日本的共創マネジメント087:「サムライPM」〜宮本武蔵 『五輪書』 (その17)~
⑤ -3. 火之巻 : (その 6)
2.武道としての武士道 (022)
⑤ 宮本武蔵 『五輪書』 (1645) (その 17)
⑤ -3. 火之巻 : (その 6)
今号では、下記の項目について述べる。
25 : 鼠頭午首 《そとうごしゆと云事》
26 : 将は卒を知る 《しやうそつをしると云事》
27 : 束をはなす 《つかをはなすと云事》
28 : 巌の身 《いはをの身と云事》
29 : 火之巻 後書
25 : 鼠頭午首 《そとうごしゆと云事》
鼠頭午首(そとうごしゅ)とは、敵と戦っているときに、細かいところばかりに気をとられて、もつれあうようになったとき、兵法の道を「鼠頭午首、鼠頭午首」と思って、細かな気遣いから、たちまち大きな心にかわって、局面の転換をはかることである。武士たるものは、平生、兵法の一つの心搆え《心だて》は、《鼠頭午首(そとうごしゅ)》と思うべきである。多人数の戦い、個人の戦いにしても、この心がけを忘れてはならない。よくよく吟味あるべし。
【解説】
「鼠頭午首(そとうごしゅ)」とは、「鼠の頭と午(うま)の首」のことである。気持を小から大へ切り替えろということである。鼠の頭が「小」、午の首が「大」である。戦いにおいて、急に戦闘モードを替えて、もつれた状況を打開しろという教えである。PM論的には、部分思考のプロジェクト観から全体思考のプログラム観へのシフトの必要性のことともいえる。
26 : 将は卒を知る 《しやうそつをしると云事》
将は卒を知るとは、だれでも戦いのときに、自分の思うがままになったら、たえずこの教え《将は卒を知る》を実践し、敵である相手を自分の兵卒だとみなして、自分のしたいように扱えばよいという教えである。兵法の智力を得て、敵を自由に動かす《廻さん》ことをいう。そこでは、我は将、敵は卒となる《われハ将也、敵ハ卒也》。工夫あるべし。
【解説】
「将は卒を知る」とは、敵を自分の兵卒、部下だとみなして、自分のしたいように自由に動かす、そんな心持で戦闘に臨め、という教えである。これは戦いのイニシアティヴ(主導権)をとるというよりも、ヘゲモニー(支配権)をとるという、もっと強い意味である。「将、卒を知る(将たる指揮者は部下の兵士のことを知るべき)」に似ているが異なる。
27 : 束をはなす 《つかをはなすと云事》
束《つか》を放すというのには、いろいろ意味がある。無刀で勝つという意味もあれば、太刀では勝たないという意味もある。さまざまな意味があるので、いちいち書きつくすことはできない。よくよく鍛練すべし。
【解説】
束《つか》を放すというのは、字義通りには、太刀の束を手から放すことである。刀なしで勝つという空手(くうしゅ)の技である。もう一方は太刀を放り出して、それ以外の武器で勝つということである。いづれも孫子以来の「不戦勝(戦わずして勝つ)」という古来の戦争訓にある。
28 : 巌の身 《いはをの身と云事》
巌(いわお)の身というのは、兵法の道を会得して、たちまち巌のようになって、どんな場合でも、斬られることなく、動かされぬようになる《萬事あたらざる所、うごかざる所》ことである。(口伝)
【解説】
これは五輪書の有名な教えのひとつである。「巌の身」は、巨石を我が身体とする教えである。《萬事あたらざる所、うごかざる所》というのは、攻撃を受けても、身体は動かず、しかも当らないという「見切り」のことである。一尺(30cm)、五寸(15 cm)の間合いで見切るなら、身体は動く。一寸(3cm)という間合いの見切りなら、身体が動いたようには見えない。「間合いを見切る」ということで、むだに身体を動かさないのが、上手の戦闘法である。
29 : 火之巻 後書
我が流派の剣術において《一流劔術の場にして》、たえず思いあたったことのみを書きあらわした。はじめて、この理論《利》を記したので、後先が混乱して書いたところがあって、詳細まで説明しきれていない。しかし、この道を学ぼうとする人のためには、心の道しるべになるはずである。私は若年の頃より、兵法の道に心懸けて、剣の技術については、一通りのことなら手も身体も余すところなく徹底的に試し、いろいろさまざまな心になって、他の諸流派も尋ねて見てきた。しかし、ある者は口先で屁理屈をこね、ある者は小手先の技巧を弄して、人目には見事なように見せているが、ひとつも真実の心にありはしない。このようなことを習っても、身体を鍛錬し心の修養をつんでいると思っても、このような見せかけの剣術では、まさに道の病となって、後々までもその悪い影響が消えず、兵法の正しい道《直道》は世に朽ちて、兵法の道の廃(すた)れる原因になる。剣術の正しい道というものは、敵と戦って勝つことである。この原則《法》が、いささかも変ることがあってはならない。我が兵法の智力を得て、正しい兵法の道を実践してゆけば、勝つことは疑いのないものである。
【解説】
火之巻の後書である。主として太刀筋について記述した水之巻と異なり、火之巻では、大分小分の集団戦について記している。武蔵は本書を、兵法を学ぶ若者の「道しるべ」になるべし、と思って書いたのである。剣の技術が真実の道になって、敵と戦って勝つこと、この原則がいささかも変ることがあってはならない。ということは剣の技術が真実の道にならず、敵と戦って勝つという第一義すら忘れられているということである。そこで、武蔵は改めてこれを強調している。PM理論で第一義とすべきは、プログラムマネジメントでは「価値創造(What to do)」であり、プロジェクトマネジメントでは「価値提供(How to do)」である。これを揺るがせては、PMの真実の道とはいえない。