日本的共創マネジメント082:「サムライPM」〜宮本武蔵 『五輪書』 (その12)~
⑤ -3. 火之巻 : (その 1)
2.武道としての武士道 (017)
⑤ 宮本武蔵 『五輪書』 (1645) (その 12)
⑤ -3. 火之巻 : (その 1)
戦いについて書かれている。勝つためにいかにすべきか、個人対個人も集団対集団の戦いも同じであるとし、戦いにおいての心構えが書かれている。戦いのことを火の勢いに見立て「火の巻」とされる。今号では、下記の項目について述べる。
01 : 火之巻の前文 《火之巻序》
02 : 場の優劣 《場の次第と云事》
03 : 三つの先 《三つの先と云事》
01 : 火之巻の前文 《火之巻序》
二天一流の兵法においては、戦いのことを火に見立てて《思いとって》、勝負に関することを火の巻としてこの巻に書きあらわす。
世に兵法者といわれるものの多くは、兵法の用(はたら)き《兵法の利》を末梢的な技巧にのみ走って《ちいさくおもひなして》、ある者は手首五寸(15cm)三寸(9cm)ほどの用(はたら)き《手くび五寸三寸の利》を知り、ある者は扇を手にとって、ひじから先《ひぢより先》の早い遅いの勝負《先後のかち》をわきまへ、または竹刀(しなひ)などで、僅かに早い技《はやき利》をおぼえて、手や足のうごきを練習し《きかせならひ》、小手先の器用さだけ《少の利のはやき所》を競おうとする。
これに対し我が兵法では、勝負に命をかけて《一命をかけて》打ち合い、死ぬか生きるかの道理《生死二つの利をわけ》知り、刀の軌道《道》を覚え、敵の打つ太刀の強弱を知り、太刀すじ《刀のはむねの道》をわきまえて、敵を打ち倒す《うちはたす所の》鍛練をする。それゆえに、小手先だけの小さな弱々しい技では、とうてい問題にならない《思ひよらざる所也》。とくに、武具《六具》で身を固めた実践の場などでは、小さな小手先のことなど考える《思ひいづる》こともできない。命がけの戦い《命をはかりの打あひ》において、一人で五人十人とも戦い、確実に勝利する道《其勝道》を知ることが我が兵法である。一人で十人に勝つことも、千人で万人に勝つことも、何の違いもない《しやべつあらんや》。よくよく吟味あるべし。
ふだん《常/\》の稽古において、千人も万人も人をあつめて、戦いの訓練をする《しならふ》ことはできないが、たとえ一人で太刀をとっても、そのときそのときの、敵の計略を見抜き《智略をはかり》、敵の強弱や技《手だて》を知り、兵法の智恵《智徳》をもって、万人に勝つところを極めれば、この道の達人となることができる。我が兵法の正しい道《直道(じきどう)》を、この世において、自分以外のだれが得るというのか、だれが極めるというのか、としっかり確信して《思ひとつて》、朝にタに鍛練《朝鍛夕錬》をつみ、技を磨きつくして《みがきおほせて》後に、おのずから自由を得て、奇跡的な力《奇特》で、自由自在の神通力《通力》をもつことができるようになる。これが武士として兵法を修行する心意気《息》である。
【解説】
「火之巻」の前文である。「水之巻」が太刀の扱い方を説明した基本篇であるのに対し、この火之巻は勝つためにいかにすればよいか、実戦における戦術や掛引きを教える応用篇である。「大分一分の兵法」という、個人戦から集団戦を横断する兵法の要諦を、具体的に指南する。火は風にしたがって、大きくなったり小さくなったりするのと同じで、合戦の道においても、一人と一人の戦いも万人と万人の戦いも同じであるとする。武蔵流は火のように燃えて戦う破壊的な戦闘術である、という基本思想とその実戦主義を説く。
02 : 場の優劣 《場の次第と云事》
