交・経済制裁の解除を条件に実権をディオンクンダ・トラオレ英語版)国会議長に移譲することで合意[6][7]し、4月12日に暫定大統領に就任した[8]

国外アフリカ連合 - 独立宣言を認めない立場[7][9]
フランス - ジェラール・ロンゲ国防大臣は、MNLAによる独立国家は認めないとコメント[10]。フランス政府は、アフリカ諸国の独立承認がなければ独立宣言は無効との立場[7]2013年1月11日よりマリ国内で空軍と陸軍による軍事作戦を開始(セルヴァル作戦)。
日本 - 外務省は独立宣言を非難するとの談話を発表[11]
アメリカ合衆国 - 独立宣言を認めない立場[12]


出典^ “マリ北部で反政府武装勢力が独立宣言、仏国防相は「承認せず」”. ロイター (ロイター). (2012年4月6日) 2012年4月7日閲覧。
^ “マリでクーデター、反乱軍が大統領府制圧 憲法停止表明”. AFPBB News (フランス通信社). (2012年3月22日) 2012年4月7日閲覧。
^ “マリ北部の「独立」宣言 遊牧民の反政府武装勢力”. 産経新聞. (2012年4月6日). オリジナルの2012年4月6日時点におけるアーカイブ。 2012年4月7日閲覧。
^DÉCLARATION D’INDÉPENDANCE DE L'AZAWAD” (フランス語). MNLA. 2012年4月7日閲覧。
^ “マリ北部の独立を宣言 反政府勢力、ホームページで”. 朝日新聞. (2012年4月7日) 2012年4月7日閲覧。
^ “マリ:クーデターの国軍反乱部隊 民政移管で合意”. 毎日新聞. (2012年4月7日) 2012年4月7日閲覧。[リンク切れ]
^ a b c “クーデターのマリ軍、文民政府へ実権返還 北部の独立宣言で”. CNN.co.jp (CNN). (2012年4月7日) 2012年4月7日閲覧。[リンク切れ]
^ “マリで暫定大統領が就任 民政復帰へ”. CNN.co.jp (CNN). (2012年4月13日). オリジナルの2012年5月27日時点におけるアーカイブ。 2012年4月13日閲覧。
^ “マリ反政府勢力 北部独立を宣言”. NHK. (2012年4月7日) 2012年4月7日閲覧。[リンク切れ]
^ “西アフリカのマリ、反政府勢力MNLAが北部独立を宣言”. AFPBB News (フランス通信社). (2012年4月6日) 2012年4月6日閲覧。
^マリ情勢について”. 日本国外務省. 2012年4月14日閲覧。
^ “AU, US reject Mali rebels' independence declaration” (英語). ロイター通信. (2012年4月6日) 2012年4月14日閲覧。


関連項目マリ軍事クーデター (2012年)


外部リンクMNLAによる独立宣言全文 (フランス語)

アザワド独立宣言出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

トゥアレグ反乱 (2012年)から転送)


マリ・バマコ(CNN) 3月にクーデターが起きた西アフリカのマリで12日、ディオンクンダ・トラオレ前国会議長(70)が暫定大統領に就任した。



クーデターに反対する国際社会の圧力のもと、軍部は西アフリカ諸国経済共同体(ECOWAS)との間で6日、経済・外交制裁の解除と引き換えに民政移管に合意。クーデターで政権を追われたトゥーレ大統領も8日、正式に辞任した。



就任演説でトラオレ暫定大統領は、自らの使命は国を統一することだと述べるとともに、「国の分割についての話し合いはしない」と決意を述べた。



同国ではトゥアレグ族の反政府勢力「アザワド解放国民運動(MNLA)」がクーデター後の混乱に乗じて、同国北部の広範なサハラ地域を制圧し、独立を宣言している。



トラオレ暫定大統領は反政府勢力に対して交渉のテーブルに戻るように主張。「残虐行為や略奪、強姦をやめるよう求める。現在、占領している都市から平和的に撤退して欲しい」と述べた。



その一方で、交渉が失敗した場合には国軍は領土を取り戻すために「全面的かつ容赦ない戦争」を仕掛けるとも警告した。また、反政府勢力を支援しているアルカイダ系イスラム武装勢力も国内から追い出すとした。



国連機関によれば、北部の情勢は不安定で緊張が高まっており、援助関係者も難民たちのいる場所に近づけない状態だという。

マリで暫定大統領が就任 民政復帰へ

2012.04.13 Fri posted at: 12:26 JST


西アフリカのマリでクーデターを起こした軍兵士による「民主復興と国家再建全国委員会」が22日に声明を発表し、国境と領空を封鎖することを宣言しました。これを受けて、当日国際社会は相次いでマリのクーデターを非難しています。

 「民主復興と国家再建全国委員会」は声明で、日常の業務を維持するよう、閣僚補佐官に求めると同時に、政府はこの27日に活動を再開し、当日欠席の官僚は自ら職務を放棄したと見なすことを明言しました。

 バマコ空港の発表によりますと、空港は当日の朝閉鎖され、すべての便もキャンセルとなりましたが、再開の日程については明らかにされませんでした。

 国連のパン・ギムン事務総長は22日に声明を発表し、クーデターを非難し、司法システムを回復させるよう呼びかけました。

 中国外務省の洪磊報道官は22日に「中国は、マリでの軍事クーデターに注目しており、事態の早期収束を期待している」と語りました。(ミン・イヒョウ、吉野)国際・交流へ

マリのクーデター反乱軍が国境封鎖、国際社会が非難

2012-03-23 12:43:57


アフリカ連合(AU)は23日、反乱軍のクーデターが起きた西アフリカ・マリの加盟資格を停止したことを明らかにした。AUのピン委員長は、マリのトゥーレ大統領が支持者に守られており無事との情報を得ていると、エチオピアで記者団に語った。ロイター通信などが伝えた。

 ピン氏によると、情報をもたらしたのはトゥーレ氏の支持者側で、トゥーレ氏は首都バマコ近くにいるという。AUはマリに憲法による秩序が回復されるまで、加盟資格を停止するとしている。

 一方、反乱軍の指導者であるサノゴ大尉は英BBC放送に対し、権力を保持し続ける意図はないと表明。同大尉は、北部で遊牧民トゥアレグ人の反政府武装勢力と戦うマリ軍の装備不足などの問題が解消されれば、選挙を行うと約束した。バマコでは、軍兵士によるガソリンなどの略奪が横行しているという。(共同)

マリの加盟資格を停止 アフリカ連合、大統領無事

2012.3.24 11:19