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日本的共創マネジメント077:「サムライPM」〜宮本武蔵 『五輪書』 (その 7)~

宮本武蔵 『五輪書』 (その 7)

2.武道としての武士道 (012)
⑤ 宮本武蔵 『五輪書』 (1645) (その 7)
⑤ -2. 水之巻 : (その 3)
今号では、下記の項目について述べる。
04 : 眼の付け方 《兵法の眼付と云事》
05 : 太刀の持ち方 《太刀の持樣の事》
06 : 足の運び方 《足つかひの事》
07 : 五つの構え 《五方の搆の事》
08 : 太刀の道すじ 《太刀の道と云事》

04 : 眼の付け方 《兵法の眼付と云事》
・ 眼の付け方《眼付》は、大きく広く付ける目である。《観見》の二つの事、《観の目》は強く、《見の目》は弱く、遠い所を近く見、近い所を遠く見ること、これが第一《兵法の専》である。
・ 敵の太刀を知り、少しも敵の太刀を見ないということ、それが大事《兵法の大事》である。これを工夫しなければならない。目付けのことは、少数の戦いでも、大きな合戦でも、同じである。目の玉を動かさずに両脇を見ること、それが肝要である。このことは、急場になって、にわかに会得できるものではない。ここに書いてあることを覚えて、つね日頃、この眼付けになって、眼付けの変らないよう、よくよく吟味すべきである。
【解説】
 《眼付》とは、対象をどう見るか、という具体的な目の付け方の事である。これには「観の目」と「見の目」の二つがあるという。観の目とは、大きく広く、全体を観る目である。見の目とは、細かく狭く、部分を見る目である。この二重構造で、観の目は強く、見の目は弱く、近くであれ遠くであれ、対象に焦点を合わせて見ようと思うなという教えである。特定の対象に焦点を合わせ過ぎると、それに囚われ視野狭窄を生じ、そこに固縛されてしまうからである。《敵の太刀を知り、聊敵の太刀を見ず》も同様に、相手の太刀の動きを注視過ぎると、全体の動きが見えなくなる。視点を遠くに措いた方が、視界幅が大きい。視界幅が大きいということは、複数の相手との戦闘には必須である。

05 : 太刀の持ち方 《太刀の持樣の事》
・ 太刀の握り方は、親指と人指し指は浮かせた感じで持ち、中指は締めず緩 (ゆる) めず、薬指と小指を締める気持で持つ。持った手の内に遊びがあるのはよくない。
・ 太刀を持つといっても、ただ持っているだけということではいけない。何が何でも切るのだ《敵をきるものなり》と思って、太刀を取るべきである。
・ 総じて、太刀でも手でも、固着する《居つく》ということを嫌う。居つくのは死んだ手《しぬる手》である。居つかないのは生きた手《いくる手》である。よくよく心得ておくべきである。
【解説】
 武蔵の言う太刀の握り方のポイントは、
・ 親指と人差し指は、浮かせた感じで持つ
・ 中指は、締めず、緩 (ゆる) めず
・ 薬指と小指を締める気持で持つ
・ 握った手のうちに遊びがあるのはよくない
 この持ち方は太刀に限ったことではない。ゴルフ・クラブやテニス・ラケットなどの持ち方も基本的に同じで、棒状のものを握るにも五指それぞれの締め方がある。但し、漫然と持っているだけではいけない。何が何でも切るのだという覚悟で太刀を持てという。武蔵は何事にも固着する《居つく》ということを嫌う。水のように形態自由大小自在、まさしく固着を嫌うのである。手も太刀も固着は死であり、固着しない流動こそ生であるという。

06 : 足の運び方 《足つかひの事》
・ 足の運び方は、爪先を少し浮かせて、踵 (かかと) を強く踏むべし。足の使い方は、状況によって、大きい小さい、遅い速いはあっても、ふだん歩くのと同じように《常にあゆむがごとし》する。
・ この道の重大事として曰く、《陰陽の足》ということがある。これが肝心である。陰陽の足とは、片足だけ動かすことはしないものである。切る時、引く時、受ける時でさえも、陰陽といって、右、左、右、左と踏む足である。決して片足を踏むことはあってはならない。よくよく吟味すべきである。
【解説】
 足の運び方 (フットワーク) は、ふだん歩くのと同じように、右、左、右、左と交互に足を運べという。決して片足を踏むことはあってはならない。これを《陰陽の足》という。武蔵は、手のみならず、足でも陰陽の二天流であり、二元論者 (dualist) である。

