共同親権をめぐる報道まとめ(2024年11月)ありしん@共同親権反対ですありしん@共同親権反対です2024年11月19日 06:08PDF魚拓





10月、スイス・ジュネーブの国連欧州本部で国連女性差別撤廃委員会(CEDAW)による8年ぶりの日本政府審査が行われた。既存の報道では「男系男子による皇位継承を定めた皇室典範の改正」や「選択的夫婦別姓」に関する勧告が注目を集めているが、実は「女性の受けているDV被害への対処」や「シングルマザーの支援」に関する勧告も出されている。

弁護士団体が国連委員に問題を訴え

11月1日、CEDAWにレポートを提出し、実際にジュネーブまで渡航して会議に参加した、「DV虐待を許さない弁護士と当事者の会」の石井真紀子弁護士らが会見を行った。 同会は、「日本の家庭裁判所はDVや虐待があっても親子の面会を強制してきた」「裁判所がDVや虐待を見抜けず適切な判断ができないことが事態を深刻化させ、調停などの手続きも被害者の加害となり得る」との主張を行っている。 2026年までに導入が予定されている共同親権制度についても「DV被害者が受けている状態を悪化させる」との見方をしている。 また、同会は、離婚に関連する女性の問題として「母子世帯(シングルマザー世帯)の貧困」があるとも指摘している。 貧困の原因としては、母子世帯の約70%が養育費を受け取っていないこと、離婚の90%は協議離婚で成立するために結婚生活から抜け出したい一心で養育費や十分な財産分与を放棄する女性がいると考えられること。そして、男女間の賃金格差が大きいため女性が一生懸命働いても貧困から抜け出すのが困難なことなどがあるという。 10月14日、CEDAWは日本のNGOや市民団体に対する聞き取りを実施。「DV虐待を許さない弁護士と当事者の会」のメンバーらは委員に上記の主張を訴え、日本政府に対する勧告を求めた。

平等な財産分与、裁判官の能力開発などに関する勧告が出される

CEDAWは10月17日に審査を開催。10月29日、日本における女性の人権状況についての懸念や改善のための日本政府に対する勧告を含む、「最終見解」を公表。 「DV虐待を許さない弁護士と当事者の会」が訴えた問題に関しても、以下のような懸念と勧告が含まれていた。 【懸念】 ・民法の規定が遵守されていない結果、女性にとって資産の管理や離婚手続きにおける財産の平等な分割が困難になっている ・現在の協議離婚制度の下では、父親が虐待的である場合にも子どもとの面会が優先され、子どもと母親の両方の安全を損なう可能性がある ・シングルマザーが直面する社会経済的な課題や性差別について、政策が適切に対処できていない 【勧告】 ・離婚手続きにおいて平等な財産分与を可能にするため、民法の規定の遵守を確保する措置をとること ・離婚を求める女性に安価に法的助言を提供すること。また、裁判官と家庭調査官が子どもの親権と面会を決定する際、ジェンダーに基づく暴力を十分に考慮するよう能力開発を強化/拡大すること ・シングルマザー支援のため、十分な数の安価な保育施設の提供や、職業生活と家庭生活の両立を促進する的を絞った措置の採用、シングルマザーをめぐる性差別的な固定観念をなくすこと 会見に参加した弁護士のひとりは「非常に有用な、家裁実務にも使っていける勧告が得られた」と所感を述べた。
憲法98条2項は「条約の誠実な遵守」を定めている

国連勧告に関する報道では「勧告に法的拘束力はない」と表現されることが多い。しかし、この表現は「一面は正しいが、ミスリーディング」であると石井弁護士は指摘する。憲法98条2項により「日本国が締結した条約及び確立された国際法規は、これを誠実に遵守することを必要とする」と定められているためだ。 「法的拘束力がないからと言って無視することは、憲法に定められた義務を果たさないため、憲法違反となり得る」(石井弁護士) 2013年6月、安倍内閣(当時)は、旧日本軍の慰安婦問題をめぐる国連人権機関の勧告に関して「法的拘束力はなく、締約国に従うことを義務づけているものではない」と閣議決定した。この閣議決定以降、慰安婦問題に限らず、国連からの勧告に対する日本政府の対応は消極的になったという。 国際人権法の専門家であり、イギリスのエセックス大学・人権センターフェローの藤田早苗氏は「勧告に法的拘束力はないとしても、勧告の前提となっている条約には拘束力がある」と指摘し、日本政府の対応を批判した。 「勧告だから従わなくてよい、なんてズレた対応をしているのは日本政府だけ。 イギリスでは政府がどのような勧告を受けてどのような対応をしているか、BBC(英国放送協会)などのマスコミが詳しく報道する。日本のマスコミは、政府の言い分を『コピペ』するだけの報道を、いい加減に止めてほしい」(藤田氏)

