干支とイスラエル十二支族の関係と十二支ん考察.ハンターハンターのクラピカちゃんはシメオン族でレオリオさんはユダ族のユダヤ人同士だからレオクラ成り立つ説。ユダが裏切り者でない理由とシメオン族とレピ族によるシュケムでの虐殺での第三の道について

干支とイスラエル十二支族の関係と十二支ん考察.ハンターハンターのクラピカちゃんはシメオン族でレオリオさんはユダ族のユダヤ人同士だからレオクラ成り立つ説。ユダが裏切り者でない理由とシメオン族とレピ族によるシュケムでの虐殺での第三の道について
ハンターハンターの十二支んがイスラエルの十二支族を表すと仮定するならば、クラピカちゃんとレオリオさんはユダヤ人である可能性。
医者のレオリオさんはハンターハンターの十二支んでは亥(い)だからイスラエル十二部族で当てはめると亥=ユダ。
クラピカちゃんはハンターハンターの十二支んでは子(こ)だからイスラエル十二部族で当てはめると子=シメオン。
だとするならば、アニメハンターハンターで幻影旅団のクロロ団長がユダについて話してた内容はレオリオさんの事を言っていた可能性が高い。



教団Ⅹという小説を読んでいたときのことだ。この小説の中に、聖書に関する話が出てくる。それを聞いたときにピンときた。

 クロロはこのことを言っていたのだ、と。

 本題に入る前に、まずユダの説明からしなくてはならない。

 ユダは、ユダヤ教の改革者であるイエス・キリストの弟子の一人だ。

 違和感を抱いた人がいるかもしれないが、弟子たちがイエスが亡くなった後、彼を神としてキリスト教を創立したのであって、イエス自身はユダヤ教徒であった。

 ユダは金を貰った代わりに、自分の師であるイエスを売り渡した。有名な話なので知っている人も多いだろう。ウヴォーギンが、”ユダ”という言葉を裏切者の意味で使ったのはそういう意味だ。

 しかし、現在当たり前となっているこのエピソードは、厳密には間違いである。

 実は、ユダはサタン(悪魔)に取り憑かれていたという記述が、正当な聖書の中にあるのだ。

 つまり、ユダは悪魔に操られたのであって、決してイエスを裏切ったわけではないことになる。

 クロロは、(というか冨樫は)この聖書の内容を知っていた。だからユダは裏切者じゃないと言ったのだ。

 ハンターには伏線とかこういった小ネタが多数隠れていて、マニアはそれが見つかるたびにネットで騒いでいる。

 クロロのこの発言に対しての答えは、とうの昔に出ているのかもしれない。しかし、ハンターってやっぱりよくできてんなーって思ったので今回は紹介させてもらった。

https://note.com/tipiyo/n/n46299925ab1e
クロロがさらっと呟いたことが実は宗教学に関連していた件


てぃぴよ(受験鬱からの逆襲)

2020年4月12日 22:59



ユダについてはさまざまな神学的な問題が存在する。そのうちのひとつが「イエスは裏切りを予知していた。ならばなぜ回避できなかったのか?」という問題である。
岡田の説はこの問いに答え切れていない。
「なぜならばユダは裏切り者ではなかったからだ。愚か者だったのだ」

確かにクロロのセリフの説明としては十分であろう。しかし「なぜ回避できなかったのか?」という問いの答えとしては不十分だ。

映画『最後の誘惑』

冨樫が作品において多くのオマージュをちりばめることはよく知られていると思う。「淵!い、いやヒ・・・ヒソカ」というセリフの元ネタは伊藤潤二の短編集に収録されている『ファッションモデル』だ。そしてクロロのセリフにも元ネタがあると考える。それが『最後の誘惑』というマーティン・スコセッシ監督の映画である。

この映画はイエス・キリストの生涯についての斬新な、そして異教徒的な解釈をした映画として有名であり、数多くの批判をあび、何度も製作中止、公開中止の危機に見舞われた作品である。

この映画ではユダの人物像についても斬新な転回を図っている。そしてその解釈は先ほど掲げた問い、「イエスは裏切りを予知していた。ならばなぜ回避できなかったのか?」、に対して完全に答えるものとなっている。

『最後の誘惑』においてユダは最後までイエスを敬愛した弟子として描写される。そして彼がイエスをローマ軍に銀30枚で売り渡したのは憎しみのためではなく、イエスに頼まれたからである。
なぜそのようなことを頼んだのか。イエスは自らが磔刑され人類を救済する覚悟はできたが、自分自身で死にに行くことに対して恐れを克服できなかった。そこで彼は最も信頼できる弟子であるユダに、自分を殺すための手助けを求めたのだ。

https://occulticsiesta.hateblo.jp/entry/no6
「ユダはなぜ裏切者ではないのか」についてのキリスト教的解説



https://enokidoblog.net/jounetsu/2016/02/15529



「『ユダの福音書』におけるユダ像を、次のようにまとめることができよう。成立しつつある2~3世紀の正統的教会において、金銭欲による教会の『裏切り者』『密告者』の元型にまで貶められていたユダ像は、『ユダの福音書』において180度逆転され、イエスの『福音』の伝達者として高く評価されている」。すなわち、ユダはイエスの「肉体」を犠牲にすることによって、「肉体」から「霊魂」を解放し、イエスを人間の元型たらしめたというのだ。ユダはイエスを「裏切った」のではなく、イエスの使命を果たしたというのである。

著者は、最後に、歴史上のユダについて、このように記している。「ユダはイエス側近の弟子たちの一人であった。にもかかわらず、彼はイエスをユダヤのローマ当局による十字架刑にまで至らしめた。このことの史実性は否定できないであろう。成立しつつあるキリスト教にとって、イエスを裏切ったユダは『負の遺産』であった」。「ユダはイエスの直弟子の一人であったが、何らかの理由で師をユダヤの指導者たちに『引き渡した』。ユダの裏切りを事前に知ったイエスは、『呪う』ほどに彼を憎悪した。しかしイエスは、そのような『敵』をも受容して十字架死を遂げた。復活のイエスが『十二人に現れた』という伝承から推定して、ユダがイエスの死後、直弟子たちと同じように顕現体験に与った可能性はあろう。彼の最期については不明である。イエスの死刑確定後にユダが不自然死を遂げたという伝承や、彼の死を裏切りの『罪』に対する神の裁きとみなす見解が成立したのは、成立しつつある正統的教会が、ユダの『罪』を赦さず、自らの『罪』をも彼に負わせて、彼を教会から追放しようとした結果ではないか」。

人間イエスに強い関心を抱いている私にとって、人間ユダに迫ろうと試みた本書は、見逃すことのできない一冊である。

https://enokidoblog.net/jounetsu/2016/02/15529
ユダは裏切り者ではなく、イエスから密命を託された弟子だったのか・・・【情熱の本箱(131)】

【ほんばこや 2016年2月24日号】

ユダが裏切りものではない3つの考察を踏まえると教団X書籍踏まえてユダが裏切り者ではないの てぃぴよ(受験鬱からの逆襲)さん考察は一理ありますがユダは悪魔に操られたというよりも、「ユダはなぜ裏切者ではないのか」についてのキリスト教的解説の考察にあるマーティンスコセッシ監督最後の誘惑のオマージュとの考察にあるイエスは死刑が回避できないからユダはローマ軍に銀30枚でイエスに頼まれた通りイエスを引き渡したのであって、ユダは裏切り者ではなく、イエスから密命を託された弟子だったのか・・・【情熱の本箱(131)】【ほんばこや 2016年2月24日号】考察のユダの福音書の内容を踏まえると、イエスをローマ軍に引き渡し死刑にする罪をユダは背負ったということになるかと思います。




