この一曲(1)
Extravagant Gestures/ Dionne Warwick
曲にまつわる楽しい思い出、つらい思い出、苦い思い出、アホな思い出などを、書いていくシリーズです。
PSY・Sのメジャーデビューにあたり、1985年頃、大阪から東京都文京区白山にあるソニーのタレント寮に引っ越して1年暮らしました。当時、24歳~25歳。
私はそれまで一人暮らしをしたことがなく、東京のことも、地理やら何やらよくわからないので、一年の間に友達も作って、東京に慣れなさいという事務所からの配慮でした。
2階には6畳の部屋が6つあり、他の部屋には、おニャン子クラブのメンバーや、まだデビュー前の事務所預かりでレッスンだけしてる子などがいて、皆一回り年の若い子ばかり。
隣の部屋は渡辺美奈代さん、さらに向こうは国生さゆりさん、城之内早苗さん、工藤静香さんらでした。考えたらすごいですね。一緒にお風呂に入ったりしましたよ。工藤さんと初めて会ったのはその大きなお風呂の中で、でした。礼儀正しい感じの人で「工藤です」なんて挨拶してくれました。
賑やかそうで、華やかそうで、楽しそうに思われるかもしれませんが、当時の私は、なんか、寂しくてね。
PSY・Sは最初の1~2年、ライブはしないグループでした。それ以前は、週に2~3度はジャズクラブやライブハウスで歌っていた私は、歌う機会が全くと言っていいほどなくなり、毎日取材やラジオ番組出演等で上手に喋れず、大阪弁を少し笑われたりしていました。「大好きな、大得意な歌は、いつ歌わせてもらえるのだろう?」と。
もちろん取材も、ラジオに出させて頂くのも、ありがたいことなんですが、喋らなくていいから歌を!と思っていました。私のことは、どうか歌を聴いて判断してください!と思っていたのです。
その頃、Dionne Warwickの「Friends」というアルバムをよく聴いていました。毎日、夜中に一人で起きて来て、だだっ広いダイニングで、今でも大好きな漫画「のたり松太郎」を片手に、キャベツばっかり食べて、この曲をずっと聴いていました。(太っちゃいけないから、夜に食べたくなると野菜や果物なのです)The sun’s gonna shine again.という歌詞が励ましてくれてたのかもしれません。
同時にGal CostaのSua Estupidezも、よく聴いていたかな。この2曲ばっかり聴いて「私、このまま、どうなるのかな?」と思っていました。
大きな不安じゃないけど、なんだかね。業界のことは「なんで?」と思うことや「音楽はどこにあんねん?」と理解できないことだらけ。時代はバブル経済真っ只中で、みんな妙に浮かれていました。
「でもここで泳ぎ切らな、あかんねんな」と思っていました。
当時は、業界の人がよく行く有名なお店というのが都内に数件あり、ある時、何かの帰りにマネージャーたちと食事しに行った時、某人気雑誌の編集者も来ていました。少し前に何度か取材を受けた人でした。
その人は少し酔っていたのか?
