日本的共創マネジメント090:「サムライPM」〜宮本武蔵 『五輪書』 (その20)~
⑤ -4. 風之巻 : (その 3)
2.武道としての武士道 (025)
⑤ 宮本武蔵 『五輪書』 (1645) (その 20)
⑤ -4. 風之巻 : (その 3)
今号では、下記の項目について述べる。
07 : 他流批判・目付け 《他流に目付と云事》
08 : 他流批判・足づかい 《他流に足つかひ有事》
09 : 他流批判・兵法の早さ 《他流にはやき事を用る事》
10 : 他流批判・奥と表 《他流に奥表と云事》
11 : 風之巻 後書
07 : 他流批判・目付け 《他流に目付と云事》
目付(めつけ)といって、それぞれの流派により、敵の太刀に目を付けるもの、手に目を付けるもの、顔に目をつけるもの、足などに目を付けるものもある。このように、特定の部位に目を付けようとしては、肝心なことを見失う恐れ《まぎるゝ心》があって、兵法のさまたげ《病》となる。鞠(まり)を蹴る者には、鞠をよく見ていないのに、難しい曲足《びんずり》を蹴り、背中で仕流《負鞠(おいまり)》しても蹴ることもできる。自在に蹴るのは、ものごとに慣れというものがあるので、しっかりと目で見るまでもないからである。曲芸《ほうか(放下)》などする者の業にも、その道に慣れると、扉を鼻の先に立て、刀を何本も手玉にとる。これらはすべて、しっかりと目を付けることはないけれども、ふだんに手慣れているので、自然に《おのづから》見えるのである。兵法の道においても、さまざまな敵と戦い慣れ、相手の心の軽重(けいちょう)を認識し、正しい方法《道》を行えるようになれば、太刀の遠い近い、遅い速いも、すべて見えるものである。兵法の目のつけどころ《目付》は、相手の心に目をつけなければならない。多人数の戦い《大分の兵法》でも同じで、敵軍の形勢《位》に目をつけなければならない。「観」と「見」、二つの見方があるが、観の目を強くして敵の心を見て、その場の状況《位》を見て、大局《大》に目を付けて、その戦いの様相《景気》を見て、その時々の変化《強弱》を見て、確実に勝つことが大事《専》である。多人数の戦いでも個人の勝負《大小の兵法》においても、細かい部分に目を奪われてはならない。細かく小さく目を付けると、それによって、大局を見忘れ《大きなる事をとりわすれ》、心に迷いが生じて《目まよふ心出て》、確実な勝利を取り逃がすものである。この道理《利》をよくよく吟味して、鍛練すべきである。
【解説】
目付(めつけ)とは、「目の付けどころ」という意味である。武蔵は、目付そのものに対しては否定的である。目や顔や太刀先や手といった特定部位に目を付けようとするのは、大事なことを見失う《まぎれる》恐れがあって、兵法の病になるという。ものの見方には、「観」「見」、二つがある。観の目を強くして敵の心を見、その場の位を見、大きく目を付けて、その戦いの景気を見、その都度変る強弱を見て、確かに勝つことを得ること、それが第一に重要である。この「観見二つの見様」というのは、水之巻「兵法の眼付と云事」にあった通りである。
08 : 他流批判・足づかい 《他流に足つかひ有事》
足の踏み方に、浮き足、飛び足、跳ねる足、踏みつける足、からす足などといって、いろいろと特殊な足つかいの方法がある。これはすべて、我が兵法から見れば、不足に思うところである。浮き足を嫌う理由は、戦いとなれば、必ず足は浮くようになるので、しっかりと確実に踏むことが正しい方法《道》である。飛び足を好まないのは、飛ぶときにそれにとらわれて居付く心があり、動作の自由を失うからである。何回も飛ぶ必要《利》はないのだから、飛足はよくない。また、跳ねる足は、跳ねるという気持があって上手く《捗(はか)》ゆかぬものだ。踏みつける足は、待の足といって、とくに嫌うところである。その他、小足で素早く動く足《からす足》や左足を軸足にした足つかい《左足(さそく)》など特殊な足つかいがある。湿原《沼ふけ》、山川、石原、細道などでも、敵と切り合うことがあるから、場所によっては、飛びはねることもできず、左足(さそく)を踏むことができない所があるものである。