「みいちゃんと山田さん」について思うこと。

「みいちゃんと山田さん」というマンガがある。(kindleで無料公開中。)

長らくの間、これを追っている身なのだが、在る時に友人にこの漫画を紹介してから、ずっと胸の奥につっかえた言葉を発しようと思う。

某日、僕はメタルギアソリッド(というゲーム)好きの友人と待ち合わせして、宴もたけなわの時点で深夜のマックにその漫画を見せた。
以後はその会話の記録である。

龍が如くと伊藤計劃を知っているならメタルギアソリッドも知ってる…と思いたい。

https://x.com/azuki_nene/status/1776512454438408249

始めに言うと、僕はオタク側の人間だし、著者はこんなこと書いてる人でもあるので、多分反りとかが合わない可能性もあると思う。だけど、休日のマックに集まった二人は、「みいちゃんと山田さん」について、オタクでしか解らないことを語り合った。

それがメタルギアのオタクでしか解らない、「ビッグボス」というキャラクターについてだった。

「ビッグボス」とは、メタルギアに登場するキャラクターで、勿論該当作品とは何のつながりもない。では二人のオタクは何について話したのか。
それは、作中内でキャラクターが「師を自らの手で殺した時の感情」と、「著者がみいちゃんを死なせてしまった時の悔恨」が似ているのではないか、ということだ。


あの時の私が、お前だったら…あんな過ちは起こさなかったかもしれない
私は…ボスを、この手で殺したときから、既に死んでいた

つまり、著者を創作に縛り付けているのは、「この感情」ではないか。
…即ち、みいちゃんが死んでしまった時から、作品と云う名の「内なる世界」に囚われているのではないか、というメタ的視点だ。
もう一つ、興味深い要素がある。「内なる世界」、つまり「リバティ」についてだ。
同じシーン内で、ボスは「この物語の敵たちは、自由を求めて闘争を続けたが、それらは何処まで行っても内なる自由(リバティ)でしかなかった、皆が世相やゲームに翻弄されてきた」と明かす。
その上で、最後まで戦ってきた主人公、スネークに「お前に与えられたのは「外」(アウトサイド)からの自由だ、この眼で外の世界を見ろ」と激励して物語は終わる。
つまり、俺たち二人が理解した事。
それは「みいちゃんはリバティという囲いの中で死んでいったのではないか」ということだった。

そして、道が違えば「”世相や抑圧から脱却された「外からの自由」”(フリーダム)を見る機会もまたあったのではないか」という結論に俺達は至った。
だから著者は、作品と云う形でミームを残すのではないか。
作品として世に残せば、いつの日か、「外(アウトサイド)に到達できる子供の存在が出てくるのではないか」……邪推だが、自分達はそう感じた。

…という事を書こうとして、深夜のマックで二人話したままで書けないまま日々が過ぎて言ったのだが、著者の方が「みいちゃん」の漫画を上げてくれたのをきっかけに、この誰に判るか分からない文を書こう、と思った。
またこれに関して何かあったら、俺と友人は二人で又マックで語り合いたいと思っている。その議論が何かになることを願って。

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