日本的共創マネジメント063:「サムライPM」〜サムライ、武士、武士道(No.2)~
サムライ、武士、武士道(No.2)
前号では「1.サムライ」についてその系譜を辿りました。今号では「2.武士」について辿ります。
2.武士
21.武士の系譜
「サムライ」という言葉は、元来 「貴族に仕えて仕事をする」という意味であり、上級貴族に使えた下級の技能実務官人層を指します。そこから武芸を専門とする技能実務官人として「武官(ぶかん)」「武士(ぶし)」が登場します。
「武士(ぶし)」は平安時代に登場し、10世紀から19世紀にかけて存在しました。軍事を専門とし、棟梁(宗家)を頂点とした家族共同体を構成します。「もののふ」と読むこともあります。その軍事力をもって律令制を転覆し、古代社会を終焉させました。そして傀儡として旧来の政権を維持したまま、自らが実質的に主導する中世社会を出現させます。その後近世の終わり(幕末)まで、日本の歴史を牽引する中心的な存在であり続けました。明治維新では、武士という存在そのものを武士自らが廃し、近代の幕開けを実現しました。このように、古代の終焉から中世/近世の主導、更には近代の幕開けまで、日本の歴史に中心的な役割を果たしたのが武士という存在です。
22. 武士の起源
古代から中世の律令制下では、朝廷の行政機能は「家職」を継承する技能実務官人(サムライ)の「家」にアウトソースされていました。この行政機能には、算(経理)、明法(法務)、武芸(軍事)などが含まれます。この中で、武芸(軍事)を担当したのが「武官」であり、それが封建制下で「武士」にとって代わられます。武官と武士の違いは、「律令制の中で軍人として訓練を受けた、常勤の技能実務官人(公務員)」が武官であり、「律令制下の訓練を受けず、外部から導入された、新たな武芸を身につけた者」が武士と考えられます。従って、武士は律令制の武芸を身につけた者ではありません。武官が体制内の伝統的な勢力とすれば、武士は体制外の新たな勢力と見なすことができます。武官は「諸大夫身分(軍事貴族)」と「侍身分(一般武士)」に分かれます。在京の清和源氏や桓武平氏などが諸大夫身分で、その他大多数の武士は侍身分です。諸大夫身分は、受領(国司)や所領経営者を担う軍事貴族として勢力を拡大していきます。それに仕える技能実務官人が一般武士で、侍身分として支配階層の最下層を支えていました。
時代が下がって武士階層のすそ野が広がり、本来は百姓身分である「地侍」なども武士の扱いを受けるようになると、武士は「侍」と「徒士(かち)」に分かれます。侍は「上層の武士」を、徒士は「下級の武士」を指します。上層とは所謂「騎馬戦闘の権利資格」を有する武士ということです。17世紀に刊行された「日葡(ポルトガル)辞書」では、Bushi(ブシ)やMononofu(モノノフ)はそれぞれ「武人」「軍人」を意味し、Saburai(サブライ)は「貴人または尊敬すべき人」と訳されていることからも、侍が武士階層の中でも特別な存在であったことが伺えます。
23.武士の身分
江戸時代の武士の身分を「士分」といいます。既述したように、「侍(さむらい)」と「徒士(かち)」に分けられます。上層の武士としての「侍」が本来の武士であり、騎馬戦闘の資格を持ち、所領(知行)が認められた身分です。上士、騎士、馬乗りとも呼ばれました。旗本、与力、若党などもこの「侍」に属します。そして「侍」の中から、1000石程度以上の者は「大身(たいしん)」と呼ばれ、戦時では侍大将となり、平時では奉行職や側用人、家老等の要職を歴任するようになります。所謂「武門の家」を担う層です。一方「徒士」は所領(知行)が認められず、扶持米(ふちまい)をもらいながら徒歩で戦う武士で、下士、軽輩、足軽などとも呼ばれました。御家人、同心、手代などもこの「徒士」に属します。
このように三層構造からなる武士の身分をP2Mに照らして、「大身(たいしん)」をプログラムマネジャー、「侍(さむらい)」をプロジェクトマネジャー、「徒士(かち)」をプロジェクトメンバーと位置付けることも可能かと思います。
次号で下記について記述します。
3.武士道