12支族とその祖
ルベン族英語版) - ルベン
シメオン族英語版) - シメオン
レビ族英語版) - レビ
ユダ族英語版) - イスラエルの子ユダ
イッサカル族英語版) - イッサカル
ゼブルン族英語版) - ゼブルン
ダン族英語版) - ダン
ナフタリ族英語版) - ナフタリ
ガド族英語版) - ガド
アシェル族英語版) - アシェル
ベニヤミン族英語版) - ベニヤミン
ヨセフ族英語版) - ヨセフ
エフライム族英語版) - エフライム
マナセ族英語版) - マナセ

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%83%A9%E3%82%A8%E3%83%AB_(%E6%B0%91%E6%97%8F)




イスラエルのじゅうにしぞく
Twelve tribes of Israel

旧約聖書では,イスラエルは,イスラエルおよびユダの独裁制の確立まで,イサクの次子ヤコブ (イスラエル) に由来する 12の支族から成る同族集団であった。その 12の支族の族長はヤコブの 12人の息子であり,おのおの,リアを母とするルベン,シメオン,レビ,ユダ,イッサカル,ザブロン。ゼルファを母とするガド,アシェル。ラケルを母とするヨゼフ,ベンジャミン。バラを母とするダン,ネフタリである。しかしヨゼフの子エフライムとマナセをこれに加えるときはレビを除いて 12支族とする。一般にはイスラエルの各支族の起源はきわめて複雑であるため,1つの家族から由来するとは考えがたく,ほかの種族から追放されたりしたものがそのなかに入り込んだり,そこから追放されたりという変動があったと考えられるが,いずれにしても 12という支族数は一定に保たれていた。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

https://kotobank.jp/word/%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%83%A9%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%81%AE12%E6%94%AF%E6%97%8F-30911
イスラエルの12支族(読み)イスラエルのじゅうにしぞく(英語表記)Twelve tribes of Israel




イスラエルの十二部族とハンターハンターの十二支ん解説してくださってるサイトがありました。



日本に伝わる十二支(干支・えと)が、イスラエル12部族と対応しているのでは?という考察です。

イスラエル民族の祖であるヤコブがヨセフを頼ってエジプトに移住し、寿命を全うして亡くなります。臨終に際し子供達から始まる部族ごとに予言的な言葉を残しています(創世49章)。そのうちいくつかの部族を動物になぞらえている部分があります。

 9節 ユダ→ライオン→獅子→いの獅子→亥

 14節 イッサカル→ロバ→馬…午

 17節 ダン→ヘビ…巳(?)

 21節 ナフタリ→シカ→鹿に似た角を持つ…辰

 27節 ベニヤミン→オオカミ→家畜化→犬…戌

少々苦しくもありますが、長く国が続いたユダ王国の南2部族が十二支の順番で11、12番目となるのは説得力があります。

後にエジプトから民族を脱出させ、カナンの地に道案内したモーセも、同じく各部族への祝福を込めた予言的な遺言を残しています(申命33章)。こちらでも、いくつかの部族を動物に例えています。

 17節 ヨセフ→ウシ…丑=マナセorエフライム

 20節 ガド→ライオン

 22節 ダン→ライオン

ライオンが重複していますが、王家の証しとしてライオンをトレードマークにしているユダ族が当確と思われます。

ガドとダンは後々強い影響力を持つことを、ライオンを引き合いに出して保証しているのでしょうか?同じ肉食獣であるトラ…寅はガドかもしれません。

北イスラエル王国をリードしたエフライム族もウシをトレードマークにしていました。同じ二本の角を持つヒツジが丑と対象の位置にありますので、未はマナセと言えそうです。

6節では「ルベンは男たちが少なくならない」とあります。他の部族では生きものとしてのヒトに言及していないため、ヒトに近いサル…申はルベンなのでしょうか。

動物ではないですが、創世49:5〜7「シメオンとレビは兄弟」から始まるくだりでは、どうやら妹のディナにまつわるシェケム虐殺事件において、この2人が特に過激な働きをみせたため、シメオンがユダの勢力内に飛び地の領地を割り当てられ、レビは祭司職に専念することを言ってるようで、部族から漏れたレビはネコ。ギリギリ部族として数えられるシメオンがネズミ…子に当てはまります。

アシェルとゼブルンは、イッサカル・ナフタリと並ぶマイナー4部族でなかなか話題に登らないのですが、創世49章20節で「アシェルのパンは豊か」とあります。農耕の邪魔をする有害生物を退治するのはヘビであり、ダンではなくアシェルがあてはまる可能性があります。黙示録4:7には神の玉座を守る4種の顔を持った高位の天使がそれぞれライオン=ユダ、ウシ=エフライム、ヒト=ルベン、トリ(ワシ)=ダンという、幕屋の周りに宿営する際のグループわけに対応しているため、ダンはヘビよりもトリ…酉とも解釈できます。シルクロードで寄り道したため、順番も南2部族よりギリギリ前というのも辻褄が合います。

残ったゼブルンは創世記で「船がとまる岸辺に住む」、申命記で「喜べ、出ていくときに」など、短く軽い扱いでかわいそうですが、十二支でも残ったウサギ…卯で落ちついてもらうしかありません。



子=シメオン

丑=エフライム

寅=ガド?

卯=ゼブルン?

辰=ナフタリ

巳=アシェル? ダン?

午=イッサカル

未=マナセ

申=ルベン?

酉=ダン?

戌=ベニヤミン

亥=ユダ

(猫=レビ)

勝手にまとめてみました。半分くらいまで確定的なんで偶然とは言えませんよね??

https://ameblo.jp/hiro73kg/entry-12618555348.html
伊勢谷幸彦による個人研究



干支(かんし、えと、中国語: 干支、ピンイン:gānzhī)は、十干十二支を組み合わせた60を周期とする数詞[1]。古代中国にはじまる暦法上の用語[2]を始めとして、時間、方位、ことがらの順序などに用いられる[1]六十干支(ろくじっかんし)、十干十二支(じっかんじゅうにし)、天干地支(てんかんちし)ともいう。

概説

干支の60周期を表した図

中国を初めとしてアジア漢字文化圏において、時間方位角度、ものごとの順序づけを表すのにも用いられ、陰陽五行説とも結び付いて様々な卜占にも応用された[1]。古くは十日十二辰十母十二子とも呼称した[2]

起源は商()代の中国にさかのぼる[1]。日・月・年のそれぞれに充てられ、60日(ほぼ2か月)、60か月(ほぼ太陰太陽暦5年)、60年などをあらわす。幹・肝と、枝・肢と同源であるという。日本朝鮮半島ベトナム、西はロシア東欧などに伝わった。日本に暦が伝わったのは古墳時代から飛鳥時代にかけてで、朝廷百済より暦法や天文地理を学ぶために学問僧を招き、604年(推古12年)、日本最初の暦が作成されたと伝えられる[3]

日本においては「干支」を「えと」と呼んで、ね、うし、とら、う、たつ…の十二支のみを指すことが多いが、「干支」は十干と十二支の組み合わせを指す語であり、「えと」は十干において「きの(甲)」「きの(乙)」「ひの(丙)」「ひの(丁)」と陽陰に応じて「え」「と」の音が入ることに由来するので、厳密には二重の誤りである。

