日本的共創マネジメント076:「サムライPM」〜宮本武蔵 『五輪書』 (その 6)~
⑤ -2. 水之巻 : (その 2)
2.武道としての武士道 (011)
⑤ 宮本武蔵 『五輪書』 (1645) (その 6)
⑤ -2. 水之巻 : (その 2)
今号では、下記の項目について、述べる。
01 : 水之巻の前文 《水之巻 序》
02 : 心の持ち方 《兵法、心持の事》
03 : 身の持し方 《兵法、身なりの事》
01 : 水之巻の前文 《水之巻 序》
・ 兵法二天一流の心は、水を手本として、勝利の戦い方《利方の法》を実践するにある。よって、水之巻として、二天一流の太刀の使い方を、この書に書きあらわす。
・ 兵法の道は、細かく心のままに書くことはできないが、たとえ言葉はつづかなくとも、その利は自然と分かるであろう。この書物に記したことについては、ひと言ひと言、一字一字、深く考えてほしい。いい加減な理解では、道を間違えることが多いであろう。
・ 戦い方においては、一人と一人との勝負のように書いているところでも、万人と万人との合戦のことだと心得て、大きく見立てることが大切である。
・ この兵法の道に関するかぎり、少しでも道を間違え、道に迷いがあっては、誤った道へ堕ちる。この文書を読んだだけでは、兵法の道を会得することはできない。この書物に書いてあることを、自分のことだと受け取って、読むと思わず、習うと思わず、真似ると思わず、それを自分の考えで発明した、自分の戦い方にしてしまうことだ。つねにその立場になって、よくよく工夫すべし。
【解説】
兵法のような具体的なものは、身体を動員すること無くしては、理解出来ない。口で教えられても理解できない。見ているだけでは理解できない。実行してみてはじめてわかる。「教える・理解する」という言語関係に加えて、「学ぶ・練習する」という非言語的な身体的行為を必要とする。言語表現としての教本「五輪書」は、所与の「それ」を提示するに過ぎない。それを「これか!」と体得できるか否かは本人次第である。これは「PM論」においても同じである。教本としての「ガイドブック」は、所与の「あるべき姿」を提示するに過ぎない。それを「これか!」と体得できるか否かは本人次第である。日々の実戦を通じて、自分自身で発明発見し、自分流PMを確立したときが、教えを「我が物」にしたときである。
02 : 心の持ち方 《兵法、心持の事》
・ 兵法の道において、心の持ち方は、常の心と変ることがあってはならない。日常も戦闘の時も、少しも変らないようにして、心を広くまっ直ぐにし、きつく引っ張らず、少しも弛(たる)まず、心の偏 (かたよ) らぬように、心をまん中に置いて、心を静かに揺 (ゆる) がせて、その揺 (ゆら) ぎの一瞬も、揺らぎ止 (や) まないようにすること。これを、よくよく吟味すべきである。
・ 静かな時でも、心は静かではない。いかに早い時でも、心は少しも早くない。心は身に連動せず、身は心に連動しない。心に用心して、身には用心をしない。心に足らぬことなくして、心を少しも余らせず、表面上の心は弱くとも、底の心を強く、心を人に見透かされないようにする。体の小さい者は、心は大いなることをよく知り、体の大きい者は、心の小さいことをよく知って、体の大きい者も小さい者も、心をまっ直ぐにして、自分の身を基準にしない。そういう心を維持することが肝要である。
・ 心の内が濁らず、心を広くして、広いところに智恵を置くべきである。智恵も心も、しっかりと磨くこと、それが第一である。智恵を研ぎ、天下の理非を弁 (わきま) え、あらゆる物事の善悪を知り、さまざまな武芸の道を広く経験して、世間の人々に少しも惑わされないようにして、はじめて兵法の智恵となる。兵法の智恵においては、よく間違うことがあるものだ。戦場では、万事慌しい時であっても、兵法の道理を極め、動揺しない心 《うごきなき心》、これをよくよく吟味すべし。
【解説】
次に武蔵は、心の持ち方について教える。心の持ち方は常の心と変ることがないようにする。常の時にも戦闘の時にも、少しも変らないようにすべきである。心は戦闘の道具であり、道具としての心の扱い方、心の用い方を教える。表面の心を弱くして、底の心を強くするという、心の操作を語る。常の時にも戦闘の時にも、心を静かにゆったりとゆるがせる、そのゆるぎの一瞬もゆるぎやまぬようにする。そして、心を人に見透かされないようにしろという。