我が兵法では、足の踏み方に変ったことはしない。常に道を歩むがごとし、敵の拍子に応じて、急ぐ時でも、静かな時の態勢《位》で、足らず余らず、足が乱れない《しどろになき》ようにすべきである。集団戦《大分の兵法》においても、足のはこびは肝要である。その理由は、敵の意図《心》を知らず、むやみに早く攻撃にかかると、拍子がはずれて、勝てないものである。 逆に、出足がのんびりしすぎていては、敵に動揺《うろめき》があって崩れるというところを見つけられず、勝機を逃がしてしまう。敵が動揺し崩れるところを見わけたならば、少しも敵に余裕を与えないようにして勝つこと、それが肝要である。よくよく鍛練あるべし。
【解説】
足遣い、足の踏み方の話である。合戦の場では、からす足、さそく《左足》などを覚えても、実戦の役には立たない。武蔵が何よりも嫌ったのは、技巧に走ることである。
09 : 他流批判・兵法の早さ 《他流にはやき事を用る事》
兵法にあって、速いことにこだわるのは正しい道ではない。速いということは、何ごとでも、拍子の間(ま)に合わないということである。その道の上手になると、動作は早く見えないものである。たとえば、飛脚《はや道》では、一日に四十里五十里行く者もある。これも朝から晩まで早く走るのではない。未熟《ふかんなる》なる者が一日中走っても、捗(はか)が行かないものである。能楽《乱舞》では、上手がうたう謡曲に下手が付けてうたうと、下手は遅れる心があって、せわしい気持ちになる。また能の「老松(おいまつ)」を鼓で打つとき、ゆっくりした曲であるのに、下手はこれも遅れ、焦って先立とうとする。「高砂(たかさご)」は急な曲であるが、早く打てばよいのではない。「早きはこける」といって、間に合わない。もちろん遅いのもよくない。上手のすることは、ゆるゆるとみえて、しかし間が抜けないものである。どんなことでも、手慣れた《しつけたる》者のする事は、こせこせしたようには見えないものである。このたとえをもって、正しいやり方《道の利》を知るべし。ことに兵法の道においては、早いということはよくない。そのわけは、場所によって、湿原《沼ふけ》などでは、身も足も早く進められないからである。太刀はなおさら、早く切ることはよくない。早く切ろうとしても扇や小刀のようにはいかず、小手先で切れば少しも切れないものである。よくよく分別すべし。集団戦《大分の兵法》においても、早く急ぐ心はよくない。「枕をおさえる」というくらいの気持ちで、少しも遅いことはないのである。また相手がむやみに早くする場合などには、これに背(そむ)くといって、逆に緩慢になって、相手に同調しない《つかない》ことが肝要である。
【解説】
早さ、スピードを重視することに対する批判である。太刀使いも速度を重視することへの批判である。「早い遅い」ということは、拍子の間(ま)に合わないということであり、「はずれる」という意味である。つまり、拍子外れのことである。その道の上手になると、動作は早く見えないものである。早くても早く見えない、ゆるゆるとみえても間が抜けない、それが上手のすることである。「間が抜けない」とは、間に合うということである。兵法の道においても、早いということはよくない。これは戦う場所の条件によって、いくら急ごうとしても制約があるからである。集団戦《大分の兵法》にしても、同じであって、早く急ぐ心はよくない。「枕をおさえる」という心になれば、少しも遅いことはないと武蔵は云う。枕をおさえるというのは、何ごとであれ敵が思うきざしを示さぬ内に、こちらはそれを察知して、敵の「打つ」というその「う」の字の頭を抑えて、その後をさせないという意味である。
10 : 他流批判・奥と表 《他流に奥表と云事》