1012最小公倍数60なので干支は60回で一周するが[1]、干支の組合せはすべての組合せの半数しかない。例えば、一覧01〜60で5回ある「子」のうちに、「甲子」はあるが「乙子」はない。これは、10と12に共通の約数2があるので、干支の周期が積の120ではなく、最小公倍数の60になるからである。

十干と十二支

十干の10種類からなり、十二支の12種類からなっており、これらを合わせて干支と呼ぶ[1]。十干十二支は戦国時代に作られた陰陽五行説よりもはるかに古い起源をもつので、陰陽五行説による説明は後付けであって学問的な意味はない。また生命消長の循環過程とする説もあるが、これは干支を幹枝と解釈したため生じた植物への連想と、同音漢字を利用した一般的な語源俗解手法による後漢時代の解釈[注釈 1]である。鼠、牛、虎…の12の動物との関係がなぜ設定されているのかにも諸説があるが詳細は不明である。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B2%E6%94%AF
干支出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

干支に関係しているとして十干に含まれないイスラエル十二部族の亥=ユダ族とイスラエル十二部族の子=シメオン。
イスラエルの失われた10支族にイスラエル十二部族の子=シメオンは、入ってますがユダ族は入ってないので、失われた10支族=干支の十干は成り立たないようです。



古代イスラエルの失われた10支族
ルベン族
シメオン族
ダン族
ナフタリ族
ガド族
アシェル族
イッサカル族
ゼブルン族
ヨセフ族
エフライム族
マナセ族


失われた10支族とは、古代イスラエル12部族のうちユダヤ民族の直系の祖のユダ族ベニヤミン族レビ族[21] を除いたものをいう。南王国ユダの2支族とはユダ族ベニヤミン族で、これにレビ族を加えた3部族がユダヤ民族の直系の祖となったとされる。実際には南王国には2部族でなく3部族が存在したわけだが、上記の通りレビ族は数えないのが慣例であるため「2部族」と呼び習わしている。

ただし『歴代誌』によるとバビロン捕囚から帰還の時点でエフライムマナッセの各部族は残存しており、エルサレムに住み着いたという[22]。彼らの系譜は書かれていないが、同書の下巻にユダがアサ王統治下の頃、「ユダベニヤミンのすべて、および彼らとともに住んでいたエフライムマナセシメオンの人々」というくだりがあるので、この頃にはすでにユダに上記の2部族とシメオン族もいたということになる。[23] なお、バビロン捕囚から帰還後は、多数派のユダ族と祭司としての役目を任されたレビ族以外は各部族としてのアイデンティティを失い、ユダ族に同化されたらしく、これ以後は「ユダヤ人」、「レビ人」という言い方は残っているが他の部族の呼称が出てこなくなる。

なお、『列王記』では南北分裂のきっかけになったとされる預言者アヒヤの「あなた(ヤロブアム)に10部族を与えよう。彼は(中略)1つの部族をもつであろう[24]。」「その10部族をあなた(ヤロブアム)に与える。その子には1つの部族を与えて[25]」という説明や、同書の第12章第20行でも「ユダの部族のほかはダビデの家に従う者がなかった」という説明のくだりから、そもそも分裂は「10と2」ではなく「10と1」であったことが分かる。

失われた10支族の行方 編集

詳細

この記事には独自研究が含まれているおそれがあります。

以下に挙げる4説は伝承または仮説として立てられたもののうち、イスラエル政府によって比較的有望とされた説であるが必ずしも10支族だけを問題とした説ではない。また、いずれも通説には至っていない。一部はアフガニスタンに。パシュトゥーン人には、ヨセフ族エフライム族マナセ族)の末裔という伝承をもつ部族がいる。10支族はメディア(今のイラン)を経由して東に逃れたという説があり、その地はスキタイ人と同系のサカ族または月氏族が居住し、現在のアフガニスタンの一部を含むものであった[26]
一部はエチオピアに。イエメンを経由して、ヨセフ族マナセ族エフライム族)がアフリカに入ったもの。イスラエル建国後にエチオピアから相当数が移住したが、それ以前には多くのユダヤ人が居住していた[27]
一部は中国に。代まで開封にはユダヤ人の街が存在した。また中国の回族のうち、かなりの部分が古代ユダヤ人の末裔が改宗したものではないかという説もあるが、説の域を出ない(開封のユダヤ人参照)。


以下に挙げる説は学術的な検証という意味では上記の説以上に問題があるとされるが参考までに列挙する。一部はインドカシミール地方に。カシミール地方にキリストの墓[28]モーセの墓と言われるものがある。
一部はインド東部に。マナセ族の末裔と称する「ブネイ・メナシェ」という人々がいる[29]
一部はミャンマーに。
一部は朝鮮[30] に。
一部は日本に。朝廷に協力するなど国造りに大きく貢献した物部氏倭漢氏秦氏などが古代イスラエル人の失われた10支族ではないかという説。一時は国際的にも有名だった説である[31]。失われた10支族のうち、第9族エフライム族、第5族ガド族、または第7族イッサカル族の数人が、日本に移住したという説がある。
なお、日ユ同祖論でいうユダヤ人とは、有色人種としてのユダヤ人セファルディム)を想定したもので、当時の古代イスラエル人は有色人種であったとされ、白人ユダヤ人ヘブライ語ドイツを意味するアシュケナジム)は8世紀頃、ハザール人ユダヤ教への改宗によってユダヤ人を名乗ったのではないかという説もある。ユダヤ人に多いY染色体ハプログループJ系遺伝子は白人にも有色人種にもみられるため、イスラエルの氏族に白人系と有色人系があったのではないかという説もある(日ユ同祖論を参照)。しかし日ユ同祖論はイスラエルの言語学者・懸けはシオン氏が動画内で否定している[32]
「日ユ同祖論」の一種であるが、富山県には塩谷(しおんたん=シオンの地)という地名が残されており、周辺住民の顔は日本人よりも彫りが深く目が鋭い人達がそうでないかと言われた(富山では谷を「タン」と読み、「ヤ」と読む場合は屋の字に置き換えられている。県東部にはアイヌや朝鮮・中東の言葉も見受けられる)[33]。また、かつて北海道の先住民族アイヌ人は、周囲の諸民族とは異なるヨーロッパ人的な風貌のために、古代イスラエル人の末裔だと思われていたこともあった。
一部はイギリスに。経緯不明のユート人エフライム族、またはダン族であると言う説。
一部は新大陸アメリカ)に。ミシシッピ文化を作った民族・マウンドビルダーアメリカ先住民の祖先であることが明らかになっているが、19世紀にはマウンドビルダーの正体は謎であり、アメリカに渡った10支族がこれらの遺跡を築いたマウンドビルダーなのではないかとする説もあった。日ユ同祖論と同じガド族である。


トピック 編集

1959年、エルサレムのユダヤの丘に教会の建設が決まり、東欧系ユダヤ人のシャガールステンドグラスの制作が依頼された。シャガールは、イスラエルの12支族をモチーフとして、華麗で静謐なデザインを仕上げ、12のステンドグラスへと表現した。教義で偶像は描けないため、シャガールは、さまざまな動植物や図形を用い、また、色彩の魔術師との異名を存分に発揮し、12支族の魂を表現している。加えて、それぞれに、旧約聖書から引用された言葉が入っている。この作品は、俗に「エルサレム・ウィンドウ」と称され、シャガールの代表的作品の一つとなっている。[34][35]

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%83%A9%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%81%AE%E5%A4%B1%E3%82%8F%E3%82%8C%E3%81%9F10%E6%94%AF%E6%97%8F
イスラエルの失われた10支族



