日本的共創マネジメント089:「サムライPM」〜宮本武蔵 『五輪書』 (その19)~
⑤ -4. 風之巻 : (その 2)
2.武道としての武士道 (024)
⑤ 宮本武蔵 『五輪書』 (1645) (その 19)
⑤ -4. 風之巻 : (その 2)
今号では、下記の項目について述べる。
04 : 他流批判・短い太刀 《他流にミじかき太刀を用る事》
05 : 他流批判・太刀数多き事 《他流に太刀数多き事》
06 : 他流批判・太刀の搆え 《他流に太刀の搆を用る事》
04 : 他流批判・短い太刀 《他流にミじかき太刀を用る事》
短い太刀だけで勝とうとするのは正しい道ではない。昔から「太刀と刀」と云って、長いものと短いものということを区別している。一般に力の強いものは、大きな太刀でも軽々と振れるので、無理に太刀の短いのを使う必要はない。長い太刀の利点を活用して、鑓(やり)や長刀を持つからである。短い太刀で相手の振る太刀の隙間を狙って、切ろう、飛び込もう、つかまえよう、などと思う気持は偏っていて《かたつきて》よくない。敵の隙間を狙ってばかりいると、すべてが後手になり、もつれ合うようになる。短い太刀を使うのに習熟した者が、大勢の敵に対して、切り払おう、跳ぼう、廻ろう、としてもすべてが受け太刀となり、敵に振り回され、確実なやり方《道》ではない。我が流派では嫌うところである。我が身を強く真っ直ぐにして、敵を追廻し、飛びのかせ、うろたえさせるように仕懸けて、確実に勝つことが肝要《専》である。合戦《大分の兵法》においても、同じ道理《利》である。兵数《人数かさ》で圧倒して、敵に猛烈な攻撃を仕掛け、即座に攻め滅ぼす気持、それが兵法の肝心である。世間の人が兵法を習うのにいつも、受けたり、かわしたり、すり抜けたり、下に潜ったり、することばかりが習慣になっていると、心がそのやり方《道》に引きずられて、人にふり廻されるようになってしまう。兵法の道とは、真っ直ぐ正しいものであるから、正しい戦い方《正利》をもって、敵を追い廻し、従属させる気持、それが肝要である。よくよく吟味あるべし。
【解説】
「太刀と刀」といって、太刀は長い方、刀は短い方ということである。短い太刀を得意とする戦法では、間合い近く入身して、相手の振る太刀の隙をとらえて勝とうとする。そうやって相手の隙を捉えて勝とうと思う気持は、すべてが「後手」「受太刀」になり、本質的に消極的で、人にふり廻される戦法である。平生の行動や人間関係においても、かわしたり、すり抜けたり、潜ったりするような受身な行動パターンになっていると、心がそのやり方に引きずられて、人にふり廻されるようになる。正面から対決しない戦法を身につけていると、戦場では人に振り回されてしまう。兵法の道とは、正しい真っ当な戦い方によって、人を追い廻し、人を従えることが肝要である。我が身を強く真っ直ぐにして、「先」を取り、確実に勝つという戦法をとれという教えである。
05 : 他流批判・太刀数多き事 《他流に太刀数多き事》
太刀数を多くして人に伝える流派は、兵法を売物にして、太刀の使い方を多く知っていることを、初心者に感心させるためである。これは兵法において嫌う心である。その理由は、人を斬る方法がいろいろあると思うところに迷いがある。世の中において、人を切ることには、特別変った方法《道》はない。兵法を知る者も知らない者も、女子供であっても、打ち、叩き、切るということに、多くのやり方があるわけはない。場所により事情によって、上や脇などが窮屈なところでは、太刀の持ち方には「五方」といって、五種類があるだけである。それ以外に、数を増やして、手をねじり、身をひねって、飛んだり、身をかわしたり、さまざまのことをして人を切ることは、正しい兵法の道ではない。そんなことで人を斬れるものではない。まったく役に立たないことである。我が兵法においては、身も心も真っ直ぐにして、敵を歪(ひず)ませ、ゆがませて、敵の心のねじれまがったところをついて勝つこと、それが肝心である。よくよく吟味あるべし。
【解説】
太刀数を競って、それで有利な剣法だと錯覚させて、剣術を商売にする者がある。兵法の商品化のなかで、多数品種取り揃えるようになってしまったのである。敵を切る方法に数多くあるはずがない。場所により事情にしたがって、「五方の搆」があるのみである。
06 : 他流批判・太刀の搆え 《他流に太刀の搆を用る事》
太刀の搆えを第一《専》にすることは、間違ったことである《ひがごと也》。搆えるというのは、敵がいない場合のことである。定まった型をつくることは、勝負の道にはありえない。勝負の道とは、相手にとって具合の悪いように仕組むことである。どんなことでも、搆えということは、確固とした態勢をとるということであり、相手の先手を待つということである。城を搆えたり、陣を搆えたりすることは、相手に攻撃を仕懸けられても、少しも動かぬということをあらわしている。これに反して、兵法勝負の道においては、何事も先手と心懸けることが重要である。相手の搆えを動揺させ、敵の予期しないことを仕懸け、敵をうろたえさせ、むかつかせ、おびやかし、敵が混乱して拍子が狂ったところに乗じて勝つことであるから、搆えるという後手の心を嫌うのである。我が兵法の道では、《有搆無搆(うこうむこう)》といって、搆えあって搆えなしという。合戦《大分の兵法》の場合にも、敵の人数の多い少ないを認識し、戦場の場所に応じて、我が人数の態勢《位》を知り、その長所を生かして陣立てをし、戦闘を開始することが合戦の専である。相手に先を仕懸けられたときと、こちらが先を仕懸ける時とでは、その利・不利は倍も違う。太刀をよく搆え、敵の太刀をよく受け、よく張ろうとするのは、本来攻撃の道具である鑓長刀を、防護柵にしてしまうようなものだ。よくよく吟味あるべし。
【解説】
搆えるとは、城搆えや陣搆えのように、相手に攻撃を仕掛けられても、動かぬということである。それに対し、兵法勝負の道は、相手の構えを動かすことである。敵の搆えを動揺させ、混乱させ、その混乱するところに乗じて勝つことである。相手に先を仕懸けられた時と、こちらが先を仕懸ける時とでは、その利・不利は倍も違う。従って、搆えるという「後手」の心を嫌うのである。