07 : 五つの構え 《五方の搆の事》
・ 五つの構え《五方の搆え》は、上段・中段・下段、右の脇に搆えること、左の脇に搆えること、以上の五つである。搆えを五つに分けるとはいえ、どれも人を切るためのものである《皆人を切らむため也》。搆えは、この五つより外はない。どの搆えであっても、搆えると思わず、切るのだと思うべきである。
・ この道の大事として曰く、搆えの中心《極》は中段と心得るべし、中段は搆えの本来あるべきものである《かまへの本意也》。合戦に当てはめれば、中段は大将の座である《大将の座也》。その大将についで、残りの四つの搆えがある。よくよく吟味すべし。
【解説】
 五方の搆とは、上段・中段・下段、右脇に搆える、左脇に搆える、の五つである。この五通りの搆えに、すべては還元されるという。総じて、武蔵の教えはきわめてシンプルでオープンである。このシンプルで合理的なところが、武蔵の教えの特徴である。

08 : 太刀の道すじ 《太刀の道と云事》
・ 太刀のすじを知るというのは、常に自分が差す刀を、薬指と小指の指二つで振るときも、太刀の道筋をよく知れば、自由自在に振れるものである。太刀を早く振ろうとすると、太刀の軌道に逆らって、振るのが難しくなるのである。太刀は振りよい程に、静かに振るという感じにする。扇あるいは小刀などを使うように、太刀を早く振ろうと思うから、太刀の軌道がはずれて、振れない。それは小細工《小刀きざみ》といって、そんな振り方をすると人を切れないものである。
【解説】
 太刀を振るには、軌道というものがある。野球のバットでもゴルフのクラブでも同様、棒状のものを振り回すには、その軌道をよく心得る必要がある。軌道に逆らっては、早く振ることはできない。刀の軌道を十分会得できれば、自由自在に振ることができる。このように物事には合理性、合法則性というものがあり、それに合致したところに、「容易で自由 (easy and free) 」という武蔵の教えの極致がある。物理法則を把握する能力と理論の説得力がある。今日的に言えば、理系の頭の持ち主であった。

【余話】
「観の目」と「見の目」とはどういうことかというと、目で見るのを「見」、心 (体全体) で観るのは「観」ということである。われわれは普通、目で見て、耳で聞いていると考えている。しかし、われわれの目や耳というのは自分の好きなように見、好きなように聞いているだけで、それは全部エゴで見聞きしているわけである。目も耳も確実に客観をとらえていると思っているが、それは間違いである。どんなに見えても聞こえても、関心がないことは目に入らず、耳に入らない。そうなると、見るとか聞くとかいうことも、決して正しく行われているとは言えない。そのように曖昧な見聞きをあてにして、生死を掛けた戦いを挑んでは、勝つことは難しい。
 目で一ヶ所を見るのではなく、観で全体をそのまま把握するのである。心で見るのが根本であり、目で見るのは心の見た後でなければならない。さらに重要なことは、《遠き所をちかく見、近き所を遠く見る事》である。遠い離れたところもはっきりと見る訓練をしなければならない。近いところの敵の動きにだけ気がとらわれていると、遠いところは見えなくなる。敵の動きの全体をつかむことが肝要なのである。《近き所を遠く見る》というのは、すぐ前の動きにどうしても心がとらわれることを防ぐ意味でこのようにいう。相手の太刀が上段から下段にかわると、その変化にすべてが奪われてしまうようになる。すると心がそこに固縛されて、その他の全体の動きが見えなくなる。見の目ではだめで、観の目が必要な所以となる。《敵の太刀を知り、聊敵の太刀を見ず》ということが兵法の大事であると武蔵はいう。敵の太刀の動きや太刀筋を知ることは大切であるが、敵の太刀の動きに心がとらわれてはならない。太刀の動きだけを見の目で追い求めてゆくとき、全体が見えなくなる。これは何も兵法に限らない。どんなことをする場合にも、このことは重要なのである。
「PM論」的には、観の目とはプログラム視点であり、見の目とはプロジェクト視点と言える。見の目 (プロジェクト視点) だけで見ていては、目先しか見えなくなる。観の目 (プログラム視点) をとぎすましてこそ、遠いところが見えてくる。全体が見えてくる。未来が見えてくる。

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