ウル(Ur)は古代メソポタミア南部にあった古代都市。ウバイド期(紀元前6500年~紀元前3800年頃)には人が居住し、紀元前三千年紀にはウル第1王朝が始まった。紀元前一千年紀に入ると新アッシリア帝国及び新バビロニア帝国の支配を受けたが、紀元前5世紀のアケメネス朝の時代に入ると衰退。長らく忘却されていたが、紀元19世紀に入って発掘・再発見された。



ウル(Ur)

𒋀𒀕𒆠 or 𒋀𒀊𒆠 Urim(シュメール語
𒋀𒀕𒆠 Uru(アッカド語
أور ʾūr'(アラビア語



ウルの遺跡。背景にウルのジッグラトが見える





ウル

近東における位置

近東の地図を表示イラクの地図を表示全て見る

所在地 イラクジーカール県テル・エル=ムッケイヤル(el-Muqayyar)地域 メソポタミア座標



北緯30度57分47秒 東経46度6分11秒種類 Settlement歴史完成 前3800年頃放棄 前500年以降時代 ウバイド期から鉄器時代文化 シュメール追加情報発掘期間 1853年-1854年、1922年-1934年関係考古学者 ジョン・ジョージ・テイラー英語版)、チャールズ・レオナルド・ウォーリーユネスコ世界遺産登録名Ur Archaeological City所属南イラクのアワール登録区分Mixed: (iii)(v)(ix)(x)参照1481-006登録2016年(第40回委員会)面積71 ha (0.27 sq mi)緩衝地帯317 ha (1.22 sq mi)

現在のイラク南部、ジーカール県テル・エル=ムッケイヤル(Tell el-Muqayyar、アラビア語: تل المقير‎)が古代のウルである[1]。ウルはシュメールの重要な都市国家であった。ウルはかつてユーフラテス川ペルシア湾に注ぐ河口そばに位置する都市であったが、現在では海岸線が移動し内陸となっている。ウルはユーフラテス川南岸にあり、現代のイラクの都市ナーシリーヤから16キロメートルの位置にある[2]

ウルは前3800年頃のウバイド期に創建され、前2600年頃に都市国家として文字史料に記録されている。初めて文字史料に登場する王はメスアンネパダである。

ウルの守護神はシュメールアッカドアッシリアバビロニア)の月神ナンナアッカド語シン)であり、都市の名前はこの神に由来している。UNUGKIという名前は文字通りには「ナンナの住まう所(UNUG)」を意味する[2]

この遺跡には部分的に修復されたウルのジッグラトの遺構が残されている。これはナンナ神殿であると考えられており、1930年代に発掘調査が行われた。このジッグラトは前21世紀(低年代説英語版))のウル・ナンム王の治世中に建設され、前6世紀にバビロンの王ナボニドゥスによって再建された。ジッグラトの遺構は南北1,200メートル、東西800メートルに及び、北東から南西に向けて現在の平野の面から約20メートルの高さになっている[3]

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%83%AB
ウル

古代メソポタミア南部に存在した古代都市



古代イスラエル(こだいイスラエル)は、伝説的な太祖アブラハムの時代からユダヤ戦争終結までのイスラエル古代史を概説する。古代イスラエル史は旧約聖書に基づく記述が多く見られるが、考古学的事実や他資料からの裏付けが取れている部分は相当に少ない。伝説と史実性 編集

イスラエルの歴史




この記事はシリーズの一部です。



古代

イスラエル (民族)  カナン移住  出エジプト c.1280 BCユダヤ教成立  士師の時代  イスラエル王国 c.1020 BC-722 BCユダ王国 c.930 BC-586 BCアッシリア捕囚 c.740 BC-538 BCアッシリア 722 BC-612 BCバビロン捕囚 586 BC-538 BC新バビロニア 586 BC-536 BCアケメネス朝 536 BC-333 BCアレクサンドロス大王 333 BC-323 BCプトレマイオス朝 323 BC-198 BCセレウコス朝 198 BC-c.140 BCマカバイ戦争 167 BCハスモン朝 c.140 BC-37 BCヘロデ朝 37 BC-92ユダヤ属州 1C BC-135ユダヤ戦争 66-73キトス戦争英語版) 115-117バル・コクバの乱 132-135パレスチナ 135-390ディアスポラ  

中世・近世

ファーティマ朝 970-11Cセルジューク朝 11C十字軍 1099エルサレム王国 1099-1291マムルーク朝 1291-1516オスマン帝国 1516-1917シオニズム 19C-20Cバル・ギオラ 1907-1909バルフォア宣言 1917ハガナー 1920-1948イギリス委任統治領パレスチナ 1922-1948

現代

イスラエル独立宣言 1948第一次中東戦争 1948-1949第二次中東戦争 1956-1957パレスチナ解放機構 1964-第三次中東戦争 1967消耗戦争 1967-1970第四次中東戦争 1973レバノン内戦 1975-1990エルサレム基本法 1980第1次インティファーダ 1987-1991オスロ合意 1993第2次インティファーダ 2000-2005ガザ侵攻 (2006年) 2006レバノン侵攻 2006ガザ紛争 2008-2009ガザ侵攻 (2014年) 2014パレスチナ・イスラエル戦争 2023



イスラエル ポータル





考古学的に確認できる事柄 編集

イスラエルの古代史は、文書資料としての旧約聖書が圧倒的な存在感をもっていたために、長らくこれに倣うか、神話的な部分を合理的に解釈しなおしたものを史実としてきた。しかしながら、同時代の文書や考古学的資料によって裏づけされた事柄はさほど多くない。

紀元前14世紀頃のエジプトの文書では、「アピル」と呼ばれる集団がパレスチナ(カナン)で略奪行動を行っていたことが確認できている。このアピル(シリアメソポタミアの文書では「ハピル」ないしは「ハビル」とも呼ばれた)は民族名を指すものではなく、奴隷や傭兵にもなった非土着系の無法者やならず者といった社会階層を指す言葉であった。多くの学者がこのアピルとその後のヘブライ人のカナン進出に何らかの関係があったと考えているが[1][2]定かなことは分かっていない。また、紀元前1207年の出来事を記したエジプトのイスラエル石碑英語版)には「イスラエル」という言葉が記述されており、この部族集団の実在を確認できる最古の文献とされている[3][4]。その記述方法から、国家と呼べるほどの地位にはなく、半遊牧民や農村民のような存在であったと推察されている[5]

紀元前1200年前後は「海の民」が南西の海岸平野からシリアやカナン地方に侵入してきた頃であり、それを代表するのが旧約聖書にイスラエル人のライバルとして登場するペリシテ人である。イスラエル人はこれと同時期に山岳地域からカナン地方に進出してきてペリシテ人と衝突を繰り返した[6]。一方、丘陵地帯の急激な変化は暴力的な侵略の跡はないことから、既存のカナン人・ペリシテ人から平和的に生じた部族とする見方もある[7]。最近の考古学調査では、ガリラヤ山地、中央山岳地帯、南部ユダヤのネゲヴ北部などに前1200年頃から居住地域が急増し、西部に勢力を広げていったことが確認されている。この動きの中にイスラエル人たちの部族が含まれていたことは間違いが無い[8]