場の位置を見分けるに、その場において「太陽を背にする《日をおふ》」ということが重要である。太陽を背後にして《うしろになして》搆えるのである。場所によって、太陽を背にすることができないときは、右の脇に太陽がくるようにすべきである。 屋内《座敷》でも、あかりを背にし、または右脇にすることも同様である。後方の場《うしろの場》が詰まらないようにし、左側を広くとり《くつろげ》、右脇を詰めて搆えるようにすべきである。夜間でも、敵の見える所では、火を背にし、あかりを右脇にすることも、前に同じである。敵を見下ろす《敵を見おろす》といって、少しでも高い所で搆えるように心得、座敷では上座(かみざ)を高い所と思えばよい。戦いになって敵を追い廻す場合は、自分の左の方へ追い廻す感じで、難所が敵の後にくるようにして、どんな場合でも難所へ追い込むことが肝要である。難所では敵に場の位置を見る余裕を与えず《敵に場を見せず》、敵がまわりを見わたすことができないように《敵にかほをふらせず》、手抜かりなく《油断なく》追い詰める《迫(せ)り詰める》という意味である。座敷においても、敷居・鴨居・戸障子・縁側《椽》など、また柱などの方へ追い詰める場合にも、敵にまわりを見させない《場を見せず》ということも、同様である。どんな場合でも敵を追い込む方向は、足場の悪い所またはそばに障害物《わきにかまひ》のある所など、その場の優位さ《徳》を利用して、場所の上で勝利《場の勝を得》を得る、ということが大切である。よくよく吟味し、鍛練あるべきである。
【解説】
戦いの場では有利なポジションを占めろという教えである。その第一は、太陽(光源)を背にする。太陽(光源)を背にすれば逆光になって、敵には見えにくいから有利である。第二は、左手に空間をとり、右手は詰めるようにする。攻撃は左手方向へ展開するのが基本である。従って、敵を自分の左の方へ追い廻す。第三は、場の位置は高いところを占める。敵の動きを見やすいので、高い場所に位置取りする。第四は、敵を難所へ追い詰める。敵がそれに気をとられて、戦いに集中できないような場所、敵にとって戦うに不利な場所に追い詰める。第五は、敵に場を見せない。敵に周囲の状況を把握する余裕を与えないように、間断なく攻め詰める。等々の場の次第は、合理的であると同時に、兵法の原則でもある。『孫子』(行軍篇)にも、「右背を吉、左背を凶とする」「死を前に生を後に(前方で戦い、後方は活路に)」という言葉がある。
03 : 三つの先 《三つの先と云事》
三つの先(せん)とは、「先手をとる」のことである。一つは、敵へかかっていく場合の先、これを「しかける先手《懸(けん)の先》」という。一つは、敵の方からかかってくる時の先手、これは「待ちの先手《待(たい)の先》」という。さらに、こちらもかかっていき、敵もかかってくる場合の先手、これを「仕懸け合い《かかりあふ》の先手《躰々(たいたい)の先》」という。これが三つの先である。どの戦いでも、この三つの先より外はない。先の取り方《先の次第》で、すでに勝利《勝事》を収めたと同然であるから《得ものなれバ》、先ということ《先と云事》が、兵法の第一である。この先の子細にはさまざまあるが、どの先をとるかは、その時々の判断《理(ことわり)》に適っているものを第一とし、敵の意図《心》を見抜き、我が兵法の智恵をもって勝つことであるから、細かく説明する《書分る》ことはしない。
第一「懸(けん)の先」。こちらから仕懸けよう《懸らん》とする時、最初は静かなままで《静にして居》、突然素早く《俄にはやく》かかっていく手である。身の動きは強く早くしながら、心に余裕を残す先である。また、自分の心をできるだけ強くして、足は常の足よりやや早い程度で、敵に近づくや否や、一気に激しく攻めたてる手である。また、心の乱れを払って《心をはなつて》、最初から最後まで《初中後》一貫して、敵を押し潰す気持で、あくまで強い心で勝つ手である。これらは何れも懸の先である。
第二「待(たい)の先」。敵が仕懸けてくる時、それには少しもかまわず、こちらの攻勢は弱いように見せかけて、敵が近づてきたならば一転、ぐんと勢いよく《づんと強く》攻撃に変えて、飛びつくように見せて、敵の攻勢の怯(ひる)《弛(たる)》むのを見て、一気に《直に》強く出て勝つことである。また、敵が仕懸けてくる時、こちらはそれよりも強く出て、敵の攻勢の拍子が変わったところにつけこみ《敵のかゝる拍子の替る間をうけ》、そのまま勝ちを得ること。これが待の先の勝ち方《理》である。
