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言葉との向き合い方


私は言葉を大切にしたい。

目に見えなくても共通の言語のようなコミュニケーションツールを持つ生き物はいるという。
例えば、イルカは発する音声を使って会話をするという説を耳にした。

でも、視覚的・聴覚的の両方で、この目に見えない思いをなんとか形にする術である言語を持ち合わせているのは人間の特権だ、ろう。おそらく。
(この財産を残してくれた人類の祖先方に感謝。)

だから、大切にしたい。

一方で言葉を超えた願いや思い、世界もある。

だから言葉が全てではない。

言葉は全てを現してくれるものではなく、その一部をなんとか形にしたものに過ぎない。
また言葉はぞんざいに扱われることもあるだろう。
故意か否かは時と場合によって、思いと逆の意図の言葉を発してしまうこともある。

(以前、言葉の受け取り方の記事を書いた。↓)



言葉だけに寄りかかるのもリスクのあることだ。
誰かが"そう言ってくれた"と感謝して前を向ける、何かを決めるきっかけをもらうこともあるだろう。
でも、"それはそれ"なのだ。
言葉=その人の人柄全てではないのだから。
その言葉だけを受け取ればいい。
もっと言えば、誰が言っているのかはあまり関係ないこともあるのかもしれない。
何かを言ってくれた人が次にとった行動が、自分の視点から見て、その言葉からかけ離れていたとしても、何にも咎めることにはならない。
またともすれば思いがなくても、綺麗な言葉を編み出すのは技術があればいとも簡単なのだとも思う。
これは何も批判的にばかり見て言っているのではなく、言葉そのものは"悪"ではないでしょうという意味合いもこめている。
例えば、有名な作詞家兼歌手の方の歌詞の言葉に励まされていたが、その人の道徳倫理に欠けるような行いが公に発覚し、その曲まで遠ざけるようになることがある。
ある人は言う。"作品に罪はない"と。
本当にそうだ。言葉そのものに罪はない。
かと言って、言葉と行いがあまりにもかけ離れてしまうと人は多かれ少なかれ説得力を失うのは間違いないのだと思う。
(ただし、相手のことを思う嘘はこのかぎりではない。)

そして、私を含む人の言葉の無責任さはやはりどこまでも否めない。

"言葉選びを大切に"と心がけてはいるものの、私が発するそれは正確ではない場合もある。
自分の見当違いもあれば、誤解されて伝わってしまったりもある。
だから難しい。
間違いや誤解は、相手とのコミュニケーションの中で必要が生じれば、その都度謝りたい。
しかし申し訳ないことに、それの全てを私は背負えない。
それを考えると怖くて言葉を全く発することができなくなる。
だからせめて、自分の言葉が相手を意図せず傷つけたりはしませんようにとはそっと願っている。
だけど人間なので。
お互いさま、自分の発した言葉を記憶しつづけられない。

「あなたが〇年前に言ってくれたこと、今でも心に残っていて。」と言ってくれた友人が何人かいる。
でも当の本人は言われるまで、その言葉をすっかり忘れていた。
まだこれはいい方で、「そんなこと言ったかな」と思い出せないこともある。
そう言ってもらえると、いつも自分の中に"覚えてくれていたんだ"という思いと、"私なんかまずいこと言っていなかったか"という緊張感が同時に走る。

その度にやはり、言葉を扱うのは、丁寧にきめ細やかにと、自分の襟を正す。


形なきものを形にあらわしてくれる言葉。
同時に思いや意図に反する形を生み出してしまう言葉。


扱い方をよく考えなければならないもの、と私は認識している。
それを踏まえた上で、
せっかく与えてもらってるこの特権を私は大事にしたい。
かといって言葉はそれ以上でも、それ以下でもないのかもしれないということをしっかり知っておきたい。

私自身は、言葉一つ一つを丁寧に選んで生きていければいいなと今改めてふと思って、ここに記している。

本日もありがとうございました。
間違いとかおかしいことも言っているかもしれませんが、全てただの私の個人の感想を聞いてあげたんだということで、大目に見てやってくだされば幸いです。

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