イスラエル人の出自 編集

ヨルダン川東岸の山岳地帯からカナン地方に進出してきた前述のイスラエル人達の出自は不明である。

イスラエル人たちが始祖とするアブラハムは、旧約聖書によれば「カルデアのウル」からカナンの地へ移住してきたことになっている。この「カルデアのウル」を南部メソポタミアのウルとするのはレオナード・ウーリーによって始められてから[9]考古学者や歴史学者に支持されてきたものの、バビロニアからの移住は考えにくくメソポタミア北西部からの移住だとする見方もある[10]

彼らの出自としてはこの他にも、カナン諸都市の周辺部に居た半遊牧民達が山地に逃れて定住したとする説、カナンの諸都市の奴隷や下層民が都市を逃れて定住したとする説、アラム地方から移住してきたとする説など様々である[11]。ヤハウェの起源は議論中であるが、鉄器時代初期はイスラエル人とカナン人の文化、つまり同じ神は同じであったと見られている[12]。鉄器時代後期に、特定の民族の神々に関連する民族国家が出現した結果、ケモシュはモアブ人の神、ミルコムはアンモン人の神、カウスはエドム人の神、そしてヤハウェはイスラエルの神になったとされる[13][14]

3代の族長 編集

旧約聖書の「創世記」には、アブラハムの子のイサク、イサクの子ヤコブが後の古代イスラエル人の祖先であるとしている(ヤコブの別名がイスラエル)。しかし、この3代の族長は、元々は別の部族が保持していた族長伝説が合わせられたと考えられている。アブラハムとイサクの記述には圧倒的に南部ユダ地方に置かれた聖所との関わりが記されているし、ヤコブの記述にはサマリア地方やヨルダン川東岸の聖所が言及されていることから、アブラハムとイサクが南部のユダヤ系、ヤコブが北部やヨルダン川東岸系の部族の族長であったことが推測されるのである[15]。イスラエル部族連合がその結びつきを強固にして、祭祀・伝承・神話を共有していく中で三代の族長の物語が形成されていったのだろうと考えられる[16]

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E4%BB%A3%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%83%A9%E3%82%A8%E3%83%AB
古代イスラエル



アブラム (ヘブライ語 אַבְרָהָם (古: ʾAḇrām, 現: ʾAvram))、または アブラハム英語 Abraham)、アブラハームギリシア語 Αβραάμ Avraám アブラハム)は、ヘブライ語で多数の父という意味。ユダヤ教キリスト教イスラム教を信仰する「啓典の民」の始祖。ノアの洪水後、による人類救済の出発点として選ばれ祝福された最初の預言者。「信仰の父」とも呼ばれる。

神にひとり子イサクを捧げようとするアブラハムと、それを制止する天使
レンブラント『アブラハムとイサク』、1634年。

ユダヤ教の教義では全てのユダヤ人の、またイスラム教の教義では、ユダヤ人に加えて全てのアラブ人の系譜上の祖とされ、יהוה(ヤハウェ、ヤーウェなどと発音。日本語聖書では主に「主」と表記。ここでは最大公約数的に神と表記)の祝福も救いもアブラハム契約が前提になっている[1]。イスラム教ではイブラーヒームアラビア語: ابراهِيم‎, Ibrāhīm)と呼ばれ、ノア(ヌーフ)、モーセ(ムーサー)、イエスイーサー)、ムハンマドと共に五大預言者のうちの一人とされる。キリスト教の正教会においてはアウラアムと称され、聖人に列せられている。

族長カビル族と呼ばれるヘブル人の先祖たちの一人である[2]

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%8F%E3%83%A0
アブラハム

聖書の登場人物。ユダヤ教・キリスト教・イスラム教を信仰する「啓典の民」の始祖。最初の預言者。五大預言者の一人

イスラエル十二部族の亥=ユダであるレオリオさんと考えるとレオリオさんユダヤ人説は成り立ちます。



ユダヘブライ語: יְהוּדָה‎)は、イスラエルの12部族の一つであるユダ族の祖。ヤコブ(のちのイスラエル)の子で母はレア。長子はルベン、次子はシメオン、三子がレビ。ユダは四子である。ユダ王国はユダ族とベニヤミン族とレビ族の3部族から成っていた。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A6%E3%83%80_(%E3%83%A4%E3%82%B3%E3%83%96%E3%81%AE%E5%AD%90)
ユダ (ヤコブの子)



ユダ族(ユダぞく, שבט יהודה)は、イスラエル王国を構成していた12氏族のうちの一氏族。ヤコブの4人目の息子ユダを祖とし、ユダヤの名称の語源となった。ユダとは יהוה(ヤハウェ)に感謝するという意味。

イスラエル王国はユダ族を含む2支族によって構成されるユダ王国と、10支族によって構成される北イスラエル王国に分裂する。北イスラエル王国はアッシリアに滅ぼされ、残ったユダ王国はバビロニアによって滅ぼされ、バビロン捕囚と呼ばれる大規模な民族移住策がとられた。

ユダ族の居住していた地方は、旧約聖書の時代にはユダ、新約聖書の時代にはユダヤとよばれ、ここからユダヤ人(イェフーディー)、ユダヤ教(ヤハドゥート)という名称が派生した。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A6%E3%83%80%E6%97%8F
ユダ族



ユダ王国(ユダおうこく、ヘブライ語:מַלְכוּת יְהוּדָה)は、紀元前10世紀から紀元前6世紀にかけて古代イスラエルに存在した王国。もともとあった統一イスラエル王国が北(イスラエル王国)と南に分裂して出来たもの。族長ヤコブの子であったユダの名前に由来している。しばしば分裂した北王国と対比して南王国と呼ばれることもある。首都はエルサレムであった。

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概要 編集

サウルの後を継いだダビデ王によって統一された統一イスラエル王国は、ソロモン王の死後、紀元前930年頃に分裂した。南のユダ王国はユダ族ベニヤミン族から構成されており、北のイスラエル王国はそれ以外の十支族からなっていた。もともとダビデの一族の支配から北のイスラエル王国が独立した形となったため、当初ユダ王国では北イスラエル王国を再び制圧して全土を統一しようという意気込みが強かった。

そのため、分裂後の60年間は南北王国の間でたびたび戦いが繰り返された。その後は和解した両国の関係が安定し、ダマスカスなどの共通の敵に対して共同戦線を張ることが多かった。紀元前8世紀の中ごろには両国とも力が充実し、ソロモンの最盛期にも匹敵するほどの国土を獲得した。

しかし、アッシリア帝国が勃興すると紀元前722年に北のイスラエル王国はシャルマネセル5世に占領され滅ぼされた。その後ユダ王国はアッシリアの属国と化しその形で存続していたが、紀元前609年にメギドの戦いの敗北によってエジプトの支配下に入った。紀元前605年にカルケミシュの戦いエジプト第26王朝ネコ2世新バビロニアネブカドネザル2世に敗れた後、紀元前597年にそのネブカドネザル2世の前にユダ王国も屈した(en:Siege of Jerusalem (597 BC))。その後しばらくは独立国としての存在が許されていたが、最終的にはエジプトと結んでバビロニアと対抗しようという企てが露見したため(en:Siege of Jerusalem (587 BC))、紀元前586年にエルサレム全体とエルサレム神殿が破壊され、支配者や貴族たちは首都バビロニアへ連行されることになった。これをバビロン捕囚という。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A6%E3%83%80%E7%8E%8B%E5%9B%BD
ユダ王国