第三「躰々(たいたい)の先」。敵がすばやく仕懸けてくる場合、こちらは静かに強く応戦し、敵が近づいたところで、勢いよく《づんと》思い切った体勢になって、敵の怯(ひる)みが見えるとき、一気に《直に》強く出て勝をしめるのである。また、敵が静かにゆっくりとかかってくるときには、こちらは身を軽く浮かし気味に《うきやかに》なって、少し早くかかっていき、敵が近くなったところで、ひと揉み争ってみて《ひともミもみ》、敵の様子《色》に応じて、強く出て勝をしめること、これが躰々の先である。
以上の事は、細かく説明することはできない《こまかに書分けがたし》ので、ここに書いてあることから、自分で十分《大かた》工夫してもらいたい。これら三つの先は、そのときの事情や《時にしたがひ》、理(ことわり)にしたがって行うもので、どんな場合でも、こちらから先に仕懸ける《かかる》ということではないが、できることなら《同じくハ》、こちらから仕懸けて、敵を翻弄したい《自由にまはしたき》ものである。何れにしても、先(せん)のことは、兵法の智力によって、必ず勝ちを得るということであるから、これをよくよく鍛練あるべし。
【解説】
「三つの先」の先(せん)とは、「先手をとる」ということで、戦いのイニシアティヴをとることである。武蔵はこれを、三つのケースに分類している。
(1) こちらから、敵へ仕懸けていく先、「懸(けん)の先」(先々の先)
最初は静かにしていて、それから突然素早く仕懸ける。表面では強く早くするが、心は残す。逆に、心は強くして、足は平常の足より少し早い程度で、敵の間合いへ入るやいなや、猛烈に攻めたてる。心を捨てて、初めから最後まで同じように、敵を押し潰す気持で、徹底的に強い心で攻撃に出て勝つ。
(2) 敵の方から、こちらへ仕懸けてくる時の先、「待(たい)の先」(後の先)
敵の方が仕掛けてくる時、それには少しも相手にならず、こちらの攻勢が弱いように見せて、そして敵が近づくと対応を一変して、勢いよく強く出て、飛びつくように見せ、敵の攻撃の怯んだとき、それを見て、一気に強く出て勝つ。また、敵が仕懸けてくると、こんどは逆に、こちらは敵よりも更に強く出る。その時、敵の仕懸ける拍子の変化する隙間を捉えて、そのまま勝ちを得る。
(3) 敵もこちらも、同時に仕懸け合う時の先、「躰々(たいたい)の先」(先)
敵が早く仕懸けてくるとき、こちらは静かに、つまり急がずに、強く応戦し、敵が近づくと、勢いよく思い切った体勢になって出る、そこで敵の遅滞の見えるところを、一気に強く出て勝つ。また逆に、敵が静かに、ゆっくりと懸かってくる時、こちらは軽く浮いたようになって、敵より少し早く仕懸けていき、敵が間近になると、ひと揉み争ってみて、その敵の様子に応じて、強く出て勝つ。相手の出方の動静によって、こちらは逆の動静で応じるが、様子を見て強く出て勝つ。
この「三つの先」は、敵に対し戦いのイニシアティヴ《先》をとるという、戦闘における戦い方の戦術的教えである。その「先」は、こちらから敵を翻弄するように、思い通りに敵を動かす《敵をまわす》ようにやれという。《善く戦ふ者は、人を致して、人に致されず》(孫子:虚実篇)という教えの通り、戦さ上手は、敵を思い通りにはしても、敵の思い通りにはさせないということである。五輪書は説明が具体的で懇切であるが、言葉で説明するには限界がある。それらは各自それぞれが工夫すべきものである。
実技は何でもそうだが、ひとから与えられるのではなく、自ら把握し体得する部分が大きい。言葉はいわば中途半端な導きをするにすぎない。目と頭で読むのではなく、身体を動員しなければ読めたとは言えない。「PM論」における、ガイドブックの類も然りである。