人として軸がぶれている
「もっと小町ちゃんと長時間のセックスがしたい!」
ジョギングする決意を固めたのは、そんな些細で不純なきっかけだった。
福岡に着任してひと月。ようやく転勤疲れも治まった頃だったので、久しぶりに風俗で遊ぶことにした。その子とは話が盛り上がって、最終的にそういうことになったのだが。。。腰を揺らそうにも非常にぎこちなく、30秒過ぎたあたりでハアハアと息が切れてしまう。そもそも経験も乏しく、この10年で体重が60kgから最大100kg手前まで増えてしまい、まったく自分が思い描くように身体が動かなくなっていた。最終的には彼女に頑張ってもらったので何とか落着したのだが、これではダメだと思い、その翌日からジョギングを始めることにした。
170cm・92kg・体脂肪30%。こんな重い脂肪の塊を背負いながら全力で走るのか。と、膝が壊れてしまう恐怖にビビりながらも近所にある大濠公園の外周2kmを小走り程度で走り始めた。初日は1.5kmで足が痛くなり断念、2日目は2km走り切れたが左足が痛くなり数日間は走れなかった。そんなことを繰り返すたび、半月後には週4回程度は走れるようになっていた。生まれてこの方、一度も走ることを楽しいと思ったことは無かったが、走っている最中に「無」になれる瞬間、走り終えた直後に酸素を一気に体内へ取り込んでハイになる瞬間が何とも言えない心地よさで、いつのまにかジョギングすることが毎晩の楽しみになった。そして、いつしかアルコールやマスターベーションなどの快楽へ逃げる欲求もとんと薄くなってしまっていた。
ジョギングを続けるうちに気づいたことがある。それは「軸」だ。
無駄のない綺麗なフォームを維持して走ろうとすると、途中で歩調が乱れたり、腕の振りが遅くなったり、腰が引けたりしてくる。ここが恐らく体幹と呼ばれる場所なのだろう。「ここ鍛えたら上手くいくんじゃね?」と、その日から我流のぼんやり論理で綺麗なフォームで走ることだけを心掛けて走り始めた。そうするとジョギングの最中が楽しくなってくるもので、自分自身の身体と確認し合いながら走り続ける。
「腰!あと1kmだから頑張れ!」
「きょうは足が重いな。鎖骨から大きく腕を振るぞ!」
このような指示を脳内会議で出しながら走っている感覚が、とても幼稚で、とてもスピリチュアルまがいで、とてもワクワクする心持ちだった。
そんな子供じみたトレーニングごっこを日々繰り返していると、
「前傾姿勢で、身体の軸を中心に腕と足を振れば進んでいくんじゃね?」
現時点でジョギングの「仮説」に辿り着いた。これだけ意識していれば、他のことは何も考えずに、疲れて身体が止まるまで自然と時間と距離が進んでいくのだ。これが普遍的な正解なのかは判らない。ただ、このことに気づいてから、翌日の疲れも薄まり、タイムも着実に縮んできている。どうしてこんな簡単なことを親も学校も教えてくれなかったのだろうか。また、これを先天的に気づいて実行できる人物を「運動神経が良い」と世間は呼ぶのだろうなとも考えてしまった。今年10月で34歳を迎える私にとってはジョギングの走り方ひとつでも大発見なのだ。
こうなると、自分の「軸」がどこにあって、どんな強度なのか、それに付随している「筋肉」(細かいスキル)はどこまで発達しているのか。考えずにはいられない。ビジネスにおける働き方の「軸」、対人関係におけるコミュニケーションの「軸」、エンタメ関連における楽しみ方の「軸」。いまはこれしか思い浮かばないけど、他にもたくさん「軸」があるはずだ。いろいろ生活環境の変化もあって、これまで以上に自分の時間を使える機会が間違いなく増えるので、この福岡にいる間に「軸」を鍛えて、その枝葉である「筋肉」も増やして。もっと自分がイメージしたように歩んでいけるようになりたい。これまで避けてきたジョギングと向き合ったことで、少しだけ自分の可能性が増えたような気がした。
こんな偉そうな能書きを垂れているけど、仕事が立て込んで時間に追われる日々、精神的に疲れて急な憂鬱が訪れる日々が突然襲ってくるかもしれない。そうなったときが一番厄介なのは痛いほど理解している。何に動けない。何も考えられない。自分がイメージしたように身体が動けないことほど辛いことはない。昨年までは、社内でブラックな部署に配属されていたこともあり、私自身も精神・肉体ともに参っていた。アイドルに逃げて、AV女優に逃げて、風俗に逃げて、チャイナエステに逃げて、そして支えられていた10年間だった。ただ上記の存在に感謝すれど、これからの10年間も全く同じ人生を歩みたいとは思わない。色々なことを考えられる環境が整ったのだから、せっかくだから正面から向き合った楽しい人生を送りたい。もし今後、外的要因や環境変化、心身の老化で痛々しくブレてしまっていても、しばらくしたら元の場所へ戻せるように複数の軸で支えてたい。私は悔いのない未来を自分自身の手で掴みたい。ようやく人生を前向きに思えるようになった。
こういう御時世なので、現実でもネット上でも地に足が着いていない方々が多く見受けられるし、もしかしたら私自身も浮足だっているかもしれない。いつ夜明けが訪れるのか判らないが、その日まで私は自分自身とのブレに葛藤しながら、また何事も無かったように友人や知人たちと笑い合える日を心待ちにしたいと思います。私は私なりにブレずににヨナヨナ走り続ける。今日も明日もはしりゅ!
追記・10年ぶりくらいに記事タイトルの曲を聴いたんですが、リアルタイム(20歳ちょい)で聴くのと、三十路過ぎてから聴くのでは全然印象が変わってくるんだなあ。当時は「アタシがいるよ、気づいて」(コーラス)の歌詞に全然ピンと来なかったけど、いまなら何となくわかる気がする。あと、若いうちはブレてブレてブレまくっていいんだな。ちゃんと後ろで大人が見守っているうちはブレてもいいよなって改めて思った。大人にならなきゃいけないときに大人になればいい。私はそろそろ大人にならなきゃ若い子が困ってしまうんで大人にならんとな。ってことで、来月に大槻ケンヂ&久米田康治&絶望少女達の新譜が十数年ぶりに出るので、久しぶりにアニソンCDを買ってみようと思います。