レビ(レヴィ、ラテン文字表記:Levi, Levy, Lewìy)は、旧約聖書の人物である。ヤコブの三男で、レアのとの間の子。ハランに生まれる。

ロシアのレビのイコン

姉妹のディナシェケムに強姦された報復として、兄のシメオンと共に、シュケムの息子を皆殺しにした。その後、父と共にエジプトに渡った。

ミルカを妻とし、3人の息子ゲルション英語版)、ケハテ英語版)、メラリ英語版)をもうけた。娘ヨケベドをもうけたとも。イスラエル12氏族の1つの祭司階級レビ族(レビ氏族・レビ支族・レビ人)の祖となった。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%83%93
レビ



レビ族(レビぞく)はヤコブの子レビを祖とするイスラエルの部族(支族)の一つであり、主を嗣業(相続地)としていた[1]。レビはヤコブの12人の子供の1人であるが、祭司の一族として特別な役割を与えられ継承する土地を持たなかったため、レビ族はイスラエルの十二支族には数えない[2]。聖書(民数記)においても、レビ族は「彼らはイスラエルの人々のうちに嗣業を与えられなかったため、イスラエルの人々のうちに数えられなかった者である。」[3]と書かれている。

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歴史 編集

レビ族出身のモーセアロンの指導のもとで、イスラエル人は奴隷として扱われていたエジプトゴシェンから脱出した。出エジプトの荒野を移動する時は、12の部族の中で最小の部族で、男子の人数が22,000人であり、カナン入り前の2回目の人口調査の際には22,300人であった。[4]

荒野でレビ人は、アロンの監督の元で幕屋の奉仕、契約の箱の運搬、聖所での奉仕に従事した。会見の天幕の奉仕は、ゲルション諸氏族、ケハテ諸氏族、メラリ諸氏族の3つにわけてなされた。

レビ族において、アロンの家系は名門として特別に扱われた。アロンの息子のエルアザルの家系から大祭司が世襲で輩出された。

モーセの後継者ヨシュアの時に、パレスチナ地方を占領するが、レビ人は相続地を持たず、全国に居住の町を与えられて、住んだ。そして、レビ人はその奉仕の報酬として奉納物の十分の一が給付された。

古代イスラエル王国が誕生すると、神殿が建設されて、レビ人の神殿礼拝は政治と結びつくようになる。

その後、イスラエル王国が北イスラエル王国南ユダ王国に分裂してからも、レビ人はダビデ家に忠誠を尽くし、北イスラエルに序住していたレビ族は南ユダに移住し、南ユダ滅亡まで続いた。

バビロン捕囚以降は、レビ族の立場が確立されていった。後に、ヘレニズムの時代はハスモン朝ローマ帝国下にあってはヘロデ家の関係のもとに大祭司が任命されていった。紀元70年のローマ軍によるエルサレム陥落によるユダヤ滅亡以降に大祭司は任命されていない。

「主」を嗣業としたレビ族 編集

レビ族は、「主」を嗣業とした部族とされる。口語訳聖書申命記10章9節‐そのためレビは兄弟たちと一緒には分け前がなく、嗣業もない。あなたの神、主が彼に言われたとおり、主みずからが彼の嗣業であった。
新共同訳聖書申命記10章9節‐それゆえレビ人には、兄弟たちと同じ嗣業の割り当てがない。あなたの神、主が言われたとおり、主御自身がその嗣業である。
欽定訳聖書申命記10章9節‐Wherefore Levi hath no part nor inheritance with his brethren; the LORD is his inheritance, according as the LORD thy God promised him.


レビの家の杖 編集

レビ族の杖は、サクラ属アーモンドの木である。 新共同訳聖書民数記17章23節‐明くる日、モーセが掟の幕屋に入って行き、見ると、レビの家のアロンの杖が芽を吹き、つぼみを付け、花を咲かせ、アーモンドの実を結んでいた。


アーモンドイスラエル最初の祭司のアロンの杖であり、 その弟モーセに海を割る奇跡を起こさせた杖であり、またその花はユダヤ教で定められたメノーラー(燭台)のモチーフでもある。

主なレビ族 編集モーセ
アロン
ミリヤム
エルアザル
エリ
エリサベツ


脚注 編集^ ヘブライ語対訳英語聖書 Deuteronomy 10:9
^ 中川健一 (2003). 日本人に贈る聖書ものがたりーー族長たちの巻. 文芸社. p. 612. ISBN 9784835558516
^ 民数記 26:62
^ 民数記3章39節、26章62節


参考文献 編集『新聖書注解』いのちのことば社、1985年

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%83%93%E6%97%8F
レビ族



民数記』(みんすうき、(ヘブライ語: במדבר‎、英語: numbers)とは、旧約聖書中の一書で、伝統的に四番目に置かれてきた。モーセ五書のうちの一書。イスラエルの民の人口調査に関する記述があることから、七十人訳聖書では『アリスモイ』(数)(arithmoi)と呼ばれ、そこから民数記という名称が生まれた。ヘブライ語では冒頭の語から『ベミドバル』(bemidbar)と呼ばれるが、これは「荒野にて」という意味である[1]

物語は出エジプトの出来事から二年二ヶ月後に始まり、ヨルダン川にたどりつくのが40年目であるとしている。

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内容 編集

大きく分けて以下の三つに分けられる。シナイ山における人口調査と出発に至るまでの記述、ナジル人など種々の規定(1章〜10章10節)
シナイ山からモアブにいたる道中の記述、カナンへの斥候の報告にうろたえる民の姿(10章11節〜21章20節)
カナンの民との戦い、ヨルダン川にたどりつくまで(21章21節〜36章)
1章 シナイの荒野における人口調査、レビ人の務め
2章 幕屋と宿営地に関する神の指示
3章 レビ人の祭司としての職務
4章〜6章 レビ人の氏族の調査、汚れやナジル人に関する規定
7章〜9章 祭壇の奉献と聖所の祝別
10章〜12章 イスラエルの民の荒れ野の旅と不満、モーセを蔑ろにしたアロンミリアムへの罰
13章〜14章 カナンを偵察した斥候の報告と民の嘆き
15章〜17章 コラの反逆、アロンの杖
18章〜19章 アロンの子孫とレビ人の祭司としての役割
20章〜21章 メリバの出来事、ミリアムとアロンの死、カナン人アラドの王の死、青銅の蛇による罰、アモリの王シホンとオグとの戦い
22章〜24章 バラクバラムの物語、バラムとろば
25章〜27章 カナン入りを前にした人口調査。後継者ヨシュアの任命
28章〜29章 献げ物に関する規定
30章〜32章 ミディアンへの勝利、逃れの街の規定
33章〜36章 エジプトを出てからの旅程、イスラエルの嗣業の土地、レビ人の町、相続人が女性である場合の規定


近代聖書批評学 編集

新資料仮説では、『民数記』はヤーウィスト資料(J資料)、エロイスト資料(E資料)および祭司資料(P資料)が組み合わされて成立したものとみなされている。

脚注 編集^ "民数記". ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典. コトバンクより2022年2月2日閲覧。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%91%E6%95%B0%E8%A8%98
民数記


イスラエル十二部族の子=シメオンがクラピカちゃんだとするとクラピカちゃんユダヤ人説は成り立ちます。
シメオン族とレピ族によるシュケムでの虐殺の問題について秋田大学教育文化学部研究紀要人文科学・社会科学部門66ppll~212011大虐殺の教訓*立花希一LessonsfromtheMassacreinGenesis34KiichiTACHIBANAさんの論文が良かったです。