「CHAKAは、ただちょっと歌が上手いだけの、なんの斬新さもない、よくいる浪花のファンキー・ブリブリ姉ちゃんでしかない。PSY・Sは、相方の松浦雅也で成り立ってる」と、真正面から私の目をじっと見つめて、馬鹿にするように、そう言い切りました。
私、当時25歳。成人はしていてもまだまだ若者です。今思うと、デビューしたての若い女の子にそんなこと言うなんて、すごい人ですね。
メジャーな音楽業界では、シンガーの多くが、歌は上手くとも、性格的にコマーシャリズムに乗れず、売れるという尺度と、業界のチヤホヤの世界に辟易としてやめていく人がいっぱいいると聞いていましたし、実際にやめていく人も何人も見ました。「あんなに歌の上手い人が・・」と思う人たちです。
私は、嫌なことがある度に、あの某・人気雑誌の編集者を思い出し。
「ありがとう。厳しさを教えてくれて」
「ありがとう。私の人生ドラマに悪役で出てくれて」
「ありがとう。私を強くしてくれて」
と思って、毎日、とにかく負けないことを願っていました。
そのうち、その願いは
「ちきしょ~、歌もよう歌わんくせに」と思って、頑張る気持ちに変わっていきました。色々と理解し守ってくれた、伊藤キッコーさんというマネージャーのおかげだと思います。
歌の練習と英語の勉強だけは、同じように続けていました。私は中一から還暦を迎える今まで、英字新聞や、洋書などの最低1ページを毎日音読することを続けています。最低1ページですから、めっちゃ読む時もあります。入院していても、修学旅行中も、絶対に欠かさないで来ましたから、死ぬまで続けようと思っています。
私が潰れてしまわなかったのは、常に歌とのつき合い方を変えなかったからだと思います。仕事がちょっとうまく行ったらレッスンをやめてしまう人、練習しなくなる人はたくさんいます。でも、私は違いました。歌と自分の間には、誰も入れさせませんでした。
その頃は、自分が寂しいから「業界の人ら」を皆一緒くたにして、一部の優しい人たちを除いて、どこか敵みたいに感じていました。ただ、普通の人たちだっただけなのに。
ある時、また別の人が、渋谷のうどん屋に連れて行ってくれたことがありました。関西風で美味しいとのことでした。
「大阪の人間を、東京のうどん屋へ連れていくとは、ええ根性しとるやんけ」と思いました。
一応、黒くない関西風のうどん。でも、別に美味しくはなかった。まぁまぁかな。値段はまぁ、高め。「こんなもんで、ありがたがってるのか」と、拍子抜け。そして、私は、こんなもんを美味しいと思うやつらに絶対負けへんわ、と思いました。(なんか変やけど、マジでそう思ってん)勝ち負けじゃないけど、そう思わないと潰れてしまいそうだったんです。連れて行ってくれた人には何の恨みもありません。
「見とけよ、ちゃんと泳ぎ切ったるからなぁ」
「誰よりもうまく、誰にも似てへん歌を歌うたる!」
「誰も、真似でけへん歌、歌うたる」
と。
そのうち、そんなことは忘れて行きました。
あの頃から、あんまり私自身は変わってなくて、時間がだいぶ経ちました。今となっては、何となくの顔しか覚えていないけど、あの編集者、元気にしていて欲しいな。
改めてこの曲を聴くと、Dionneってやっぱりすごいなと思います。そして、どれもいい曲ばかりです。
80年代!って感じの音とアレンジ。古いと感じる人がいるかもしれません。でも、歌詞などもそうですが、私は作られた時代の何かが曲に反映されていることは素敵なことだと感じます。当時は、派手なもの、ポジティブなものしか「あかん」と言われていましたっけ、ね。この曲は、当時(24~25歳)の私じゃなく、今の私が歌うに相応しい内容だと思います。
一度好きになったらずっと好きで聴き続けるので、私には懐かしい曲というものはほとんどありません。ただ、その曲と共に過ごした時を思い出したり、自分史というものを感じる一曲というものはありますね。
あの思い出のタレント寮。元々はソニーの創業者:盛田さんのご自宅だったと伺っています。あの建物が個人のお宅だったと思うと、日本って貧富の差すごくない?と思うほどの、白亜の殿堂とでも言うべきところでした。タレント寮だけではなく、一階や地下に大きな会議室も3〜4部屋あり、ソニーの社員の皆さんが泊りがけでミーティングできるような建物でした。
あのタレント寮「白山クラブ」は今でもあるのでしょうか?いつか時間ができたら、行ってみようかな。
Extravagant Gestures/ Dionne Warwick
作曲は大好きなBurt Bacharach
作詞は、Hal David亡き後、Burt BacharachがよくコラボしているCarol Bayer Sager