兵法において、何を「表」、何を「奥」ということができるのか。芸能においては、事あるごとに、「極意秘伝」などといって、奥義に通じる入口《表》はあるけれども、敵と打合うときの戦い方《利》においては、表で戦い、奥で斬るということはない。我が兵法の教え方は、初めて道を学ぶ人には、その業(わざ)の習得しやすいところを練習させ、納得のいく理《利》を先に教える。理解できない《心のおよびがたき》ときは、その人の心が理解できそうなところ《ほどけるところ》を見分けて、徐々に深いところの道理《利》を教えるのである。たいていの場合、状況に対応した実際的なことを覚えさせるから、奥だ表だと区別することはない。世の中には、山の奥を尋ねて行くに、もっと奥へ行こうとして、また山の入口《表》ヘ出てしまうことがある。何ごとの道においても「奥」が役に立つ場合もあり、「表」を出してよいこともある。しかし戦いの道においては、何を奥に隠し、何を表に出そうか、そんな奥も表も本来存在しない。したがって、我が道を伝えるに、入門誓詞《誓紙罸文(せいしばつぶん)》などということを好まない。そんなことよりも、この道を学ぶ人の智力を見抜いて、真っ直ぐな道を教え、兵法の五道六道の悪いところを捨てさせ、自然に武士の法《兵法》の真実の道へ入り、疑いなき心にすること、これが我が兵法の教えの道である。よくよく鍛練あるべし。
【解説】
「表」だ「奥」だと言う諸流派一切を否定する。芸能によっては、事あるごとに、「極意秘伝」などといって、奥と入口《表》を差別する風習はあるけれども、兵法の道で、敵と打合うときの利においては、「表」によって戦い、「奥」をもって斬る、ということはない。奥と表を分別するのは、極意秘伝が存在するかのごとき錯覚を与えるためであり、空っぽな空論に過ぎない。武蔵の実戦主義からすれば、戦闘原理のうちに秘匿し隠すべきものは何もないという。この徹底した開放性は、それまでの剣術諸流派の密教性、その中世的な密教性を根元から切り崩すものだった。「五道六道」とは、仏教において迷いあるものが輪廻するという、6種類の苦しみに満ちた世界のことであり、天道、人間道、修羅道、畜生道、餓鬼道、地獄道、を心の状態として捉える。たとえば、天道界に趣けば、心の状態が天道のような状態にあり、地獄界に趣けば、心の状態が地獄のような状態である、と解釈される。修羅を除いて五道と称すこともある。
11 : 風之巻 後書
他流の兵法を九ケ條として、風の巻にその概要を書き付けた。諸流派のそれぞれについて、入口から奥義に至るまで、定かに書いて明らかにすべきであろうが、わざと何流のどういう奥義《大事》とか、名とかを書き記さなかった。そのわけは、流派おのおのの見方、その道それぞれの言い分は、人により、また心にまかせて、それぞれに考えがあるものだから、同じ流派でも少々意味《心》が変るものである。それゆえ、後々までのために、何流の何筋とも書き載さなかった。他流の概略《大躰》を、九つに分類して、世の中の人々の行う業(わざ)を見れば、長い道具に偏向したり、短い道具を重視したり、強いことへ偏向し、荒い細かいということ、これらはすべて偏った道であるから、他流の入口だ奥だと明らかにしなくとも、すべて人の知っているはずのことである。我が流派においては、太刀に奥も表もなく、搆えに究極はない。ただ、心の正しい動きによって、兵法の効能《徳》をわきまえること、これが兵法の肝心である。
【解説】
風之巻の後書である。他流批判における視座を語っている。「他流の兵法を九ケ條として」というのは、既に述べてきた下記の九項目のことである。
02 : 他流批判・大きな太刀 《他流に大なる太刀をもつ事》
03 : 他流批判・強みの太刀 《他流におゐてつよミの太刀と云事》
04 : 他流批判・短い太刀 《他流にミじかき太刀を用る事》
05 : 他流批判・太刀数多き事 《他流に太刀数多き事》
06 : 他流批判・太刀の搆え 《他流に太刀の搆を用る事》
07 : 他流批判・目付け 《他流に目付と云事》
08 : 他流批判・足づかい 《他流に足つかひ有事》
09 : 他流批判・兵法の早さ 《他流にはやき事を用る事》
10 : 他流批判・奥と表 《他流に奥表と云事》
他流の概略を、この九つに分けて分析して見れば、長い道具に偏向したり、短い道具を重視したり、強いことへ偏向し、荒い細かいということも、すべて偏った道である。要するに、他流の欠陥とは、真っ直ぐな道からの偏向であり逸脱にすぎないということである。