「国内人権機関の設置や司法予算の拡大が必要」

弁護士らは「シングルマザーにとっては、物価が高く費用のかかるジュネーブに訴えに行くこと自体が難しい」と指摘し、国内の事情を国連に伝えやすくするために国内人権機関が必要であると訴えた。 「日本におけるシングルマザーの問題について、過去に国連に訴えられたことはなかった。 国連に訴えに行ける人は、そもそもハイクラスである場合が多い。そのため、これまでは選択的夫婦別姓のような問題が主に取り上げられてきた、という面がある」(弁護士ら) また、勧告にも含まれている「ジェンダーに基づく暴力」については、現状では裁判官の理解が乏しい、と弁護士らは指摘する。司法修習所でジェンダーに関する研修が行われていないことも問題の一因であるという。 「そもそも裁判所の関係者が忙しく、時間が足りないことも問題の一因。共同親権を導入するというのであれば、国は司法予算を増やし、裁判所がジェンダーの問題を理解できるようにするべきだ」(弁護士ら)

弁護士JP編集部

“女性のDV被害”や“シングルマザーの貧困”に関して国連が日本政府に勧告 「無視することは憲法違反になり得る」

11/5(火) 16:35配信


日本を震撼させた衝撃の名著『絶望の裁判所』から10年。元エリート判事にして法学の権威として知られる瀬木比呂志氏(明治大学教授)の新作、『現代日本人の法意識』が刊行されます。 【写真】なんと現代日本人の「法リテラシー」は江戸時代の庶民よりも低かった? ・同性婚は認められるべきか? ・共同親権は適切か? ・冤罪を生み続ける「人質司法」はこのままでよいのか? ・死刑制度は許されるのか? ・なぜ、日本の政治と制度には、こんなにも問題があるのか? ・なぜ、日本は、長期の停滞と混迷から脱出できないのか? これら難問を解き明かす共通の「鍵」は、日本人が意識していない自らの「法意識」にあると、瀬木氏はいいます。法と社会、理論と実務を知り尽くした瀬木氏は、なぜ本書の執筆を決意したのでしょうか? また、何を訴えたかったのでしょうか? Q 家族法をめぐる法意識を論じた第3章でもふれられているとおり、2024年5月に共同親権等に関する民法改正が行われました。この改正については、離婚経験のある男性たちが自民党に働きかけた結果ともいわれています。従来の議論を聴くと、いろいろと問題をはらんでいるようにも思いますが、瀬木さんは、共同親権制度が必要だったと考えていらっしゃいますか? はい。私は、共同親権それ自体は、「両親と子、また両親どうしの関係に問題がない場合について認めるというのであれば」望ましい制度だと考えています。 もっとも、海外の制度は、家裁等関係機関の注意深い監視とケア(たとえば、一方の親に何らかの問題があれば家裁等関係機関が即時に介入して適切な処置をとるなど)とセットになっています。しかし、こうした関係機関の機能が十分に果たされておらず、むしろ、手つかずというほうに近い日本では、適切な制度的手当てのないままにこれを実施すると、さまざまな問題や紛争が生じるおそれがあります。 典型的な問題例としては、「肉体的・精神的被害にあっている妻が、離婚の条件として共同親権をのまされ、それが、元夫が元妻に影響を及ぼし続けるための手段として利用される」というものが挙げられていますね。こうした問題を考えるなら、従来の単独親権制度を維持すべきだったという考え方にも相当の理由はあります。 離婚後共同親権の適切な実現に向けて第一歩を踏み出すということであれば、その要件については、(1)とりあえず、「両親と子、また両親どうしの関係に問題がない場合」に限定するとともに、(2)「当事者の申立てに基づき簡易な審理を行った上での家裁、あるいは家裁の監督する機関の許可」を必要とする、という制度にすべきだったと思います。 本来、離婚については、裁判所が必ず何らかの形で関与し、子の親権を含む重要関係事項について最低限のチェックを行うのが適切であり、また、現在ではそれが、いわゆる先進諸国に限られない、明らかな「国際標準」なのです。 Q せっかく改正をしたのに、こうした限られた場合についてさえ、裁判所等のチェックを入れるという国際標準を満たさない立法になってしまっているのですか? そうです。改正法は、離婚後共同親権を原則当事者の協議にゆだね、家裁の関与は、「問題がある場合の関係当事者による親権者変更の申立て」を待っての二次的なものにとどめているのです。しかし、このような制度によって、力の弱いほうの配偶者が離婚を成立させるために共同親権を受け入れさせられる事態が本当に避けられるのか、いささか疑問を感じますね。 