戦いに於いては、実践的な智恵が必要である。そのためには、心の内が濁らず、心を広くして、広いところへ智恵を置くべきである。狭い了見からは、物事を客観的に判断することができない。人間の判断はいつも、主観的偏見に縛られ、左右されている。どんな時でも、物事を客観的に判断するだけの、《うごきなき心》 をもつ必要がある。そのためには、さまざま経験をすることで、智恵を研ぎ、天下の理非をわきまえ、あらゆる物事の善悪を知ること、その善悪理非を自分で判断できるようにならなければならない。
03 : 身の持し方 《兵法、身なりの事》
・ 兵法の身なりと身の搆え 《かゝり》 は、顔は、俯 (うつむ) かず、仰向かず、傾かず、歪 (ひず) ませない。目を剥 (む) くような目つきはせず、額に皺を寄せず、眉の間に皺を寄せて、目の玉が動かないようにして、瞬きをせず、目を少し細めるようにして、麗 (うら) らかな感じのする顔である。鼻筋はまっ直ぐにして、下顎 (あご) は、少し前に出す感じである。首は、後ろの筋をまっ直ぐにして、頸 (うなじ) に力を入れて、肩から全身にかけてはつりあいを心がける。両肩を下げ、背筋を真っ直ぐにし、尻を出さず、膝より足の先まで力を入れて、腰をかがめないようにして、腹を張る。楔 (くさび) を締めるという教えのとおり、脇差の鞘 (さや) に腹を持たせ、帯の弛 (ゆる) まないようにする。
・ 総じて、兵法の身なりにおいては、日常の身を戦闘の身とし、戦闘の身を日常の身とすること、これが肝要である。よくよく吟味すべし。
【解説】
次に、身体についてである。身の搆え 《身のかゝり》 について、顔をどうつくるか、全身をどう整えるか、を教える。
・ 顔は俯 (うつむ) かない、上を向かない、傾けない
・ 顔を歪 (ゆが) めない
・ 目を剥 (む) かない
・ 額に皺 (しわ) を寄せず、眉間に皺を寄せる
・ 目の玉を動かないようにして、瞬 (まばた) きをしない
・ 目を少し細めるようにして、麗 (うら) らかな感じのする顔
・ 鼻筋はまっ直ぐにして、頤 (あご) には少し前に出す気持
・ 首は後ろの筋をまっ直ぐにして、頸 (うなじ) に力を入れる
・ 両肩を下げ、背筋をまっ直ぐ伸ばす
・ 尻を出さず、膝より足の先まで力を入れる
・ 腰が屈まないようにし、腹を張る
心も身体も戦いの道具である。従って、心の持ち方も身の持し方も、武器の一部としての存在でしかない。常の身 (日常身体) を兵法の身 (戦闘身体) とし、兵法の身を常の身としなければならない。
【余話】
武蔵に於いては、心も智恵も身体も、太刀や鑓と同じく、兵法の道具である。大工が不断自分の道具を磨くように、武士は日々武器を磨かなければならぬ。その武器が、心であり、知恵であり、身体である。それらを「常の状態」と「戦いの状態」とに違いがないように、日々研ぎ磨く必要がある。これが「朝鍛夕練 (ちょうたんせきれい) 」 (千日の稽古を鍛とし、万日の稽古を錬とする) ということである。常の状態「あるがままの状態」でこそ、相手と対峙するとき、最も十全に力を発揮できるからである。
次に、世間の通念や人にだまされないことが、兵法の智恵という。他人の判断に頼ることがなければ、人にだまされることもない。そのためには、思考と判断において、他人に依存しない、自立した人間になる必要がある。曇りなき心で、物事を客観的に判断する必要がある。あくまでも合理性を確保するために、心を濁らせるなという。
武蔵が生きた戦国時代は「個の時代」であった。個人として、自力で、絶対自力で、自分自身を守り、生き残らなければなければならなかった。あらゆる知恵と心と身体を動員して戦うのは、死ぬためではなく、勝つためだ。兵法 (戦い) の智恵とは、勝つための道具なのである。一切の甘えや曖昧さを排する、超合理主義者であり、超リアリストである武蔵ならではの、「武道としての武士道」の知恵である。これは「PM論」にても、学ぶべきことが多い。