シメオンは、創世記によるとヤコブレアの第2子であり、イスラエルの十二支族のうちシメオン族の祖とされる人物である。しかし、一部の聖書学者はこれをポストディクション、すなわちイスラエル連合の各部族の関連性の起源を提供するためのエポニムメタファーであるとして見ている[1]。聖書学者は、シメオン族は初期のイスラエル連合の一部であると聖書の著者に信じられていたと主張している[1]。しかしながら、そのシメオン族は旧約聖書の一部には書かれておらず(例えば、申命記第31章におけるモーセが死ぬ前にイスラエルの人々を祝福した言葉では、イスラエルの各部族に対してそれぞれ祝福の言葉がかけられるが、シメオンの名前は出てこない[2])、本文批評学者は例えばデボラの歌のように最も古いものであると主張し、また、一部の学者はシメオンがはじめは個別の部族とは考えられていなかったと主張している[3]

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%A1%E3%82%AA%E3%83%B3_(%E3%83%A4%E3%82%B3%E3%83%96%E3%81%AE%E5%AD%90)
シメオン (ヤコブの子)



申命記』(しんめいき、(ヘブライ語: דברים‎、英語: deuteronomy)とは旧約聖書中の一書で、モーセ五書のうちの一書で5番目に置かれてきた。

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名称 編集

ヘブライ語では冒頭の語から『デヴァリーム』(devarim)と呼ばれ、これは「言葉」という意味である[1]七十人訳聖書では『デウテロノミオン』(Δευτερονόμιον)、ヴルガータ聖書では『デウテロノミウム』(Deuteronomium)(どちらも「第二の律法」の意味)の名称で呼ばれている。これは七十人訳の訳者が17章18節の「律法の写し」という言葉を「第二の律法」という意味に誤訳したことからつけられた名称である。日本語の『申命記』という言葉は漢語訳聖書の名称から来ており、「繰り返し命じる」という意味の漢語である[2]

内容 編集

『申命記』は、伝承では死を前にしたモーセモアブの荒れ野で民に対して行った3つの説話をまとめたものであるとされている。第1の説話(1章~4章)では、40年にわたる荒れ野の旅をふりかえり、神への忠実を説く。
第2の説話(5章~26章)は中心部分をなし、前半の5章から11章で十戒が繰り返し教えられ、後半の12章から26章で律法が与えられている。
最後の説話(27章~30章)では、神と律法への従順、神とイスラエルの契約の確認、従順なものへの報いと不従順なものへの罰が言及される。
最後の説話の後、モーセは来るべき死への準備をし、ヨシュアを自らの後継者として任命する。その後、補遺といわれる部分が続く。
32章1節~47節は、『モーセの歌』といわれるものである。
33章では、モーセがイスラエルの各部族に祝福を与える。
32章48節~52節および34章では、モーセの死と埋葬が描かれて、モーセ五書の幕が閉じられる。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B3%E5%91%BD%E8%A8%98
申命記



デボラ(Deborah)は、『旧約聖書』に登場する第4の士師。ラピドトの妻であり、「デボラのなつめやしの木」と呼ばれる木の下で裁きを行った(「士師記」第4章第4節以下)。ヘブライ語ミツバチという意味である。彼女はナフタリ族のバラクを指揮官として、ナフタリ族ゼブルン族1万人を動員させ、カナンの将軍シセラの軍と戦うように命じたのである。この戦いで、イスラエル軍はカナン軍を撃ち破り、イスラエルはその後40年間は平和な時代となった(士師記 5:31)。士師記5章の「デボラの歌」はこの時の戦勝を記念して歌われたものである。

概要 編集

ギュスターヴ・ドレの描いた預言者デボラ。

この時代には、イスラエルの民が悪を行っていた背景がある。彼らはカナンの王ヤビンに売り渡され、20年間もの間押さえつけられていた。そこで民が主に助けを求め、デボラが裁きを行うようになった。このことは「士師記」4章に詳述されている。

「士師記」5章はデボラとバラクの歌である。カナン人との戦いに参戦した部族もそうでない部族も名前が記されており、部族が完全には統一されていなかったことが窺える。ヘブライ語で最古のものの1つと言われ、散文詩歌の繰り返しという記録方法もその古さを示唆している。
関連項目 編集


ウィキメディア・コモンズには、デボラに関連するカテゴリがあります。
デボラ (小惑星)
ゲーム ニンテンドーDS版『ドラゴンクエストV 天空の花嫁』の登場人物。
デボラ・バイト - 電脳戦機バーチャロン マーズの登場人物。「薔薇の三姉妹」の一人。
ナツメヤシ
デボラ級哨戒艇 - イスラエル製の高速哨戒艇ドボラ級と訳される事が多い。
スーパー・デボラ級ミサイル艇 - 上記を原型とした高速ミサイル艇
デボラ数 - 物理学レオロジー)で用いられる物質の流動性を表す量。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%83%9C%E3%83%A9
デボラ





シメオン族(シメオンぞく、ヘブライ語: שבט שמעון‎)はイスラエルの12支族の一部族である。ヤコブの子シメオンを祖とする。紀元前1200年頃[1]のイスラエル部族によるカナン征服の後、ヨシュアはイスラエルの12の部族にそれぞれ土地を割り当てた。シメオン族に与えられた土地はカナンの南西にあり、ユダ族の領地と東と南で接していた。ユダ族の領地との境界は曖昧であり、ヨシュア記によればシメオン族の相続地はユダ族の割り当て地の内にあった[2][3]。シメオン族はユダ王国の非主流の部族の一つだった。

ポルトガル語のスケッチ、シメオンの名が書かれている

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起源 編集

イスラエルの12支族のカナンにおける領地

トーラーによると、シメオン族はヤコブレアの第2子であるシメオンの直系の子孫によって構成されており、シメオンの名よりシメオン族と呼ばれる。しかし、一部の聖書学者はこれをポストディクションであり、イスラエル連合における他の部族との関連性を説明するための起源論的なエポニムメタファーであると見ている[4]。聖書学者は、シメオン族が原初のイスラエル連合の部族の中の一つであると聖書の著者は見ていたと信じている。しかし、シメオン族は古代のデボラの歌(士師記第5章)では言及されておらず、一部の学者はシメオン族が当初は独立した部族として考えられていなかったのではないかと考えている[5]。イスラエル・フィンケルシュタインによると、デボラの歌の書かれた時代にはシメオン族のいたカナンの南方地域は他の部族から離れた場所に位置する取るに足らない辺境だったとしている[6]

特徴 編集

歴代誌から得られる情報としては、シメオン族が一つの場所に固定されていないことが分かる。歴代誌上の第4章ではシメオン族の一部のメンバーが南方へ移住し、ゲドルにおいてよい牧草地を見つけたとされる[7]。また、ヒゼキヤの支配の間にシメオン族の一部がメウニム人の土地へ行き、彼らを虐殺して土地を奪ったとされる[8]。シメオン人の内500人はセイル山 (en)へ移住し、そこに定住していたアマレク人を虐殺したともされている[9]。十数個の町と、ベエル・シェバを含める、シメオン族の領地は、ユダ族によって保持されており[10]、シメオン族はかなり早い段階でユダ族に吸収されていたものと考えられている[11]

ミドラーシュによると、他のイスラエル族の多くの家族は、シメオン族の夫を亡くし寡婦となったシメオン族の女性からの子孫であるとされる[5]

シメオン族は砂漠での放浪の間、最も強い部族の一つであり、そのシンボルはシュケムの町を象徴している門のそれである。

運命 編集

シメオン族に与えられた町はヨシュア記において指定されている[12]。しかし、同書の別の記述ではこれらの町のいくつかはユダ族のものとされている[5][13]。一部の本文批評学者は、ヨシュア記がいくつかの原文から繋ぎ合わされたものであると見ており、町のリストが重複するこの特定のケースは、それぞれ時期の異なる文献がつなぎ合わされたために生じたと考えている[4][5]

