絶望を感じた時、人は映画を観る。
私は今絶望している。
理由はわからない。
社会なのか、仕事なのか、恋人なのか、何者かになりたいのに何者にもなれていない自分なのか。
デンマークの哲学者セーレン・キルケゴールは、かの有名な『死にいたる病』でこう著した。
絶望する者は、何事かについて絶望する。
一瞬そう見える、しかしそれは一瞬だけのことである。その同じ瞬間に、真の絶望があらわれる、あるいは、絶望はその真の相をあらわす。絶望する者が何事かについて絶望したというのは、実は自己自身について絶望したのであって、そこで彼は自己自身から抜け出ようと欲しているのである。
そうか、私は今自分という存在に絶望し抜け出したいともがいているのか。
キルケゴールはさらなる言葉を著した。
気絶した人があると、水だ、オードコロンだ、ホフマン滴剤だ、と叫ばれる。しかし、絶望しかけている人があったら、可能性をもってこい、可能性をもってこい、可能性のみが唯一の救いだ、と叫ぶことが必要なのだ。可能性を与えれば、絶望者は、息を吹き返し、彼は生き返るのである。
答えを見つけた。
可能性だ。可能性を感じればいい!!
私は可能性を探す手立てとして映画を観ることにした。
以下に私が可能性を感じた映画を簡単に紹介する。
○スポットライト 世紀のスクープ
米国の新聞「ボストン・グローブ紙」がカトリック教会の数十人もの神父による子供に対する性的虐待を、教会が組織ぐるみで長年隠蔽してきた、という耳を疑う様なスキャンダルを報じた。
教会の歴史と新聞の歴史には圧倒的な差がある。
例えそれがどれだけ真実であっても、踏み込む事はタブーとされてきたのだ。
その長年封じ込められてきた悪事を明るみに出すまでの顛末を描いている。
○象は静かに座っている
舞台は中国の小さな田舎町。
登場人物は年齢の異なる4人、それぞれが日常に蔓延る利己主義に満ちた社会に絶望を抱いていた。
彼らは2300km離れた果て、満洲里に1日中ただ座り続けている奇妙な象が存在すると知る。その象にわずかな希望を見つけた。
世界の果てを見に行けば、きっと未来が変わると信じて、4人は希望に向かって歩き出した。
○存在のない子供たち
12歳の少年が裁判を起こした。
もう一度書く、12歳だ。
訴えた相手は自分の両親、「僕を産んだ罪」で彼は訴訟を起こした。
少年は中東の貧民窟で生まれ、両親が出生届を出さなかった為に法的にはこの世に存在しないことになっている。
自分が誰なのかわからないのだ。
そんな子供たちが溢れるほど沢山いた。
中東で現実に起こっている貧困・移民問題に切り込み、フィルムを通してその有様を鮮明に映し出す。
以上の3つである。
「いや、紹介文読む限りさらに絶望しそうな内容だけど大丈夫かよ…!?」
と思っただろうか。
暗い気持ちの時にはよく、明るい映画を観よう!
とミュージカルやサクセスストーリーを含む映画が好まれる傾向が強い。
もちろんそういった映画で気分を上げるのは良いことだと思うが、私の場合それはわずかな気晴らしに過ぎないと思っている。
時が経てば、いずれまた絶望がやってきてしまうのだ。
なので、深く、より深く考えることのできるドキュメンタリーを観る事をお勧めしたい。
可能性という光が見つかりますように。
アディオス!
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