KADOKAWAから今月翻訳出版される予定だった『あの子もトランスジェンダーになった SNSで伝染する性転換ブームの悲劇』(アビゲイル・シュライアー著、岩波明監訳)という本が刊行中止になった、という話を、東京新聞の夕刊コラム「大波小波」で知った。初めてこの話題が取り上げられたのが昨年12月8日で、その後、私の気づいた範囲では、今月15日まで5回にわたって取り上げられた。日付とコラムのタイトル(筆名)を時系列的に記すと――
12月 8日 「トランスジェンダー本の刊行中止」(魔女)
12月14日 「出版中止は「検閲」ではない」(シュトーレンには紅茶)
12月19日 「「出版中止」への不安と憶測」(丸川)
12月22日 「KADOKAWAへの注文」(無粋)
1月15日 「SNS時代の出版社の役割」(有粋)
この件について、私は普段読んでいる東京新聞の他の記事でも朝日新聞電子版でも全く目にしたことがなかったので、それに比べると、「大波小波」は異様にこの件に熱心なように思われる。もっとも、このコラムの筆者はすべてペンネームなので、上の記事も5人が書いたとは限らない。特に最初の2つのコラムは主張内容がほとんど同じ、というか、2番目のコラムは1番目のコラムを補強する内容なので、同一人物が書いたとしても全く不思議ではない。
「魔女」氏は、同書について、冒頭で「トランスヘイトだと批判されていた」と紹介し、「性自認と性的指向を「流行」とする発想は古典的な反LGBT論法だ」と批判したうえ、「刊行中止を「言論弾圧」とする意見もあるが、これは違う」、「抗議を受けて刊行中止を判断したのは企業ガバナンスの結果。弾圧でも検閲でもない」と主張している。同書は、(ネット等で紹介文を見る限り)トランスジェンダー医療のあり方だけを扱っているようなので、「性的指向(LGB)」の問題とは無関係のようであり、それを一緒くたにして「反LGBT論法」との言葉で切って捨てるのはあまりにも乱暴な主張に思われるが、それはさておき、ここには、同書の内容がトランスヘイトであるか否か、という内容自体をめぐる争点と、そうした争点を含む本の出版中止を求めることの是非、という2つの争点があることがわかる。
ところが不思議なことに、というか、出版されなかったので当然なのかもしれないが、これら5つのコラムはどれも内容自体の是非に踏み込んで論じたものはなく、いずれも出版中止の是非の争点に終始している。おそらく誰も同書を読まずに論評しているのではないかと思われる。
例えば、「シュトーレンには紅茶」氏は、内容自体については、「トランスジェンダーに対する差別を助長、扇動するおそれがある」、「差別を広める可能性がある」と可能性の問題として触れているだけであり、そうした可能性がある以上、議論の必要すらなく、出版すべきではないという立場のようだ。「丸川」氏は「トランスヘイトを煽る要素が多々盛り込まれていた」と述べているが、具体的な指摘はひとつもなく、実際に読んではいないだろう。「邦題はあまりに扇動的で、「性転換」も「性適合」と記載するべき」だと述べているが、全く頓珍漢だろう。「SNSで伝染する性適合ブームの悲劇」では、全く同書の主張が伝わらないだろう。トランスジェンダーたちの運動によって、「性同一性障害」は精神障害の枠から外され「性別違和」と表現され、「性転換手術」は「性別適合手術」と呼ばれるようになった。それ自体はいい。しかし同書が問題としているのは、ブームにのって自分もトランスジェンダーだと思い込んだ人が、事前の丁寧なカウンセリングもなく、性別を変える手術を受けた結果、後で後悔する(なかには自殺する)という事例もある、ということなのではないのか。私は同書を読んでいないが、同様の事例が欧米でたくさんあることは、ダグラス・マレーの『大衆の狂気』で読んだ。このような手術を「性適合」手術と呼ぶのは適切ではあるまい。「丸川」氏は内容も考えず、ただただ言葉を言い換えれば差別ではなくなると信じ込んでいる素朴なポリコレ人なのであろう。ちなみに上記『大衆の狂気』はアマゾンで71件の評価で4.5となっているが、これもトランスヘイト本なのであろうか。著者のダグラス・マレー氏は自らゲイであるとカミングアウトしているが、これも「反LGBT論法」なのであろうか。