私の意見を含め、協議上の離婚をする際には親権者の定めに関して中立的な第三者の関与を経なければならないとする考え方につき、法務省は、立法準備作業の最終段階において、以下のような説明をしています。 「そのような仕組みを設けることは、協議上の離婚の要件が現状よりも加重され、国民に大きな影響を与えることなどから、慎重な検討を要するとの意見があった〔したがって採らなかった〕」というのです(「家族法制の見直しに関する要綱案のとりまとめに向けたたたき台」補足説明)。 しかし、これでは、ほとんど説明になっていないように思われます。要するに、「家裁の負担が重くなるからできない」というだけのことなのではないでしょうか。 でも、私は、現在の家裁でも、私見によるような形の関与、確認事務についていえば、その気になれば、可能ではないかと考えます。たとえば、右の事務については、弁護士から期間を限って採用する家事調停官(家事事件手続法二五〇条、二五一条)にも行わせることを可能にしかつその数を増やすなど、若干の制度的な措置さえ採れば足りると思うのです。 改正法施行後に、改正法による家裁の事後的な対応では不十分なことが明らかになった場合(多くの被害者が出た場合)には、そのこと自体大きな問題ですし、現在でも相当の批判のある日本の家裁のあり方に対する人々の信頼がさらにそこなわれる結果になりかねないように思います。 Q 瀬木さんは、現実的、実証的な自由主義思想の持ち主だと思うのですが、本書によれば、同性婚については、必ずしも諸手を挙げて賛成というわけではないようで、この点はやや意外にも感じました。 同性婚にはどのような問題があるとお考えでしょうか? このテーマは非常に微妙で難しいので、正確にはぜひ書物を読んでいただきたいのですが、なるべく正確さをそこなわないように簡潔に要点を述べてみます。 前提として、まず、同性婚という言葉の使い方に注意する必要があります。「同性婚」は、法的には、法律婚(普通の結婚)の一形態として同性間の婚姻をも認めることを意味します。これに対し、「登録パートナーシップ制度」は、婚姻外カップル(事実婚のカップル)の権利保護のために国家が創設するものですが、法律婚ではありません。 法的な保護は法律婚とほぼ同等ですが、その間に生まれた子は、普通の事実婚の場合と同様、とりあえずは婚外子となります。もっとも、父親が認知すれば、相続を含め、嫡出子(法律婚カップルから生まれた子)と同等の法的地位が保障されます。法律婚に準じる選択肢として、きわめて合理的なものです。 対象は、同性カップルとする国がより多いものの、フランスのパクスのように同性・異性の双方を対象とする国もあります。 ところが、日本のメディア等が「同性婚」という言葉を用いる場合、この相違をきちんと認識していない例が結構多いのです。 私は、「登録パートナーシップ制度の創設は適切だが、同性婚を法律婚の一形態として認め、同性婚カップルが子をもつことを認めるかについては当面結論留保」という立場です。 Q 確かに、私も、その違いをわかっていませんでした。 同性カップルについても登録パートナーシップ制度は認めてよいが、同性婚を法律婚の一形態として認め、同性婚カップルが子をもつことまで認めることについては当面結論留保、ということですね。 その理由はどういうことでしょうか? 同性婚は、同性のカップルに、異性のカップルと全く同等の「法的な保護、権利」を与えることができるかという問題を提供します。具体的には、同性カップルが子をもつことを認めるかという問題です。 同性婚を法律婚の一形態として認めるのであれば、子をもつのを認めるのも当然ということにならざるをえません。しかし、その場合、子について、その意思や自己決定権を含む権利、利益、福祉一般をどう考えるべきかが問われます。特に、子の意思については、生まれてくる時点では、どうにも考慮しようがないという問題があります。 後になってその子がどう受け止めるかは、その時点では、知りようがありません。芥川龍之介の『河童』における河童の子は、生まれてくるかどうかの選択権を与えられていますが、人間の子はそうではないですから。 また、同性カップルの場合、その間に自然に生物学的な子が生まれることはありえませんから、養子縁組で他人の子をもらうのでなければ、何らかの「生殖補助医療」が必要になります。女性カップルであれば第三者男性の精子が必要ですし、男性カップルであれば、第三者女性による「代理懐胎」が必要になります。 しかし、代理懐胎については、出産者にも卵子提供者にも肉体的な負荷がかかります(卵子提供者も、排卵誘発剤の後遺症に苦しむ例があります)。