つゆ

大好きなうさぴーへ

だれにも言わずにおきましょう
朝のお庭のすみっこで
花がほろりと泣いたこと
もしもうわさが広がって
ハチのおみみに入ったら
悪いことでもしたように
蜜を返しにゆくでしょう

これは、金子みすゞさんの『つゆ』。覚えているまま書いたので、漢字の箇所とか句読点とかは違っていると思います。小学校2年生くらいだったかしら、こくごの教科書に金子みすゞさんの詩が出てきて、刺激されて初めて手に取った詩の本には、その詩を読んだ小学生の感想が一緒に載っていました。『つゆ』に関しては、意味がわかったとかなんとか書いてあって、それで初めてうーーんともう一度見つめてみてやっと、「花が泣いた」という意味がわかったのです。多分、文字から言外の意味を汲み取った最初の体験でした。今なら言外とすら思わないかもしれないけれど、そんなわけで私はこの詩がたいそう気に入ったのです。

金子みすゞさんはいろいろ苦労した方と習って、そんなに苦労した中でこんなに優しい詩をかけるのだな、と子ども心に感心した覚えがあります。苦労したからこそ優しくなれるんだ、という方向のつながりが自然に感じるようになったのはいつだったか、境目がまるで見えないのです。幸せな時に良い芸術は生まれないのかもしれないね、残念ながら。とこの間言われて、とっさに猛烈に反対したくなって、ずっと試みているのだけれど、残念ながらきちんとした反論ができずにいます。どっちなんでしょうね。

たしかに、私が芸術の力に頼らずにいられなくなるのは寂しい時や悲しい時です。あたたかいことば、まるいことばに助けを求めるのです。思い出の音楽に体を委ねるのです。わざと鋭い角に向かっていくこともあるのかも。いけないとわかっていながら戦うのに疲れてしまったら、いつか痛みが快感に適応的に変化してしまうのかな、なんて考えたりします。いやだな。そしてたしかに、そういう時に書いた文章はたとえば、後から読んでおもしろいから悔しいのです。

でも一方で、あふれ出る幸せを眺めることでしか得られない喜びもあって、そういう芸術のあり方もあきらめたくありません。苦しみを経たどこか健気さの残る幸せがことさらに美化されがちで、雨上がりの雫のような光り方をするそれが私も大好きなのだけど、ただひたすらに輝いている圧倒的な幸せパワーをもっと吸収していきたい。というより、そういう幸せな時には精一杯あけっぴろげに喜ぶことをお互いに約束しましょう。もしできるなら。本当に幸せな時だけでいいから。羨んだりひがんだりしないで、もちろん感謝を忘れたくはないけれど、自分勝手に奔放に輝くそれについていきたいのです。スポーツの試合なんかで集中力の塊になって、その単純なかたちのまま勝って喜ぶ笑顔には、強い力があるような気がします。でも沈んでいる時にそれを見たら、目をそむけたくなるのかな。やっぱり全方向に放射するんじゃない方がいいのかな。こう考えて、とうとうちゃんとした反論にはならないのですけど、気持ちを書き留めておきます。

ちょっと論点は違うけれど、創作でなく表現に関しては職人的な考え方も結構気に入っています。その時の自分の気持ちなど関係なく、技術的な研究によって客観的にある感情を演出するんです。例えば歌う時。悲しそうに歌うなどと言わずに、そんなの無理だから、母音の響きをどう変えたら悲しそうに聞こえるか、テンポを落とそうか、ほんの少しピッチを低くしようか、徹底的にレガートにするべきか、とひとつひとつ考えて作っていくんです。別に冷たいやり方なんかではない、その部分を悲しそうに歌いたい、と思った時点でその気持ちは生の、生きているものだと思うから。その時々の自分の感情とまったく切り離して意図的に感情を演じるというのは、文字通りの気分転換にもなっておもしろいなぁと思います。

先日梅の農家さんのところへ行った時、梅の実が熟すためには日本の梅雨の長雨が必要だときいて、はじめて梅雨ということばの意味を理解しました。先の詩は露のイメージの方が強いんだけれど、梅雨って梅を実らす雨だったのだ、と思うとちょっと嬉しい気持ちです。

2023/05/13

P.S.恥ずかしいので随時ちょっとずつ修正しちゃっています

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