「みいちゃんと山田さん」の、もうひとつの自分
https://note.com/chairo711/n/nc1e052f88f35
に取り付けて、もう少し手記的な話をしたい。
に関する、自分自身の話。
前回はメタルギアソリッドというテーマになぞらえて書いたが、今回は自分の話だ。
拳のみ、勝者ありで書きたい。
この作品に関して、恐らく色々な解釈があると思う。
でも、それは多分現実的に考えて本当にある事だと思うし、「何ならよくある事」なのだろう。
恐らく物事にはそういった搾取、淘汰の周期があり、悪い意味で社会は選別され、振るいに掛けられた者だけが落ちていく仕組みだ。
俺自身、時たま自分の意思がままならない事は感じるし、不便にも感じる。そこら辺の話をしたらきりが無い程度には。…しかし、代わりとしてこれが書ける。まったくゴミみたいな能力だ。ならばゴミなりに活かそうとしてこの様だ。
では、何故そんな事をつらつらと並べ立てるか?同じじゃないか、と思ったからだ。
この物語の著者も生きづらさや世の中の煮凝りのような(二重の意味で)辛い現実を描く事を主題としているが、そこには何らかの使命感を感じる。
それには見て見ぬふりが、どうしてもできなかったのかもしれないし、描くことに何らかの意義を見ているのではないか、と直感だが感じた。それが能力ではないか、という事だと思ってる。
そこにあるのは、恐らく主観としてみた「わたし」と、あの少女、みいちゃんのゴースト。意思を残そう、という大層なことは恐らくなくて、そこにあるものをそこにあるだけ書きたかったのかもしれない。
結局、山田さん、あるいは「わたし」が生きづらさから脱却できることはあるのか。…恐らく解らない。だが何かがある、とは思う。
例えばの話をしよう。自分には著作が一つあり、今公募賞で選考中だ。
その中には自分を切り取ったような存在があるのだが、(あくまでフィクションといえど、)それを書き終えた時、別の視点を見れる様になった。
つまり、驚くことなのか自分が焼失したような感覚になったことがある。自分が焼き切れたような感覚があり、妙に冷静にそれまでの事を立ち返ることができた。ある種自己肯定だ。「みいちゃん」の著者が見ているものはこれではないか、という感覚がある。(もちろんそんなもの分かりようがない、というのも付け加える)
創作とは、自分の分身を残すこともあり、自分を使い切る行為なのかもしれない、とその時に感じた。「自分」の概念はチケットでもあると思う。
そして、ある意味これを書くことによって、私はその物語のなかで「タクシードライバー」のトラヴィスになりたかったのかもしれない。
https://www.amazon.co.jp/gp/video/detail/B00EWDE610/ref=atv_dp_share_cu_r
孤独を抱えつつも、労働者のトラヴィスは身を売る少女と話をする。
カフェで話をし、トラヴィスは少女を可哀想だと思い気にかけるが、その少女は何故自分が憐れまれているのかすら分からない。…両者の間には、絶対に埋められない格差があり、概念があり、環境の差がある。…つまり俺は、向こう側を見たいのかもしれない。
他者のいる視点から自分のいる位置を確かめ、観ること。それが重要だと思っている。…無論、助けられもしないし、恐らく何かすることなど不可能にも等しいだろう。
だから何かが変わる事を祈って書く。そんな感じだ。
誰が見るか、何の役にも立つか解らないが、書いている。
他者から見た自分の概念が、何かの役に立つことを願っている。行う理由なんてそんな感じだと思う。