そのため、貧しい女性がお金のためにやむなくこれを行うという事態になりかねず、特に、発展途上国の女性が利用される例が世界的に問題になりました。 また、同性婚に限らず、不妊の異性カップルの場合にも用いられる非配偶者精子による人工授精(AID)については、それによって生まれる子たちがその事実を知ると、激しいアイデンティティークライシスにおちいる例があります(異性カップルの場合には、その事実は、知らされなければわかりませんから)。この問題は、子の側からみた、いわゆる「自己の出自を知る権利」の問題としても現れてきます。 したがって、同性婚カップルが子をもつことを認めるか、その場合の生殖補助医療についてはどこまでを認めるかという問題については、民法・家族法学者の間でも、法律実務家の間でも、諸外国でも、意見がさまざまに分かれているのです。 日本では、同性婚については、この本で論じている日本人の法意識から想像されるところとはいささか異なって、アンケートでも、賛成する人の割合が近年急増し、七割前後に至っています。しかし、同性婚は、少なくとも、同性婚カップルが子をもつことを認めるかという点については、考えておかなければならない多くの問題を含むのが事実で、保守なら反対、リベラルなら賛成といった、「パッケージ的に結論が決まってくるような単純なテーマ」ではありません。 Q なるほど。要点をうかがっただけでも、考えなければならない問題が多いことがよくわかります。 私は、このテーマについては、先のような諸問題についての十分な検討を経、また、これを認めた諸外国における制度検証の結果をみた上で、さらに、それらを踏まえての社会における十分な議論をも経て、決せられるべき問題と考えます。 ただ、民事訴訟法・関連法社会学の研究者であり元法律実務家である私としては、この問題については、「親の、子をもつ権利」、「子の側の福祉、利益、アイデンティティー等」の二つの要素のうちまず重きを置くべきなのは、後者だと思います。どのようなかたちで生まれ、どのような親をもつかを、子は、その時点では選べない。つまり、子にとって、生まれてくることには先のとおり選択の余地がなく、その意味では強制的な事柄であるのを念頭に置いた上で、子の福祉、利益等々が考慮されるべきでしょう。 もっとも、日本でも、同性カップルが直面している種々の問題に関する当面の解決策として、先にも述べたように、登録パートナーシップ制度を国家レヴェルで創設することは考えられると思います。これによって認められる法律上の効果は、財産関係、身分関係、年金・税・労働・医療関係等多岐にわたり、その結果として、同性カップルが直面している問題の多くが解消されるからです(なお、日本の地方自治体や民間企業が設けている登録パートナーシップ制度は今でもありますが、これは事実上のものであって法的なものではなく、その効果も区々に異なっています)。 また、登録パートナーシップ制度の対象には、同性カップルだけでなく異性カップルも含めてよいと思います。カップルの多様な選択を認めることによって社会の風通しがよくなり、婚外子も普通のことになって、これに対する偏見もなくなるという効果があります。出生率向上にもつながるでしょう。もっとも、子どものための福祉・保障の充実がその前提条件にはなりますが。 Q いやあ、アンケートもいいですが、まずは、前提として、こうした知識の普及も必要ですよね。 そうですね。日本人の法意識の問題にフォーカスを戻しますと、たとえば先のようなアンケートの結果が、「はたして、こうした事柄についての日本人の十分な理解を前提としているのだろうか?」という懸念は覚えるところです。 解答の方向というかニュアンスは異なりますが、死刑制度に関するアンケート等についても、前提となる、問題の所在についての法的知識の普及の不足、法意識の問題は同様に感じます。 また、これは共同親権論争でもあったことですが、同性婚を含め家族法領域の諸問題は、党派的な対立を生みやすく、政治的、イデオロギー的な右派や左派が関与すると、そうした傾向がさらに助長されます。そうすると、相互にひたすら相手側の非を言い立て、揚げ足をとるという不毛な論争におちいってしまい、適切な解決が導けなくなります。最低限、みずからの思想、信条、心情はひとまずおき、異論にも謙虚に耳を傾ける姿勢が必要でしょうね。 各種の運動やキャンペーン自体はさまざまな方向性のものがあり、また、それらは広い意味における政治の領域の事柄かもしれませんが、「適切な法的規制・規整のあり方」については、それらとは一線を画し、客観的で緻密な議論と調査の上に打ち立てられるべきものだからです。