シメオンの部族はレビの部族のように、シュケムでの虐殺の罰としてイスラエルの部族の中に散らされると定められた。レビ族は司祭として全イスラエル中に散らされたのに対し、シメオン族はユダ族の中に散らされた。民数記に記述される2回の人口調査において、シメオン族は出エジプトの際には、軍務につくことのできる成人男子は59,300人であり、その数は12部族のうち第3番目だったが、第2回目の人口調査では22,200人と半減して最下位となり、シメオン族の規模は劇的に減少した。聖書では一回目の人口調査を出エジプト時に配置するが、本文批評学者は、この記述がおよそ紀元前700から600年の期間の司祭資料に由来するものだと見ている[5][14]。シメオン族の名前は申命記に記されたモーセの祝福には一切出て来ないため、本文批評学者は、申命記文書作者の時代はこれらの人口調査が行われるよりも後の時代であると考えている[14]七十人訳聖書の写本は、ヘブライ語写本に基かない記述であるシメオンの名を申命記第33章6節の後半部分に挿入することで、この点を修正しようとしたことが見受けられると、学者は見ている[5]

聖書においてシメオン族の衰退は、シュケムにおいてディナが強姦された際のシメオンの行った虐殺に対する神の罰であるように記述され、ディナ自身はシメオンの不幸を説明する原因譚的な神話として、後に作られたものであると見られている[4]ヤコブの祝福において、その罰によってシメオン族が分けられ、散らされると預言されている。本文批評学者は、ヤコブの祝福が紀元前9 - 8世紀 (900-701 BC)頃の期間に書かれ、シメオン族が衰退していたのと同時期に書かれたと信じており、ポストディクションであると見ている[14]

シメオン族はユダ王国の一部として、最終的にバビロン捕囚を受けた。バビロン捕囚が終わった時には、シメオン族とユダ王国の他の部族との区別を失い、ユダヤ人と共通のアイデンティティを持つようになった。にもかかわらず、ミドラーシュの外典によると、シメオン族はバビロニアからアクスム王国(現在のエチオピア)のthe dark mountainsの背後に追放されたと主張している[5]

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%A1%E3%82%AA%E3%83%B3%E6%97%8F
シメオン族







Ⅳ、第三の可能性(楽観主義者の見解)

初期の確率は低く,可能性はほとんどゼロに近かった
選択だったかもしれないが,もし次のような選択肢が採
られていたら,ヒビ人がイスラエル側の宗教的(道徳的・
法的)規範を身につけるようになり,最後は,ヒビ人が
いわばイスラエルの民になる可能性がまったくなかった
とは言い切れないといえるかもしれないものがある。最
初に断っておくが,この選択肢を勧めるのは,ヒビ人を
イスラエルの民にすることが目的ではなく,道徳的進歩
をめざすことが目的である。最後になるが,この点につ
いて考察する。
先ず,欲得・打算に基づくものとはいえ,町の門に集
まったヒビ人男子全員が,割礼の条件を受け入れ,実際
に割礼を行った事実に注目したい。もしかれらが割礼を
受けなければ,虐殺も略奪もなく,イスラエルの民は,
ただディナを連れて,この土地から去ることができただ
けである(17節) 。すなわち,デイナは深い傷を負った
とはいえ,少なくとも,ディナは監禁から解放され,ヤ
コブの元に戻ることができ,さらには,忌まわしい記憶
の残る土地を離れることもできたのである。
ところが,ほとんどのヒビ人たちは,一見すると受け
入れ難い割礼の条件を受け入れ,実際に割礼を行った。
さて,本稿の冒頭でも引用したように,そもそも,割礼
の意味は,神とイスラエルの民との「契約のしるし」で
ある(創世記17章) 。神がアプラハムを選んだのは,ア
ブラハムが息子たちとその子孫に,主の道を守り,主に
従って正義を行うよう命じて,主がアプラハムに約束し

たことを成就するためであった(創世記,18章1 9 節) 。
だとすれば,ヒビ人は,少なくとも,第一義的な必要
条件を形式的には受け入れたことになるだろう。シメオ
ンとレビは,この段階,すなわち,割礼の傷の痛みで苦
しんでいるときに,ヒビ人を殺裁してしまったが,そう
ではなく,割礼の傷が癒えた段階まで待って,そのヒビ
人に対して,割礼の意味,「神の民」となることの意味,
正義とは何か,道徳的分別の重要性,等を諒々と説くこ
ともできたはずである2 7 .
シケムがデイナを(その肉体だけではなく精神も)心
底から愛していた(3節,19節)ことに偽りはないと
すれば,デイナが受けた肉体的・精神的苦痛を理解し,
強姦がイスラエルにおいてだけではなく,普遍的に悪で
あること等も認識することができたかもしれない。
強姦した当時,シケムに悪意があったわけではなく,
婚前交渉(強姦)が悪いことだとは知らず,その行為も
その後の行動もすべてデイナに対する彼なりの愛情から
生まれたものだ(しかしながら, 今では, その行為がディ
ナを肉体的にも精神的にも深く傷つけたことに気づき反
省している)ということがわかれば,ディナのほうも,
シケムに対して心を開いていったかもしれない。ヒビ人
たちは,シケムを尊敬していたのだから,シケムの改俊
をきっかけに,道徳的分別を次第にわきまえていったか
もしれない。
Ⅲ.(3)の末尾で,ヒビ人の中に,ひとりでも,ディ
ナに同情し,シケムの行為を悪事として認識する道徳的
分別をもった人間が現れて,町の門という公共の場で,
シケムに対して異議を申し立てたり,シケムやハモルの
提案を鵜呑みにせずに批判したりし,さらにまたそのよ
うな批判的精神の持ち主の考えに賛同する人々が増えて
いったとしたら,その後の歴史は変わっていたかもしれ
ない,と述べたが,これは,下からの改革の可能性の指
摘であった。当事者であり首長の息子であるシケムが先
に気づき,この考えを他のヒビ人に説くような,上から
の改革の可能性もあったかもしれない(その両方の可能
性も) 。もしそうだとすれば,部族間関係の問題解決は
共役困難だとしても,共役不可能とはいいきれないだろ
う。当初,少数派でしかなかった正しい見解が,説得・
議論を通じて,多数派に転化する可能性はあるのだ。
ここでは,強姦,誘拐・監禁といったいわば自明の悪が対
象となっているので,それを悪と認識するイスラエルの
道徳的規範を是とする議論の進め方になっているが,そ
の他の道徳的事柄については,イスラエル側にも問題が
あるし,他方,ヒビ人側にも傾聴すべき主張があったか
もしれない2 8 oしたがって,両者が互いに学び,道徳的
に進歩していくこともありえたのだ。
しかしながら,残念なことに,実際の歴史はそうなら

なかった。それどころか,おそらく,第三の可能性など
当時は念頭にすらのぼらなかっただろう。今日では,部
族間関係の問題というより国際関係の問題と言ったほう
が適切であろうが,このような問題は,今日でも山積し
ているのが現実である。人類の道徳的進歩の可能性は今
なお課題といってよい2 9 。

秋田大学教育文化学部研究紀要人文科学・社会科学部門66ppll~212011

大虐殺の教訓*

立花希一

LessonsfromtheMassacreinGenesis34

KiichiTACHIBANA.