いずれにせよ、上記5本のコラムは、内容の是非について踏み込んだ議論は一切なく、ひたすら出版中止の是非のみを論じている。このうち、魔女、紅茶、有粋の3氏(あくまでペンネーム上の人数だが)が出版中止に賛成、丸川、無粋の2氏が疑問を呈している。
魔女氏の主張は先に紹介したが、紅茶氏は、これを補強すべく、「中止の判断をしたのは出版社であり、これを検閲だと責めるのはおかしい。検閲は、権力によって行われるものだ」と主張している。権力による検閲はいけないが、出版社の自主規制による言論委縮は何ら問題ではない、という立場のようだ。さらには、「本を読んでから判断しろ」という主張に対しては、「差別を広める可能性があることは、元本から推測できるから」賛同できないそうだ。
丸川氏は、「発刊を批判した人たちをまるで検閲者の様に捉えるネット上の声も少なくない」ことに懸念を表明したうえで、「扇動的な訳を廃し、科学的論拠を問い直すなどを条件に出版自体は認め、公明正大に批判した方が差別撤廃に役だったのではないだろうか…」と恐る恐る出版停止に疑問を呈している。
無粋氏は、「有害書籍かどうかを判断するのは一般読者であり、社会である。その判断の機会を奪うのはいかがなものだろう。多様性の擁護が、判断の多様性の封殺につながる逆説は避けたい。安易な刊行中止は、悪書の流通以上に社会に有害かもしれない」と、正論を述べている。
これに対して「有粋」氏(「無粋」の反対?)は、「同書の問題点は欧米で既に指摘・批判されたのに、なぜ企画を通したのか」と問い、一定の「基準に満たない著作は世に出さないと思うのが当然だ」と述べている。
しかし同書は欧米で批判ばかりされたわけではない。この問題を分析した社会学者の千田有紀氏によれば、原書の『Irreversible Damage: The Transgender Craze Seducing Our Daughters』は、英国の『エコノミスト』誌の2020年の「その年の本」、2021年の同じく英国の『ザ・タイム』紙と『サンデータイムス』紙のベスト本に選ばれ、10カ国で翻訳されている話題の本だという。欧米で問題点が指摘・批判されたから出版すべきではない、というのは、あまりにも一面的かつ短絡的な主張である。しかも一定の「基準に満たない」から出版すべきではないと思ったのは誰なのか。千田氏によれば、KADOKAWAが出版告知をして以降、「トランスジェンダーを殺すのか」「トランスの方々が自殺する」「人殺し」という批判の言葉が多数寄せられ、SNSなどで出版に反対する声が上がり、KADOKAWAとは仕事をしないという著者が現れたほか、KADOKAWAの社屋の前で抗議集会も計画されたそうだ。彼らは原書を読んだうえで批判したのか。おそらく圧倒的多数はそうではあるまい。読まずに批判する人たちの判断によって出版中止に追い込まれたというのが真相であろう。
実はこうした問題は本書だけの問題ではなく、日本だけの問題でもない。千田氏によれば、トランスジェンダーをめぐる議論の有名なスローガンに、「ノーディベート(議論禁止)」があるそうだ。トランスジェンダーに関しては議論自体が許されず、議論しようとする姿勢自体が差別となるという考え方で、いったん「トランスヘイター」という烙印を押された著述者には、永遠に発言の場(プラットフォーム)を与えないようにしようという運動があるという。この問題は『大衆の狂気』の中でも詳しく紹介されていた。そうした事例の日本における最近例が同書の出版中止問題だったのである。