瀬木 比呂志(明治大学教授・元裁判官)

なぜ日本では「国際標準」を満たさない法が定められるのか?…日本人の法意識にひそむ「闇」を暴く!

11/12(火) 6:34配信




本記事では、〈「別居期間が長くても相手が合意しないと離婚できない」という日本の制度は、じつは先進国では少数派だという「意外な事実」〉にひきつづき、共同・単独親権めぐる法意識につき、そのあるべき姿をも見据えながら検討します。

※本記事は瀬木比呂志『現代日本人の法意識』より抜粋・編集したものです。
共同親権論争と法意識

離婚後の父母の親権については、従来はいずれか一方が親権をもつという単独親権制度だったが、2024年5月成立の家族法改正(2026年施行予定)の結果、「父母の協議により共同親権か単独親権かを選択し、合意ができない場合には当事者の請求によって家裁が親権者を定める。裁判所は、DVや子への虐待を認めた場合などには単独親権とする。また、裁判所は、子またはその親族の請求により事後的に親権者を変更することができる」との内容に改められた。

共同親権制度導入の是非については、上の改正前に共同親権論争などと呼ばれる論争がさかんであったことから、ご存じの方も多いと思う。そして、この問題については、人々の意見、法意識が、なお、区々に分かれているといえよう。

そこで、制度のあるべき姿はいかなるものかという観点から考察してみたい。

私は、共同親権それ自体は、「両親と子、また両親どうしの関係に問題がない場合について認めるというのであれば」望ましい制度と考える。

もっとも、海外の制度は、家裁等関係機関の注意深い監視とケア(たとえば、一方の親に何らかの問題があれば家裁等関係機関が即時に介入して適切な処置をとるなど)とセットになっている。しかし、こうした関係機関の機能が十分に果たされていない(むしろ、手つかずというほうに近い)日本では、適切な制度的手当てのないままにこれを実施すると、さまざまな問題や紛争が生じるおそれが大きい。

これについては、妻の側がより被害を被りやすいとの意見が、法律家には多い。私自身も、離婚訴訟、人身保護請求、いわゆるDV防止法による保護命令申立て事件等の経験から、妻のほうに問題のある事案も中には存在する(拙著『民事裁判入門──裁判官は何を見ているのか』〔講談社現代新書〕213頁以下)ものの、全体としてみれば、妻の側がより被害を被りやすく、その程度もより大きなものとなりやすいのが事実と考える。

典型的な問題例としては、「肉体的・精神的被害にあっている妻が、離婚の条件として共同親権をのまされ、それが、元夫が元妻に影響を及ぼし続けるための手段として利用される」というものが挙げられている。

人間どうし一般の関係で何が難しいといって、「第三者が関与しない二人だけの関係で、一方の側に性格的、人格的な問題がある場合のそれ」ほど難しいものはない。被害を受ける側は、徹底的な我慢と忍従を強いられる。日本のように、「結婚、離婚は当事者の問題」という意識が強い国では、ことにそうなりやすい。これについては、私は、これまでの法律家、学者としての経験から、断言できる。



写真/森清

こうした問題を考えるなら、従来の単独親権制度を維持すべきだったという考え方にも相当の理由はある。

また、離婚後共同親権の適切な実現に向けて第一歩を踏み出すということであれば、その要件については、(1)とりあえず、「両親と子、また両親どうしの関係に問題がない場合」に限定するとともに、(2)「当事者の申立てに基づき簡易な審理を行った上での家裁、あるいは家裁の監督する機関の許可」を必要とし、家裁等が当事者の意思や具体的な共同親権行使の方法(子が両親の間を、週末等に、あるいは相互に期間を決めて行き来するのか、一方とは面会交流のみが原則かなど)について確認した上でこれを認めることとするのが相当だったと考える。

父母間の協議だけで離婚後共同親権を認めると、前記のとおり、力関係の弱い者が合意を強いられるなどのことから種々の問題が生じて収拾がつかなくなり、ひいては子の福祉にも大きな悪影響を及ぼし、制度の信頼もそこなわれるおそれが否定できないからだ。

以上の前提として、日本社会では、今なお、法的な問題が生じ、かつ当事者間の対立が激しい場合に、双方が、とりあえず感情を離れ冷静に話し合って解決する伝統にはいささか乏しいという事実も、考慮されるべきであろう。なお、冷静な話合いによる解決については、「そういうことができる夫婦は、日本では離婚しません」とある家裁判事が述べていたとのエピソードを、家族法の専門家である水野紀子教授が引いている。確かに、これは、家裁裁判官ならではの鋭い感想であり、正しい部分を含むかもしれない(水野紀子「講座『日本家族法を考える』」〔法学教室四八七号以下に連載〕の第12回。以下、この連載については、単に、「水野第○回」として引用する。なお、水野教授は、著者の友人で時に意見交換をもする仲である)。

すでに述べたとおり、本来、離婚については、裁判所が必ず何らかのかたちで関与し、子の親権を含む重要関係事項について最低限のチェックを行うのが適切であり、また、「現在ではそれが明らかな国際標準」なのである。日本の家裁、また関連制度も、この方向に進むべきだろう。そして、「少なくとも、当事者に離婚後共同親権の希望がある事案についてだけは、必ず裁判所等が離婚に関与する制度」の構築は、そのための望ましい第一歩となったはずである。
家裁の問題

そもそも家裁は、関係諸機関と連動し、適切に各種の命令等を発して、家族、ことに弱い立場に置かれやすい者(主として、妻や子)を法的に守る役割を果たすべきものであり、欧米の制度は、基本的にそのように設計されている。しかし、残念ながら、日本の家裁は、現代の家裁として本来果たすべき上のような役割をあまり果たせていない。抜本的な制度改革が求められているのである。

近代法は、どの分野でも人々の自力救済を禁止し、国家が人々に代わってその権利を実現し、これを守るという原則によっている。たとえば、貸金の違法な取立てはできず、判決を得て強制執行の方法によらなければならない。そして、欧米では、戦後、この自力救済禁止の原則が、家族法領域でも徹底してきたといえる。

しかし、日本は、全くそうではなく、国際標準の「現代」が実現できていない。典型的には、DVを受け続けている妻が子(親が受けるDVを見ている子も、みずからへの体罰・暴言同様に、脳にダメージを受ける)を連れて着の身着のまま実家や兄弟姉妹、友人知人の家に逃げる、身を隠すという事態が、現代日本における「自力救済」の典型といえよう。加害者の行動が国家によってチェックされず、被害者のほうが逃げざるをえない。つまり、被害者の人権が国家によって実現されず、被害者がみずからこれを守るほかない。そのような意味で、自力救済的なのである。

これに対し、たとえばフランスでは、裁判官がすみやかに「DV保護命令」を発し、接触禁止、被害者の医療費負担、住居裁定(原則として従来の住まいは被害者側に割り当て、その費用は加害者がもつ)、住居所の秘匿と連絡先を弁護士等とすることの許可、親権行使、面会交流、婚姻費用(生活費)分担等について定める(水野第12回)。極端な違いのあることがおわかりだろうか。

日本では、こうした制度の前提となる社会的インフラも脆弱である。裁判官だけをとってみても、現在の家裁は限られた申立てに受け身で対処しているだけのため、裁判官の執務負担も、たとえば民事事件担当裁判官に比べると軽いが、前記のような機能を果たさせることになれば、とても数が足りない。

対策としては、たとえば、弁護士等の在野法曹を一定期間以上経験した者の中から裁判官を選任する「法曹一元制度」により家族法に興味をもつ弁護士を多数採用する(法曹一元では、こうしたことも可能になる)、あるいは、現在の司法試験とは別建ての家裁裁判官任用試験を作り、法律科目の負担を多少減らす代わりに、家族法、少年法、また関連諸科学系科目も一部受験科目に含めることにして、家裁専門裁判官を多数養成する、といったことが考えられる。逆にいえば、そうした抜本的な改革でもしない限り、日本の家裁の機能不全は解消しにくい。



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政治家の横暴

共同親権に関する改正準備作業については、離婚経験のある男性側が自民党の一部に強く働きかけたのがきっかけで始まった側面がある。そして、2022年8月には、自民党の法務部会が、法制審議会の「中間試案」の取りまとめの段階で、「単独親権制維持と共同親権導入の両論併記とする案はわかりにくい。原則共同親権であるべきだ」などと文句を付け、その結果、法制審議会家族法制部会による中間試案の取りまとめが三か月遅れるという異例の事態となった。

しかし、法制審議会への諮問の結果として出てきた案についてであればともかく、中間試案の取りまとめ段階、つまり未だ審議中の段階で、政治家がその内容を気に入らないとしてくちばしを容れるのは、専門家や世論の代表者等から構成される法制審議会部会の審議の方向性を左右しようという傲慢な態度というほかなく、きわめて異例のことなのである。

さらには、中間試案についてのパブリックコメント(意見公募)のためのサイトに掲載された法務省作成の資料(本来法務省が中立の立場で作成すべきもの)についても、共同親権推進派の自民党議員が作成にかかわっていたことが判明するという、これまた異例の事態が続いた。このような関与も、手続的な公正さを欠き、不適切であろう。

国会議員は、本来、本当の意味における国民の代表者として、公正、誠実、透明に政治家としての責任を果たすべきであるにもかかわらず、こうした行動を平然と行い続けるのは、信じがたく、唖然とするほかない。特に、前者の行為は、まるで、「後進国の出来事」である。法律家、学者として、「自民党の、政治家の劣化は、ここまで進んでしまっているのか?」との危機感をもたざるをえない。なお、この危機感は、私だけのものではなく、法律家、学者たちに一般的なものである。
改正法の含む問題

さて、前記の改正法は、「離婚後共同親権の希望がある事案についてだけは必ず裁判所が離婚の時点で関与する」という私見とは異なり、これを原則当事者の協議にゆだね、家裁の関与は、「問題がある場合の関係当事者による親権者変更の申立て」を待っての二次的なものにとどめている。しかし、このような制度によって、力の弱いほうの配偶者が離婚を成立させるために共同親権を受け入れさせられる事態がほぼ避けられるのか、いささか疑問を感じる。

私見を含め、協議上の離婚をする際には親権者の定めに関して中立的な第三者の関与を経なければならないとする考え方につき、法務省は、立法準備作業の最終段階において、以下のような説明をしている。

「そのような仕組みを設けることは、協議上の離婚の要件が現状よりも加重され、国民に大きな影響を与えることなどから、慎重な検討を要するとの意見があった〔したがって採らなかった〕」(「家族法制の見直しに関する要綱案の取りまとめに向けたたたき台」補足説明)

だが、これでは、ほとんど説明になっていないように思われる。要するに、「家裁の負担が重くなるからできない」というだけのことなのではないだろうか。

家裁事件数は、増加している事件は形式的な内容のものが多いとはいえ、近年増加傾向にある。私が裁判官だった十数年前には家裁裁判官はかなり余裕があり、定時に仕事が終えられるような状況だったが、今では、あるいは違うのかもしれない。しかし、私は、現在の家裁でも、私見によるようなかたちの関与、確認事務についていえば、その気になれば、可能ではないかと考えている。たとえば、上の事務については、弁護士から期間を限って採用する家事調停官(家事事件手続法二五〇条、二五一条)にも行わせることを可能にし、かつその数を増やすなど、若干の制度的な措置さえ採ればよいのである。

いずれにせよ、共同親権制度の運用については、家裁の主体的、積極的な姿勢が試される。その施行後に、改正法による家裁の事後的な対応では不十分なことが明らかになった場合(多くの被害者が出た場合)には、そのこと自体大きな問題であるのみならず、現在でも相当の批判のある日本の家裁のあり方に対する人々の信頼がさらにそこなわれる結果になりかねないからである。



さらに【つづき】〈配偶者の不貞の相手に慰謝料を請求するのは、「配偶者をモノのように支配している」との思想から!? 「不貞慰謝料請求肯定論」の根底にある「配偶者は自分の所有物」という考え〉では、不貞めぐる法意識について、くわしくみていきます。



本記事の抜粋元・瀬木比呂志『現代日本人の法意識』では、「現代日本人の法意識」について、独自の、かつ多面的・重層的な分析が行われています。ぜひお手にとってみてください。

https://gendai.media/articles/-/140884?imp=0